2000年4月の分

2000年4月1日土曜日


●PKF、Sector West、Chief Commander, Grigadier Gen. Lewisの依頼で、TCWG(Tactical Coordination Working Group)に参加。At Bobometu, Oecussi District。ディリから、UN軍用ヘリ。7時15分発。乗客は俺だけ。まずSuaiに降り、Lewis下、PKOKiwi,UNMO、Civpolのヘッドが加わり、隣の県MarianaでPKFAuziが合流。一時間ほど兵舎で会議。それから一路Oecussiへ。西チモールの上空は飛べないので、一旦海上に出て、10時に到着。PKFヨルダン隊が出迎えてくれる。Oecussi県内、国境Bobometuまで車で移動。15分ぐらい待つと、西チモール側からTNIの面々が現れる。TNI西チモール統括、Djoko氏。PKFと提携関係にあるTNI432部隊統括将校。インドネシア西チモール警察署長など。おれは、Lewisに新メンバーとして紹介され、上席へ。●これはそもそも12月以来、TNIとPKFの緊張関係を緩和するために始められたMilitary信頼醸成会議。2週間ごとに東、西に場所を換えながら行ってきたもの。●議題。(1)Militaryだけで始められたこの会議をどうその他の民事を議論する場に昇華させるか。Civpol、インドネシア警察との提携を考える時期。ボーダーでの税関。Immigrationなどのこともある。Border Commissionの設立を提唱。その下に、TCWG(初志にそって),Trade Committee, Immigration Committeeなどを設立予定。特に警察間の協力は重要。(2)PKFからの事件報告。3月中に起こった、Militiaの進入事件など。(3)432部隊に加えて、502部隊(Covalima側)の配属に関するLogistics。(4)Neutral Trading Areaについて。Illegalであるが(そもそも法がまだ存在しないので何をもって不法と見なすかはなはだ危ういが)、西から東へ物資が既にトレードされている。Bobonaro県内に一箇所このTrade zoneがある。3月7日に殺傷事件あり。依頼、PKFAuzyが閉鎖。新しい場所でPKF監視の下、再開。(5)Military Boundary ("Border"とは違う)の再確認。ポルトガル統治時代の地図を使っていたパトロール中のPKFフィジー隊がBoundaryを超えてしまい、緊張関係あり。1984年製の(我々も使っている)25000分の1のものを使うことを再確認。(6)TNIからの事件報告。Boundary付近で西チモールから住民8人(男5名)がフィジー隊に逮捕されたことの背景の説明をTNIが要求。男5名は、Militiaであることが付近の住民の証言から判明、Detain中。女3名は西チモールへ送還。こういう逮捕は、Pro−Integrationだった難民が大勢残っているこの時期に、帰ることの不安を煽る材料になる。早期に説明して欲しい、ともっともな意見をTNIがのたまう。だからこそ、警察間の協力が今後重要になる。(7)これもTNIから。UNMOの将校が、非常にアロガントな態度でTNI将校に接した事件。UNMO、Maliana統括パキスタン人将校が、当の人物はこの責任を取り、Transferされたことを説明。TNI納得。●来週、水、木に予定されていた、SRSGデメロ氏のSuai訪問が、延期されたとの情報。エプリルフールかしらん。準備が進んでいたのに、住民、NGOにどう言い訳しようか。●それにしても、今日のヘリ。両サイドの大扉を開けたままで飛行。風を顔に受けながら、鳥になった気分。

2000年4月2日日曜日
●UNMOに向けてMilitiaが2発発砲。FatuMea辺りを偵察中、村人からMilitia発見の急報を受けてのこと。Militiaは、西チモール側に逃走。UNMOは銃を携帯しないから、非武装要員に対する初めての攻撃。これが、恣意的なものでないと良いが。

2000年4月3日月曜日
●事務所内スタッフミーティング。Line Manager とSectoral Coordinatorの役割の混乱。すこし明確に出来たか。●アイルランド人の新任UNV到着。Financeのバックグラウンド。退役軍人。赤十字やConcernのスタッフとしてルワンダ、カンボジアなんかにいたそうだ。よくやる。

2000年4月4日火曜日
●ガンビア人の新任UNV到着。年は50くらい。NYで国連代表部に勤めていたそうだ。●PKF、UNMO、CivPolとの会議。少しはChairする貫禄が出てきたか。西チモールからの難民受け入れの問題。先月の問題定義が、Diliレベルでの合意書にまで影響を及ぼした。Proactiveなアプローチの典型的な成功例。これからもProactiveで行こう。●夜6時に、英国政府のDelegationのインタビューを受ける。少しまくし立て過ぎたか。まだ着任以来3週間目なのに、はったりをかませる自分が怖い。


2000年4月5日水曜日
●UNTAETの3人のスタッフがボーダー付近で誤って西チモール側に侵入。ことの重大さが分かっていなかったらしい。この3人は、電気技師とキャンプマネージャー。Saleleボーダーにボーダーコントロールの事務所となるプレハブ建設の下見に出かけた。知らずに進入してしまったらしい。●もっとアホなのは、夕方、UNMOのパトロールに便乗したCivPolも知ってか知らずか、西チモール側に進入、車が故障し立ち往生。レスキューの無線をSecurity Officerと俺が探知。すぐにCivPol Commandarに連絡。(彼は無線を傍受していなかった…)。UNMOは、Impartialの立場が建前だし、武器を携帯していないから、ボーダーの一定距離を行動可能。しかし、CivPolは別だ。ピストルを携帯している。TNIに見つかっていたら外交問題だ。●上の写真は、Saleleでのミーティング。ここのZonal Leaderは、なかなかの人格者だ。俺は演説をぶる。Military under Civilian ControlとCivil Administration to be non-politicalの2点。俺もよく言うよ。


2000年4月6日木曜日
Subdistrictのひとつ、Fohoremに行く。フィリッピン人の神父が頑張っている。底抜けに明るい。●これは、伝統的織物。●Leave中のUNVが帰還。全て顔ぶれが揃う。大したチームだ。午後6時から、ミーティング。車の配分でもめるが、明るい。●USAIDのTEP(Temporary Employment Project)。約1千万円のDistrict Adminitratorが自由に動かせるバジェット。たいした発想だ。とにかくQuick。道路整備など、Labor Intensiveなものなら何でも。とにかく働かせ、その勤務レコードを取っておくだけで、1ヶ月後にDisbursement。これで、UNTAETが何かやっていることをDemonstrateできるプロジェクトがやっとできた。本当に、口ばかりではしょうがない。


2000年4月7日金曜日
●国境近くの山奥にあるPKF拠点地、Belulik Letenに軍用ヘリで飛ぶ。ボーダー警備のブリーフィングを受ける。先日、UNMOが発砲されたFatumeanはここから車で10分。ここのPratoonはニュージーランド隊。全ての村を1日ないし2日に一度通過するぐらいの歩兵によるパトロール。よくやっているが、やはり、村で何かが起きても、PKFが探知するまで最大1日かかる。庶民に手が届く通信インフラがない状況では、これが限界か。●こんどのヘリは、ベトナム戦争映画に良く出てくる奴。そもそも両サイドに扉が無く、機銃が装備されているだけ。座席も無い。床に簡単なベルトがあり、それで体をくくりつけ、両足を外にぶらぶらさせて、デッキに座る。トラックの荷台に腰掛けている感じ。風で靴が飛ばされそうになる。操縦士、気を利かせてくれて、ボーダーすれすれまで飛んで、TNIをあざ笑うかのように急旋回。地面が真下に。究極のスリル。●CNRTによる暴力沙汰を良く耳にするようになる。Pro-integrationもしくはMilitiaの夫を持つ(男達は西チモール在)の婦人達に対する暴行、レイプ。今日、PKF security briefingにおいてリポートされたのは、Liquica県で起った事件。なんと、一人の女性の乳首を切り落としたそうだ。同じ悲劇が繰り返される兆候か。CivPolは、まず力不足であることと、CNRTへの政治問題を気にしてなかなか起訴できない状況だとか。CNRT本部も、総選挙を前にしてか、地方で同朋が起こしている問題に対して及び腰。俺の県で同じことが起ったら、どう対処しよう。幸いPKFの中でも優秀なニュージーランド隊の存在のお陰で、今のところ静か。


2000年4月8日土曜日
●やはり軍人はアホか。4月5日に、UNMOのChairで、CNRT Cova Lima支部と西チモールのMilitiaもしくはPro-integration派住民組織を名乗るUNTAS(UNTAETと酷似。馬鹿にしている)との間のRound TableをSaleleボーダーの橋の上で開いたらしい。PKFAuzは参加したが、UNTAET行政部つまり俺に何の報告もなしに開いたのだ。ここまでなら、まだ許せる。UNMOは、非武装中立の立場のObserverだから、Chairするのは理にかなっている。許せないのは、たまたま今日手にしたこの会議のMinutes。ChairmanのUNMO Cova Limaヘッド、Lt.Col Mark Waltonが、UNTAETを代表しているみたいな発言をしていること。もっとひどいのは、このMinutes、UNTAETのレターヘッドを使っており、あたかも俺のオフィスから発行したみたいな体裁。これは卑怯。それと、悪意に利用すれば、あたかもUNTAETが正式にUNTASの存在をAcknowledgeしたみたいになる。こんなProfessionalismも理解できないほどアホなのか。早速、正式文書をWaltonに宛てる。DAである俺が、Sole Representativeであること。反応が楽しみ。これを、軍人に対してCivilian Controlの権威を示す戦略のきっかけにうまく利用しなければならない。●Filipe君が頑張って、USAIDから寄贈されたサッカーボールで、サッカー大会を開催。途中で、スタッフも参加。大いに住民を楽しませた。良いアピールになった。若者をなんとか動員しなければならない。さもないと暴力集団にどんどん取りこまれてしまう。

2000年4月9日日曜日
●参った。Districtに一つしかない元県立病院。MDMフランス(NGO)によって運営されているが、何と約30名の地元スタッフ全員が昨日からストライキ。全く機能しなくった。CNRTの幹部によって報告される。原因は、フランス人医師と看護婦4人による言動。Dignityを損ねる言動をしたらしい。●UNTAETも外人、このNGOも外人。外人と外人が共謀している印象を与えたらUNTAETの評判もそこまでだ。UNTAETは、東チモール人の側に立つ行政機構だ。NGOを監視する立場になくてはならない。だから、何よりもまず地元スタッフと面談したいとこのCNRT幹部に打診。それも月曜日の早朝にDiliに発つから、今日中にある程度の決着を強調。●このCNRT幹部。家族に犠牲者が出た、かなり思いつめた感のある、しかし、着実に政治的基盤を築きつつある若手のホープ。どうも、俺とUNTAETを試していると思える。こやつ、なかなか策略家だ。●夜7時、ストライキ中の地元スタッフ12名と病院のコンパウンドで会う。ほとんど、MDMとConfrontする用意万端。MDMとやりあわなけりゃ意味が無いと主張する。鼻息が荒い。そこで、何とかボパティ(知事)である俺の顔を立てて、まず俺と話ししろと説得し、開始。2時間議論。どういう理由であれ、Aid Workerとしてあるまじき状態を招いた責任は全てMDMにあると俺の考えを主張。ボパティは、NGOに活動停止させる権限あり。そうしたいの?と迫る。UNTAETの知事として、なんとか信頼感は勝ち取れたと判断する。彼らの側から、明日、MDMとの対決の場のMediatorをやってくれと頼まれる。快諾。やれやれ。

2000年4月10日月曜日
朝9時からUNTAET事務所で昨日約束した調停会議。スタッフキッチンを使う。(事務所を移転したら絶対に大会議室を造らなければ)。地元スタッフ総勢24人。CNRTから幹部2人。MDMのMission HeadもDiliから朝の定期便で駆けつける(なかなか貫禄あるイタリア人紳士)。MDM側からは、問題の焦点になっている4人の医師、看護婦(全員フランス人)。通訳に、UNMOのAjaya氏(マレーシア軍将校。バハサに堪能)。●Chairmanとしてまず口頭演説。昨日の内容のサマリー。UNTAETのスタンス。国際NGOのあり方。現地政府(現在はUNTAET)と国際NGOの関係のあり方。次、CNRT。東陶と24年間のインドネシア統治下のHumiliation。どうして、独立後になってもAid OrganizationによってHumiliateされなければならないのか。など。次、地元スタッフ代表。MDMは組織として良い仕事をしている。ただ、スタッフ全員はこれ以上絶えられない。外国人スタッフだけでやってくれ。など。昨日より、少しトーンが下がっている。昨日、会議を開いておいて良かった…。●次、MDMのMission Headの発言。これがまずい。スタッフ決起後、ある程度の騒動、少しの備品を壊す程度、があったと聞いていたが、なんと彼、Vandalismと定義。地元スタッフの顔こわばる。(どうして素直に謝れないのか…)。これに加えて、この会議をさっさと切り上げて明日MDMのGlobalな活動目的について話し合おう、などとトンチンカンなことを言う。地元スタッフは色めきたつ。ここで俺、さえぎる。DAとして、うわさとして聞いている破壊行為については、この事実をAcknowledgeしない。(かなり、無理な発言だが、功を奏した)そして、この会議で決着を付けない限りMDMと地元スタッフだけの会議は認めない、ときっぱり言う。●この後、やっとこのフランス人紳士から謝罪の言葉を引き出す。その後、続いてやっと問題4人の内一番槍玉にあがっていたフランス人スタッフが発言。言い訳の後、謝罪らしき言葉。すかさず、俺、Rephrase。●MDMの組織の長と、問題を起こした個人の謝罪があったのだから、この他にどんな処置が欲しいのか、と地元スタッフに矢を向ける。CNRTの幹部を中心にざわざわとテトゥング語で5分ほど会議を許す。スタッフ代表が発言。問題の4人をTransferしろ。それを条件に即日業務開始に同意すると言う。●MDM代表に答えさせる前に、地元スタッフ側に確認する。俺は知事の権限で、このUNTAET事務所内にLabor Officeを正式に設け、地元職員の苦情にいち早く対応する制度を作ること。そして、これも知事の権限でMDMに週に一回、地元スタッフとの意見交流会議を開き、今後3ヶ月間、その議事録を俺に提出することを命じる。この2つの条件をもって、20数年間忍耐の時代を過ごしてきたのは十分承知しているが、ここで一つ、この問題の4人に、もう一度改善するチャンスを与えてやってくれないか、と頼む。●地元スタッフ、また、テトゥング語で頭を突つき合わせる。●知事を信用して同意する、という言葉を引き出す。(やった。もう一息)。でも、最後に2つMDMに守らせたいことがある、と言う。まず、技術的なミスで失敗を指摘する時は、大勢の患者の目の前でやらないでくれ(当たり前だ)。それと、女性MDMスタッフは、ショートパンツなど余り無礼な恰好で患者に接しないでくれ(地元社会をここまで馬鹿にしていたのか…ガクッとくる)。●そんなこと、MDMに確認しなくても、有無を言わせず知事の権限で命令する、と俺。MDMも文句無しの意思表示。●これで一件落着。即時に就業開始ということで、MDMと地元スタッフの握手交換。やれやれ。●この後、真っ先に、MDMミッションHeadから握手を求められる。ずっと会議を傍聴していたUNTAETスタッフからも祝福される。ボパティの貫禄を見せつけた。良かった。この成功に調子に乗らず、堅実に行こう。●調停会議後、車に飛び乗り、DA会議の為にDiliへ向かう。Dili Palm Hotelに滞在。

2000年4月11日火曜日
DA会議in Dili。DAの意見がないがしろにされてきた鬱憤は分かるが、その他のDistrict Administrator達、特に白人DA達のAggressiveさは、Power Hungryとしか思えなくなってきた。●チモール人をUNTAET内の主要なポストにDeputyとして雇用するEast Timorese Deputy(ETD)の話題(UNTAETの"Timorization"の一環)ETD-District Administratorのアイディアにも楯突く。もちろん、こういうSensitiveなアイディアをDAに相談する前にメディアに発表してしまうSRSGデメロ氏も問題だが、その選考にDAを噛ませろだの、CNRTの幹部がなったらPublic AdministrationがPoliticizeされてしまうだの、それが元で新たな政治闘争が起こるだの、いらぬ心配ばかりする。これは、いやな傾向だ。政治的闘争なら今の内に混乱を招くほうが、UNTAETの最終Phaseになってそれが起こるより、よっぽど良いではないか。なにより、自分のSuccessorの選考に自分の意見を入れろとは、行き過ぎだ。自分の個人経営の会社ならともかく、Successor選びには、絶対に前任者のBiasを入れない方法を考えるのが筋であろう。これは、「典型的なArrogance of Western Charityだ。つまり、慈善心を装って出来るだけ長く寄り添おうとする。この辺が、UNTAETがNGO化している問題の典型だ。いやだ。」っと、こういう発言をしたら、シーンとなった。俺と他のDAとの間に亀裂が走ったかな。

2000年4月13日木曜日
DiliからSuaiへ帰還。雨、雨、雨。帰ってきたら、宿舎が水浸し。皆のテント、マットレスは水浸し。一人のスタッフのマットレスは、本当に浮いたらしい。俺のテントは、スタッフが気を利かせてくれたのか、全く濡れず、安全な場所に移してあった。ありがとう。●帰ってくる道中、橋の土台が崩れて道路が半分陥没して無くなっていた。ここの雨はものすごい。俺の車の後を1時間後に通ったスタッフの話では、もう4分の1ぐらいになっていたとの話し。明日からは、このルートはしばらく使えなくなるだろう。もう一つのルートは国境近くを通るもの。少し心配。●Suaiへ立つ前。UNTAET本部、Infrastructure部道路部門へ。昨日、DFO(District Field Officer)の一人、ネパール人のPradeepから電話。本部がDistrictに何の連絡もなく雇った道路整備のDawinの建設業者が、地元労働者への賃金を巡って問題を起こしていること。これは、4千万円ぐらいのコントラクトという話しだが、どうもグレーな部分が多すぎる。まず、競争入札があったか、無かったか。何の連絡も無い。この県では、地元NGOの一つであるTimor Aidをはじめ、PKF建設部隊との連携により、このコントラクトと同じ内容のプロジェクトがNGOのFood for Workによって行われており、値段も約半分。どうして、業者に委託する必要があるのか。Food for Workは、UNTAETが定めた最低賃金、20000ルピア(約3ドル)・日によって行われており、この業者は15000ルピアしか払ってこなかったこと。●やばいのは、ここのNGOの間では、もう既に黒いうわさが立っていることだ。●驚いたことに、道路部門は、この問題に気付いているものの、全く情報公開を行っていなかったこと。本当にこいつら、プロ意識があるのかしらん。

2000年4月14日金曜日
昨日の道路整備を巡る業者の件。10人ほどの若者が、賃金に関するいちゃもんをつけて、業者のキャンプ地Zumalaiに押しかけ、投石をしたらしい。この通報を受けてCivPolが急行、事情聴取。どうも、CNRTが裏にいるらしい。病院のストライキといい、この事件といい、県民のフラストレーションを煽っている節がある。●Cova Lima県、午後3時ごろ、ボーダー内で、パトロール中のPKFが6人ぐらいのMilitiaと遭遇。Militiaは、数発発砲後逃走。カラシニコフによるものだったらしい。●午前は、PKF、UNMOs、CivPolとの会議。俺は再度、Military under Civilian Controlは、PKF本部が非常に熱心に推し進めているポリシィだと強調。District Security Councilの創設の同意。PKF,とUNMOは、District Administrationを馬鹿にしてきてのか、Commanderではなく、Liaison Officerをずっと会議に送ってきた。これを次回から改め、従わなかったら、PKF本部に正式抗議すると、ほのめかす。かなり利いた。来週が楽しみ。●午後は、2時から6時までCNRT幹部との会議。やっとIce breakingした感じ。笑顔が見えた。それというのも、District Advisory Council(県政評議会)を正式に立ち上げる話しをしたこと。つまり、これからは彼らが県政において何かを"決定"する主体になることを強調。とにかく、CNRTはデリケートに扱わなくてはならない。

2000年4月15日土曜日
PKF Kiwi Battalion主催の夕食会に招かれる。PKFは、6ヶ月おきにBattalionの入れ替えがあり、新しいCommanderの紹介のため。制服一色。私服は俺だけ。ちょっと気後れする。夕食会は、来賓の紹介から。DAとしての俺がまず最初に紹介される。(このへん、PKFもちょっと気を遣い始めたか…)。新しいCommanderは、ウガンダ生まれと言うNew Zealand人。なかなか民間っぽい男だ。●スタッフの問題。FAO(Field Administrative Officer)は、いわゆる100series、国連Permanentスタッフだ。名目上はDAにリポートしているが、やはり、生粋のコマンドライン、CAO(Chief Administrative Officer) in Diliから直接指示を受ける。とにかく、このコマンドラインが、国連の全てのAssetsの管理を行う。我らがFAOは、身長2メートルはある初老のケニア人。俺のことをSir、Sirと、年寄りの召使が若い主人に仕えるように振舞ってくれる無口なジーサンだ。彼が、何と俺よりも若いUNVの小僧達3人と喧嘩状態。ネパール人と、南アフリカ人(この二人は恋人関係)、それとウガンダ人嬢。非常に活発な3人だ。ネパール人が公用モバイルフォンの使用を巡ってFAOと口論。100SeriesはUNVを差別している、と毒づいたらしい。これで、FAOは激怒。ネパール人だけでなく、積もり積もったこの3人の軽薄さ、彼らにAssignされた国連assetsの管理の幼稚さ(ウガンダ人嬢は、ラップトップを雨に濡らして故障させ、俺に知らせるのが怖くてFAOに秘密に修理を頼んだらしい)を、俺への正式リポートとして暴露。それはないだろうと、この3人。こんなことまで調停しなければならないDA業。3人へキツーイお叱り。FAOへは、この後この手の報告は早期に口頭で行うよう、それと例のリポートは不問に付す、で一件落着。この騒動で、約5時間のロス。やれやれ。


2000年4月18日火曜日
TCWG(Tactical Coordination Working Group) at Batugade。北側の国境の町だ(東チモール)。朝7時にSuai Airportから軍用ヘリで飛ぶ。●顔ぶれは、前回とほぼ同じ。TNI側は、Lt.Col Djoko, Lt.Col Pontoh, Commanding Officer BN 432など。Chairは、Brigadier Lewis (Sector West PKF)。UNTAET Border Control Unitからも代表者。●まずは、軍用ヘリの領域侵犯から。これは、UNTAETが悪い。あまりにも多すぎる。TNIからキツーイ苦情。●UNTAET CivPolとPOLRI(インドネシア警察)との提携の強調、確認。まずは、西チモール側で起こった18頭の水牛の盗難事件から。犯人は東チモール側へ逃げたらしい。がくっとくる。●目新しい議題は、Border Riverの水利権の問題。昨年度、Referendumの前、インドネシアは、大規模な灌漑計画を立ち上げたらしい。TNIは、この計画を続行するため最終調査を行いたい旨を打診。俺も発言に加わり、第二のヨルダン川になる恐れを強調。インドネシア政府とUNTAETの間で水利権の交渉を経てからではないと危険過ぎる、ということを確認。Bri. LewisとDA Bobonaro、DA CovaLima(俺)、がUNTAET HQにアクションを起こすことを同意。●午後1時に、再びヘリで帰る。午後、すごい雨。いつまで雨季が続くのやら。


2000年4月19日水曜日
UNTAET副代表の高橋さんが来る。朝9時から午後3時までの時間を組む。まずは、UNMOによるMilitary Briefing。その後、PKFの軍用ヘリで国境近くのFatumeanへ。300人以上の人が出迎えてくれる。これは、DFOのAfzalのおかげ。彼はパキスタン人の元高級官僚。UNVだ。さすがCNRTや地元政治家の心を掴むのが早く、このFatumeanは、一番僻地の村でUNTAETは手薄だったのだが、もうこの動員力。もう60近くの老人なのに、たいしたもんだ。●俺にとってもここのTown Hall Meetingは第1回目。初顔見世だ。高橋さんは、話しべただが、その誠実な人柄が好評だった。

2000年4月20日木曜日
朝から、European CommunityのDelegation20人(中には"大使"の肩書きも)ほどの来訪を受ける。どうも、最初から何かをEstablishしようとする腹だったらしい。ECから支援を受けているMDMの発案で俺のオフィスで会議を設けたのだが、CNRTの出席のことは何の了解もなし。(別に、CNRTが出席して悪いと言うことはないが…)。どうも、こやつらの態度から、UNTAETがCNRTをないがしろにしているというシナリオを書きたかったらしい。しかし、同席したCNRTの幹部は、(このEC連中の期待に反して)UNTAETとのCollaborationはうまく行っていることを強調。ざまーみろ。しかし、アロガントな連中だった。

2000年4月21日金曜日
午後すごい雨。ついにSuaiとSaleleボーダーを結ぶ道路の橋の一つが決壊。通行不能。PKFは、決壊場所で車両の交換という手を使って何とかコミュニケーションを維持。●新しいUNVが到着。ギニアビサウ人。元兵士。Logisticが専門だと言う。どう使おうかしらん。

2000年4月22日土曜日
●朝、事務所の鉄製の金庫を開けたら、シロアリがいっぱい。水抜き穴から進入したらしい。あやうく現金1万ドルと200人以上の学校教師の手当てが食べられてしまうところだった。油断も隙もない。こんなんで盗難届けを出したら冗談にもならない。

2000年4月23日日曜日
ポルトガルの首相が来る。50人のDelegationとグスマオを引き連れて。馬鹿らしい。本当にこの国ポルトガルはアホだ。そもそも東チモールの悲劇の元凶だろう。このDelegation、UNTAETに何の連絡もなし。UNTAET HQのふがいなさもさることながら、今更この国の救世主を気取ったってどうなるの。UNTAETが何もしていないというプロパガンダをもう始めているらしい。同行のRamos Hortaは、Suaiの町を一瞥しただけで、ここではUNTAETは何もしていないとスタッフの一人(モザンビーク人)にこいたらしい。ポルトガル人との混血であるというこの人物は、ポルトガルに忠誠心を見せることでIdentityを保持しているのか。その忠誠心の確立の為にUNTAETを批判。だんだん構図が見えてきた。●しかし、こんなハイレベルのCNRT幹部でも、UNTAETがAid Organizationだと勘違いしている節がある。現地政府がポピュラーな国なんてどこにあるのか。Unpopularになる術を身につけることが、国を動かすことであることを、いつになったら気付くのか。●午後は、Falantil Region 4(CovaLimaを含めた6つの県を統括)の幹部と昼食。もと反インドネシアゲリラの筋金入りの御仁達。グスマオ、Horta達のVisitに合わせてSuai入りしたらしい。俺は、Timorizationにシリアスであることを強調。District Advisory Councilの設立でCNRTとDecision Makingを共有することを強調(UNTAETを批判するだけなら簡単。国を動かす当事者の"責任"を思い知らせてやる…)。何とか良い印象を与えた。

2000年4月24日月曜日
他の県に比べて非常に遅れていた公務員雇用計画が、なんとか完成しそう。Indraのけつをひっぱたいた甲斐があった。●PKF、CivPolを除く、Internationalスタッフだけで20人、車両8台になった。もうそろそろVehicle control systemを導入する時期なので決行。AdventureフェースからOrganizationフェースへの移行を強調。車両ログと使用登録制を導入。私用は、俺の許可を得ること。

2000年4月25日火曜日
PKF Kiwiの兵士が一人、自動車事故で死亡。この県北部の山間道路の崖から転落。3人が重軽傷。とにかく道路の崩壊が激しい。●夜、UNMOsのシニアコマンダーの一人(マレーシア人)の歓送会。終わりに、今日死亡した兵士の為に黙祷。事務所に帰ってから、中庭の国連旗をHalf Mast。

2000年4月27日木曜日
DAミーティングin Dili。昨日は、DAリトリート。3人ぐらいしか集まらず、お流れ。DA同士のSolidarityもこれまでか。●DAの一人、Johnが辞職。現地Deputy DAの選考方法を巡って、前々回から、全DAがSRSGの方針に対して猛反発。争点は、こんなに大切なことをDAのコンセンサスを得る前にメディアに流してしまうSRSGのやり方に焦点。その時から、受け入れられない時には辞職、をほのめかしていた。

2000年4月29日土曜日
朝は、PKF、フィジー隊が骨を折ってくれたコバリマ県サッカートーナメントの始球式。大した賑わいだ。フィジー隊が選手の輸送(村から)と飲料水その他のロジを全て引き受けてくれた。●アイルランド人の東チモール独立のロビーストの訪問を受ける。かなり有名な御仁らしい。名前は忘れた。2時間ほど話しを弾ませる。Referendumの時、ここの一般の人達は、インドネシアの国旗か、CNRTの旗の二者選択という形で投票した。だから、CNRTはPeopleの代表と見なされるべき。UNTAETの中の議論では、「民主主義」の保持の為に、いかにNon-CNRTエレメントをDecision Makingに引き入れるかが焦点になっている。(俺の意見)。グスマオがほのめかし始めた、8月のCNRTの解散は、一般の人々の求心力を失わせる働きしかしないだろう… 納得。

2000年4月30日日曜日
河野洋平外務大臣とのレセプションの為、朝車でDiliへ。高橋副代表の紹介で握手。夜は、インドネシア日本大使と中華料理で会食。●午後、町のスタジアムで乱闘騒ぎ。これが拡大して現地人二名の死者。夜はちょっとした戒厳令の感じ。UNTAETの職員がターゲットになっているらしい。マチェットを持った愚連隊が町を徘徊。こんな状況が地方に飛び火しないと良いが。

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