2001年4月〜5月の分

2001年4月23日月曜日
先週のFoholulik村事件のフォロー。午後三時に、通訳のSimaoを伴ってFoholulik村に到着。●長老と若者を集めての会議だが、その前にちょっとした事件発生。この村の一人の女性が、昨夜自宅で流産。妊娠5ヶ月だったもよう。その後出血が止まらず、これはヤバイと家人がスアイに向けて走り出した(山間部ではこれしか連絡の方法がない。スアイまでは車で1時間強かかる)時に、ちょうど運良く俺が到着したという次第。早速PKFに無線連絡。俺がこの女性の状態を見て、俺の車で救急移動するべきか否か軍医から指示を仰ごうとしたが、PKF Tilomar郡駐屯地から30分以内で医療チームを派遣できると言うので待つことに。予告通りに到着。1時間ほど現場で処置をしてスアイに移動。●その間、長老と若者リーダー達と会議。単刀直入にこの村が排他的になっている理由を聞く。以外にも、親インドネシア疑惑や言語の違いを否定する。他県から派遣された小学校教師を拒絶したのは、1ヶ月間に2〜3日しか出勤しない怠慢さを告発しただけとのこと。4月4日に我が教育専門家Filipeと郡リーダーが巻き込まれた暴力沙汰では、この郡リーダーのボディガード役の自警団員をボコボコにしたことを素直に認める。和解のムードは大いにあり。よろしい。●理由はどうあれ、ボコボコにしたのはいけない、と俺。暴力を働いた男たちを逮捕しなければならないが、文民警察の出動を今日のこの会議の感触を得るまで俺が止めたのは、刑事事件にすることで和解の芽を摘み取ってしまいたくなかったからだと説得。郡リーダーとの和解会議の即刻の開催を提案。その場でボコボコにした側とされた側との謝罪が演出できるかと問うと快諾。来週月曜日に同じ場所で和解会議の開催決定。●Salele村とCNRTが復讐のために村を焼き払いにやってくる、という噂がまことしやかに広まっている最中だったということで、今日の俺の訪問はタイムリーだった。●終わり際に、若い衆の親分格と見える男が、今日俺が武装エスコートなしで単身で村にやって来たことを感謝する、とボソッと言う。和解に銃の監視は必要なし。●昨年11月に発生した、PKFパキスタン工兵大隊の兵士による地元女性に対するセクハラ疑惑。その後、我が人権専門家Su(マレーシア人)を焚き付けてPKF司令部を独自のBoard Of Inquiry(特別調査委員会)を組織させるまで追い込み、その結果が今日やっと知らされる。パキスタン軍の法律顧問からだ。兵士の二人が証言と一致し処分決定。即刻の国外退去とパキスタン陸軍からの除名。名前は伏せてあるが、被害者の女性にこの旨を伝えるようにとの依頼。大いに結構。これで、地元社会に顔向けが出来る。●これは非常に良い前例ができた。今後この手の事件が起きたら、この魑魅魍魎の国連組織をどう動かすか会得した。しかし長い道のりだった。

2001年4月25日水曜日
午後2時、例のFoholulik村の一件で郡リーダーと話しにSaleleへ。月曜日のOutcomeを話し、この郡リーダーとボコボコにされた自警団員のSalele側とFoholulik側の和解会議の可能性を示唆。Foholulik側の謝罪を受け入れる可能性があるかと問うと、十分可能であると言う。被害者は自警団員一人ではなく、拒絶された教師を含め5人に上るが、十分可能であると言う。今週金曜日まで、この5人全てから承諾を取っておくように依頼すると快諾。骨が折れるが辛抱強くやらねば。●スアイ市内で、土地の所有権を巡る言い争いが暴力に発展。なんと我がUNTAETの現地スタッフ(PKFの通訳)と旧Falintil(解放ゲリラ)兵士との間の揉め事。現場をたまたま通りがかったPKF兵士がこの通訳を助けようとしたことに腹を立てた群衆の暴動に発展。怪我人数人でおさまる。旧Falintil兵士はいまだにポピュラーなので、容易に群集を触発できる。旧Falintilの動向は要注意。●夜10時、Saleleでまた騒ぎが起こっているという文民警察からの無線連絡。郡リーダーの被害者5人への説得が裏目に出て、血の気の多い若者達を刺激したのでなければよいが。今夜は警戒。

(Salele村の小学校にて。家計を助ける為か構内でピーナッツを売る女史児童。)


2001年4月26日木曜日
昨日のスアイ市内での土地所有権をめぐる暴力沙汰。この土地は、インドネシア軍人の所有物だった模様。現行の条例では、Abandoned Landと見なされ暫定政府管理となる。チモール人で構成される県Land & Property Committee(土地施設管理委員会)に更なる調査を命ずる。●しかし問題なのは、騒ぎが起こった時に通りがかり、かの現地人通訳を保護したPKFアイルランド中隊。この通訳が旧Falintilのグループを“Militia”だと罵ったことから、ライフルの銃口を向け威嚇したらしい。今日午後、旧Falintilの元締めをやっている人物の訪問を受け、これが判明する。これが噂として広まると、Falintilに特別の思い入れのある大衆がどう出るか予想がつかない。非常にヤバイ。早速、Falintilの動向をモニターしている国連軍事監視団隊長David(イギリス陸軍中佐)と刑事捜査担当の文民警察官Lu(中国警察)を呼ぶ。Davidは、この騒動の両者(怪我で入院したが既に退院)を呼んで和解会議を開くことを提案したが、片腕骨折の怪我人が出た上刃物を使っての喧嘩に発展した以上、刑事捜査を省くわけにはいかず。刑事捜査が終わるまで和解会議は行なわないことを指示。Falintilの元締めからは、他のFalintilのグループの“誤解”を最大限に押さえることの約束を取り付ける。●しかし問題なのは、簡単に銃口を民間人に向けるPKFだ。これは何とか問題提起しなればならない。Sector West司令官に持って行くか、アイルランド中隊を管轄するニュージーランド大隊隊長にするか。●土地をめぐる争議の最終手段としての県知事による“Peace Order”発効の条例は、まだ完成していない模様。ドラフトを議論したのが去年の末。全く何やっているんだ、中央は。●Saleleの件。文民警察署長Paulaによると昨日、PKFがSalele村からFoholulik村に向かう武装した若者の集団を見つけ、解散させたとのこと。リベンジのためだったらしい。俺と郡リーダーが会う前だったらしい。

2001年4月27日金曜日
もう金曜日だ。早い。●SaleleとFoholulik村の件。郡リーダーと、今週月曜日のFoholulik村でのやり取りを話す。Salele村のボコボコにされた5人の内2人が同席。Foholulik村の謝罪を受け入れる用意があるか確認。快諾。しかし次の和解会議に武装エスコート無しで行くことにまだ躊躇が見える。なんとか説得。郡リーダーのマラリアがまだ全快していないので、Foholulik村での和解会議は翌々週の月曜日に行なうことに。●一昨日のFoholulik村に向かった武装集団の件。郡リーダーによると事実無根であるとのこと。文民警察とPKFの誤報だったらしい。何やっているんだ。●とにかく怨念は深い。1999年の独立住民投票時、郡リーダーのような独立派のClandestine(隠密活動)の首謀者は山に身を隠し、年寄り、女子供たちを村に残した。Foholulik村は当時Militiaの拠点で、Salele村に急襲をかけ殺戮を行なった。とにかくこのケースは和解問題の象徴的なケース。●Militiaの総元締めMendoca一家のJoao Mendoncaが証拠不充分でディリで釈放されたとの報を得る。それも、毎日の出頭、ディリから出ることの禁止などの条件無し。15日間に一回の文民警察への出頭のみ。こやつがスアイに出没し始めたら、暫定政府は完全に住民からの信頼を失うだろう。早速、事実確認と、釈放に至った情況説明をSerious Crime Investigation Unit(重犯罪調査課)に要求する。こういうディリの面々たちは、日々直接住民に接している現場の現実に思いをはせる能力が著しく欠けている。これをHQシンドロームという。組織の病気だ。

2001年4月29日日曜日
ニュージーランド大隊が交替の時期。もう6ヶ月経ったか、早いもんだ。今日はお別れ昼食会。●隊長のDaveと、先日の土地所有権にかかわる元Falintil兵士を巻き込んだ騒動の際、アイルランド中隊が群集に銃口を向けた事件について立ち話。情報将校を通じて俺が調査を命じておいたのだ。早速アイルランド中隊を諮問にかけ、事後報告書を作っているとのこと。次のDistrict Advisory Council県政評議会で説明したいという。大いに結構。

(俺の横がニュージーランド大隊隊長Dave。その隣が新任のパキスタン工兵大隊隊長。Xanana Gusmaに似ている。しかし名前はWaheed中佐! 冗談みたい。)


2001年5月1日火曜日
District Security Council:DSC県治安評議会。Joao Mendoncaの釈放の件。PKFニュージーランド大隊隊長Daveを含め全員で合意。Joaoの釈放の条件の見直し、特にスアイへの接近の禁止を正式打診すること。その前にDistrict Advisory Council:DAC県政評議会の承認を得ることも同意。●県政評議会。コミュニティ・リーダーたちの反応は2つ。一つはDSCと同じスアイへの接近禁止。もう一つは、和解会議を大々的に開こうと言うもの。感情的には分かるが、現実的にはどうやって会場の治安を維持するのかが問題。それに、和解会議へのJoaoの説得を誰の責任でするのか。暫定政府の責任ではとても出来ない。条件付で釈放されている人間を敢えて危険に巻き込むことはできない。できるとしたら、コミュニティだ。2時間近くの議論の末、DSCの提案に同意。●人権担当官Suと政務官Omarに、内務大臣のAnna Pessoaに宛てた釈放条件の見直しの正式要請書をドラフトさせる。

(県内2500人の動員力を誇るSSR自警団隊長Domingosが東チモール警察に就職。二股はかけられないから自警団を退団することに。国連平和維持軍にとってSSRは治安情報収集になくてはならないものだから、これからのリーダーシップ形成を指導して行かなければならない。)


2001年5月4日金曜日
DA会議の為ディリに滞在中。●ここのUNDP国連計画駐在代表からシエラレオーネの件でインタビューがしたいと言ってくる。シエラレオーネ・ミッションUNAMSIL2の政務担当副代表とこの駐在代表は旧友らしい。DA会議後会いに行く。ざっくばらんなチャット。どう出るか。

2001年5月7日月曜日
Foholulik村の件。10時から同村で和解会議開催。Salele村からは、郡リーダーと暴力の被害に遭った2人を同伴。被害者は5人だったが、あとの3人は怖がって雲隠れ。この2人が被害者の意見を代表するというふうに無理にこじつける。Foholulik村到着。長老たちをはじめ、暴力に加わった青年たちが待っている。さすが強張った表情。●暴力行為に対する謝罪をまず引き出そうとしたが難航。その発端となったSalele側の暴言に話題が集中。謝罪しない限り文民警察に犯罪調査をさせることになるぞと強迫に近い説得を行なう。少々荒療治だがしようがない。堂々巡りの議論の末、やっと納得。まずFoholulik村側の暴力行為に対する謝罪をSalele側が受け入れ、Salele側はこの件に関して刑事訴訟などのクレイムを起さない、ということに同意。その場で始末書を作成。関係者一同が署名。双方が握手、抱擁。一件落着。やれやれ。●続いて、Foholulik村での村外から派遣された小学校教師の拒否事件に触れる。よそ者の公務員を拒否しつづける限りこの村に政府からの援助は滞るだろう、とこれもまた強迫に近い説得を行なう。長老を含め全員が諦めの表情。とにかく知事の俺の責任で、教師の業務監督を頻繁に行なうことを県教育委員会に命じるから、と元気付け納得させる。教師の宿泊用の部屋も村の中に用意することにも同意。これも一件落着。ワーイ。

(Foholulik村の和解会議にて。俺のとなりは郡リーダー。二人を挟むのは、ボコボコにした側の代表:右、とされた側の教師の一人。)


2001年5月8日火曜日
UNDP国連計画駐在代表から電話。シエラレオーネUNAMSIL2からChief of DD&R(Disarmament, Demobilization & Reintegration)のポストが提示されたとのこと。これは第一希望だったポストだ。更にいつ赴任できるかとの打診があったとのこと。3〜4週間と答える。

2001年5月14日月曜日
昨日、二週間の定期短期休暇のため日本到着。