2001年2月〜3月

2001年2月14日水曜日
日本での休暇後、朝、スアイ到着。早速、仕事。スタッフ3人の人事評価。●午後2時から、県治安評議会。ニュージーランド大隊隊長も休暇中。俺も帰ったばかりなので、2IC(2nd In Command)に議事を任す。●夜8時、人権担当専門家Sueから連絡。西チモールからFamily Visitの為に越境した1家族が、スアイ市内で群集に囲まれ、危うく暴動に巻き込まれそうになり、スアイ派出所に避難。指示を仰ぎたいという。やれやれ。●スアイ派出所に行ってみると、老婆と母親、それに5歳くらいの娘だ。元々西チモール人(つまり国籍はインドネシア人)だが、夫が東チモールでインドネシア軍に雇われていたらしい。この3人は、東チモールに嫁いでいる親戚に会いに来たところを群集に見つかったのだ。といっても、インドネシア軍発行の出国許可証と、UNTAETボーダーコントロールのビザ(3日間)を所持。我がボーダーコントロールは、この3人が西チモール人とは気付かなかったらしい。つまり、東チモール難民のFamily Visitだと思ったらしい。(これを見極めるのは困難) ●処置は、2つの意見に割れる。一つは、少なくとも今夜スアイ派出所に一泊させ、できればビザのどおり滞在を許すこと。もう一つは、群集による攻撃を避けるため、今夜すぐに西チモールへ送還することだ。すぐに送還してしまえば、東チモールは危険なところだというメッセージが広まってしまう。かといって、このままにすればこの母子の命が危ない。この母子の保護に当たった文民警察所長は、送還に反対。人権担当のSueは、すぐに送還との意見。議論は平行線に。俺が決定しなければならない。●当の母子に聞いてみようと提案。母子は、今すぐに帰りたいという。送還に決定。早速、国連軍事監視団隊長のDavid(イギリス陸軍中佐)を無線で呼び出す。Davidもスアイ署長と同じく、東チモールが危険だと言うメッセージが広まるのを気遣って、送還に反対だったが、母子の命に代えられない。それに、嘘のメッセージを送っても仕様がないのだ。スアイ署長に、スアイからボーダーまで、文民警察官による母子の護送。Davidに、西チモール側ボーダーに駐在する国連軍事監視団隊員を通して、インドネシア軍にボーダーから西チモール内までの護送を依頼するよう支持する。●夜10時、母子は無事インドネシア軍に引き渡されたとの無線連絡。やれやれ。●NYの国連日本政府代表部から打診。UNAMSIL(シエラレオーネのUN PKOミッション)で、District Administratorの席が空くとのこと。早速、Yesの返事をする。代表部に感謝。国連のことだから、UNTAET応募の時の様に、これから二転三転あるだろう。

(西チモールから親戚を訪問し、群集にリンチされそうになり、スアイ派出所に避難した女の子)


2001年2月16日 金曜日
国連NY選挙監視局から使節団。市民登録後の総選挙に向けた最終的なシナリオ書きのための訪問。西チモール難民の選挙登録のことについて、少し暑い議論。市民登録、選挙登録の為に西チモールからの一時帰還(つまり登録後西チモールへ戻ることを許す)を認める方向で動いているらしい。これは、全く東チモール一般人の感情を無視した方針である。一般人の感情としては、政治プロセスに参加するなら、まず東チモールに永住する意思を示してから、に決まっている。これを許したら、登録・選挙だけが目的の一斉帰還の事態を招き、これはとても今のPKFを含めた治安維持部隊のキャパ(武器スクリーニングなどの)を超えた話だ。そもそも、一昨日の母子の越境に対して見せたここの住民の反応が、全てを物語っている。絶対に、衝突が起きるだろう。●この点を、使節団につよーく示唆。方針変更になってくれることを望む。

2001年2月17日 土曜日
午後4時から、UNTAETとUSAIDが援助した木工所の開設式に主賓として招かれる。発電機2機、電動木工器機数台を装備した大した施設だ。とにかく、インドネシアからの輸入家具に頼っている限り、西チモールのMilitiaを間接的にサポートしているのだぞ、と少々感情的な訓示を垂れる。これからちょっと気を付けよう。

(オープンした木工所。“需要”をどう作るかが課題だ。)

2001年2月18日 日曜日
一昨日、PKF情報将校から、Fatumean Sub-districtで発生した強風で“災害”との報告。それを受けて午前11より、同Sub-districtの中心地Bululik LatanにPKFヘリで飛ぶ。ガンビア人農業専門家Sanaも一緒。●約80%のとうもろこしが強風で倒れている。PKFは、コミュニケーションのままならない住民からの苦情を聞いて、とんでもない被害と勘違いしたらしい。Sanaに言わせると、100%倒れてしまっても、40%ぐらいの収穫はなんとか期待できると言う。大変大きな被害に違いないが、飢餓を生むほどのものではない。とにかく、この独立に向けてのCriticalな時期、緊急食糧援助の発動は慎重に考えなければならない。●しかし、災害の被害情報をいつまでもPKFのネットワークに頼っているようじゃ仕様がない。文民警察を中心に、災害情報ネットワークを築かなければならない。

(強風で倒されたトウモロコシ畑。大きな被害でも収穫がゼロという訳ではない。)


2001年2月19日 月曜日
広島平和研究所の研究者3人スアイ訪問。一晩泊まる予定。●朝から、飛び地のOecussi県にてTCWG(対インドネシア軍信頼醸成円卓会議)。PKFヘリで飛ぶ。●インドネシア政府とのJoint Border Commissionは動き出した模様。TCWGは軍事コーディネーションに特化させるべきで、文民主導のJBCがそのUmbrella。JBCは、あのガルブレイスの息子、ピーター・ガルブレイス大使主導で行なわれているが、非常に要領が悪い。去年初頭から、TCWGへの参加を再三呼びかけても無反応。先月からやっと、部下を参加させ始めたというお粗末さ。現場レベルでの外交の実態を知らずに、どうやって国レベルの外交チャネルを築けるのか。●TCWGから帰還後、夕方からスアイ県立病院職員の問題でまたミーティング。公務員試験の施行で、臨時雇用のステータスで勤務してきた現在の職員の何人かが正規職員になれなくなるためだ。つまり、当時は帰還していなかったQualificationで断然勝る人材が戻ってきているため。病院職員、いつものように一致団結して抗議。●今回は説明に、人事院ディリから、東チモール人のシニア・スタッフの派遣を要請。それ無しにはCovaLima行政府として何もアクションは取らないと、ほとんど強迫に近い要請をディリに対してした。そうして到着した2人の東チモール人スタッフを主導に集会を進める。俺の役目は、最初の演説だけに留める。●教師の公務員試験は、去年の醜態をさらした。Nepotismをコントロールできなかったことを、現地政府として素直に認める。今回の公務員試験は、最大限客観的な経歴の審査を行ない、Nepotismの入る余地のないよう万全を期した。その結果、あんた達の同僚の何人かが選考に漏れることがある。しかし、同僚だからというだけで庇い正規の選考を妨げるのは、それはそれでNepotism以外のなにものでもない。こんなふうに演説すると、静かに拍手が返ってきた。●夜は、ニュージーランド大隊基地に、3人の日本人研究者と共に夕食に招待。30人位のマウリ戦士によるHaka(War Dance)で出迎えられる。この大隊は去年の11月に入れ替わり、このHakaは本当はその時に俺への表敬のためにやるはずだったのが、俺の休暇その他の理由で延び延びになっていたもの。●それにしても、この大隊は、俺の赴任以来3つ目。既に2人の隊長を見送ってきた。本当に俺、長く居過ぎている感じ。

2001年2月20日 火曜日
3人の日本人研究者、ディリに帰る。●シエラレオーネの件、依然NYから連絡無し。気長に待つしかない。

2001年2月21日 水曜日
午後からDSC県治安会議とDAC県政協議会。Alipioは、人材訓練プログラムでディリにて不在。これを機に、チモール化後の県政協議会の運営状況を東チモール人メンバー達とブレーンストーミング。Alipioに議長を任せてから1ヶ月以上。他の東チモール人DACメンバー達からの評判は芳しくない。以前心配していた通り、モノローグの傾向がある。コーディネーターとしての能力不足が東チモール人から強く指摘される。会議進行の時間が2倍になっても、しっかり通訳を入れて、俺がAlipioの監督をしっかりやるように要請される。ちょっと予想外の反応。困った。●スタッフの一人、68歳のニュージーランド人酪農専門家Lloydは、俺の家の同居人。最近奥さんが選挙監視の国連ボランティアとしてスアイに赴任して一緒に暮らし始めたばかり。彼、体の具合が悪いとニュージーランド大隊野戦病院で昨日診察。今日の精密検査の結果、尿管に腫瘍が発見される。その報告に俺の部屋に。はやり癌への進行を心配してか泣き崩れる。何も言えず、肩を抱いてやるだけ。今日中にディリ経由でダーウィンへ行くMedical Evacuationの手配をする。たぶん手術で腫瘍摘出ということに。

2001年2月23日 金曜日
シエラレオーネに関してNYから依然連絡無し。このミッションの時と同じか。打診を受けてから東チモール出発まで4ヶ月を要した。やれやれ。

2001年2月24日 土曜日
朝から週間報告書作成。何てことはない土曜日。●夜8時から、PKF Sector West HQで合同ブリーフィング第1回目。Brigadier General Gilespie(オーストラリア軍のPKF Sector West最高司令官)から招待。主賓としてこれからも出ることに。Gilespieとの関係修復の兆か。昨年末に、彼の片腕のChief of StaffのLt.Col Rookと俺の間で問題発生。新任の将校にありがちな気負いからか、プロトコールを無視した書簡のことで、俺がキツイお灸をすえたのだ。それを上司として庇おうとした(当然だが)Gilespieと、その監督不行き届きを指摘した俺との関係が悪化。それ以来、TCWGなどで顔を合わせることがあっても、お互い無視の状態が続いていた。相手は、60才近いForce Commanderになってもおかしくないランクの人物。若造の俺に腸が煮えくり返ったであろう。しかし、はやり文民政府との関係を気遣ってか(そりゃそうだろう、要人のホストは全て俺だから)、関係修復をあちらから行なったのは、さすが。●軍相手の“攻防”は、文民の長として決して譲れないが、俺の任期もあと僅か。同じ現場を共有する者の間では、できるだけ波風立てないようにしようっと。

2001年2月25日 日曜日
午後3時から、NHKラジオ「地球センター」の収録。携帯電話を通じて。15分くらいインタビューされる。

2001年2月27日 火曜日
ニュージーランド政府ディリ代表事務所からの訪問。我が県は、ニュージーランドにとってまさにショーウィンド。PKF攻撃大隊も、文民警察スアイ署長もニュージーランド。これで、DAもニュージーランド人だったら申し分無いところだが。●開発援助でも、我が県をショーウィンドにしたいとのこと。とにかく、世銀に対抗して、この独立早期に開発政策をDiversifyさせろ、という助言を与える。●こんな小さな国でも、“顔”づくりに躍起だ。この辺、日本はもう少し見習うべきだろう。


2001年2月28日 水曜日
DAC:District Advisory Council県政評議会は、メンバーを迎えに行ったUN車両のロジがうまく行かず、お流れ。やれやれ。●DSC:District Security Council県治安評議会は、Safe Houseの建設の是非に集中。Safe Houseは、寛容の名の下進む帰還難民の和解作業の中で、何らかの理由(Militia関係の犯罪に手を染めた)でコミュニティから拒絶された人々を匿う施設だ。こういう人間は保護しないと群衆の攻撃の的になる。司法システムが不備の状態で、重罪Militiaでも証拠不充分で不起訴になってしまう現状では、Safe Houseの需要は高くなる見とおし。我が県では、まだ建設していない。●先週も、殺人の疑いが持たれている我が県出身の元Militiaが、ディリに送還後、例によって不起訴処分で釈放され村に帰されたはいいが、村人の強硬な反発に合い、スアイ派出所で保護しなければ命が危なくなるはめに。●しかし、ジレンマがある。余り立派な収容施設を作ってしまうと、ずるずると長居を許し、刑務所か強制収容所の態をなしてしまう。そして、こういう“逃げ道”を作ってしまうと、和解作業に支障をきたす。●何より、運営をどうするかだ。警備は文民警察がやるとしても、施設の維持、収容人員の食事などを賄う予算など我が県にはありはしない。決定は次回まで持ち越し。●副知事のAlipioと国民評議会(National Council)県代表Mariaと関係が悪化。Alipioは、現地公務員のトップ。Mariaは、県住民の“国会”への代表だ。俺がAlipioを立てて来たのは当然だが、小学校卒だけの学歴ながら女性運動の旗手として県代表に選ばれたMariaが最大限の尊敬を得られるように俺は心を砕いてきた。これが裏目に出た。●Mariaが国民評議会に出席する為にディリに行くときは、俺が使っている知事用の国連車(一番手入れが行き届いている)の使用を許可してきた。国連機の使用もできたが、Mariaは出産したばかり。乳飲み子と国民評議会出席中面倒を観る乳母の同乗を気遣い、子供の世話がこの大役の欠席の理由にならないようとの配慮だった。●先週、国民評議会後いつもの様に知事専用車をディリに送った。たまたま別件でディリにいたAlipioに同乗する様に指示。その際、「俺が主」という態度をAlipioがMariaに示したらしい。Mariaは、さすが女性運動の旗手、一歩も引けを取らず、きっぱり赤ん坊と車を降り、民間車両でスアイ帰省。●Alipioは、俺の前では借りてきた猫みたいだが、その他の人間、特に現地人からの不評が目立つようになってきた。特に、この県代表であるMariaからの不信は痛い。現地への権限委譲が進むと、必ず新たなパワー・ダイナミックスを生み、この手の問題を招く。これは、どうしようもない。

2001年3月1日 木曜日
日本内閣府国際平和協力室から3人のDelegation。PKFを主体とした1日のプログラムを作る。●今月で、赴任後ちょうど1年。早いもんだ。この1年は、過去の業務で経験したことがないほどの密度で進んだ。

2001年3月2日 金曜日
National Disaster Management Plan(災害対応計画)のパイロット計画実施に名乗り出る。今日は、第一回のワークショップ。郡(sub-district)の長、文民警察間のネットワーク強化が目的。災害発生の際にいち早く情報が県本部に伝わるように。●情報伝達は最も基本であるが、伝わっても今の県財政では、緊急物資の備蓄もない。理想は、各郡に、緊急物資や建設資材を備蓄できるWarehouseのネットワークを造ること。Seed Bankなど、コミュニティ管理の農業プロジェクトと連結できればなお理想。県本部にそれを作るだけじゃ、災害時では道路網が壊滅、ヘリ輸送しか頼りに出来なくなるので、対処できない。これは、Human Securityにかかわること。これは、二国間援助に頼るしかない。

2001年3月3日 土曜日
夜7時から、PKF Sector Westウィークリーブリーフィング。Bobonaro県のオーストラリア軍の中隊基地から、機銃一丁と弾薬が夜間盗まれたとのこと。懸命に犯人を追っているが今のところ手がかり無し。ものすごいアホな事態だ。●もう一つの焦点は、今週初めに我が県北部国境で起きた、領海侵犯したPKFヘリに対するインドネシア軍による発砲。威嚇のものだったが2発。これもアホな事態だ。発砲したインドネシア軍小隊は処分されるとのこと。●国連軍事監視団隊長Davidに言わせると、我が県北部国境に駐屯するこのインドネシア軍中隊は、他に比べると非常に統制に欠けるとのこと。インドネシア軍と言えども、一枚岩ではないことの顕著な例。

2001年3月4日 日曜日
日曜だというのに勤務。●PKF Deputy Force Commander(国連平和維持軍副最高司令官)のMajor General, Mike Smith(オーストラリア)が任期を終えるということで、ディリから挨拶にくる。文民とのやりとりを非常に大事にしてきた名将。DA会議で何回も論を戦わせてきた。わざわざ来てくれて光栄に感じる。最後なので本音を聞き出したいと小1時間。●日本の戦後史を例に取り、東チモールの国防軍創設の件。憲法草案の前に、こんなシロモノをつくることの危険性の議論を吹っかける。はやり国防軍創設の動機の全ては、Falintilのため。インドネシアへの抵抗を担ってきたこの勇士たちを、Aileu県のカントンメントに閉じ込めてきたのはUNTAETの責任。当然の如く、鬱憤を晴らす為に小競り合い。PKFとの銃撃戦に発展しかねない事態が去年たびたび起こった。過去の功績に報いる為に、Falintilに国防軍の任を与えるのは、内紛を繰り返す数ある政党の中でも共通の見解だったと。●まあ、これではっきりした。Falintilに熱き思いを寄せるのは、東チモール人の勝手。功に報いたいのなら、人の力(外国)に頼らず自分たちの財布で賄わんかい、というのが俺の本音。しかし、何の効果的な武装解除のプログラムも実施せず、1年以上も放っておいたUNTAETの罪は重大。その代償がこれか。●とにかく、東チモール国防軍は、アフリカの国々で一般的なPara-Military(大統領警護などの為の予備隊)の概念とは一線を画し、外的脅威(はっきり言ってインドネシアだけ)の為だけに、との了解は、国防軍上層部(もちろん元Falintil)の中で取れているとのこと。つまり、国防軍が国内の騒乱の為に出動することは無い、ということ。つまり、特定の政党、リーダーの意思で銃をもって群集を鎮圧することは無いということ。軍事独裁への道を阻止する手立て(理解だけ)は取ってあるとのこと。●Falintilが、非常に統制の取れたゲリラ部隊だったことは間違いないだろう。俺の極めて限られたその将校達との付き合いだけでも、それがわかる。しかし、所詮、軍は軍。Falintilの過去の栄光に期待をかけ過ぎ、いや、この早急の国防軍創設のシナリオの為にうまく利用しすぎているのではないか。●国防軍への再雇用に漏れたFalintilの何人かは、Bobonaro県でインドネシアからの密輸業に手を染めているという、PKFインテリジェンスの報告がある。あぶれた元Falintilの動向のウォッチは、残念ながら、俺が国連軍事監視団と一緒に抜かりなくやることになっている。つまり、その“都合の良い期待”とは裏腹に、Falintilが将来の社会不安の原因になる可能性を意識して、監視し始めているということだ。●今のところ、俺が理解している通り、向こう3年〜5年は、国境地域へのPKFの残留の合意がある。その間は、国防軍の国境付近への配備は有り得ない。もちろん”戦争”の回避の為だ。ここに、論理矛盾がある。PKF在留中は“戦争”を避ける為に国防軍の国境への配備はせず、なおかつ、将来国防軍は内政への干渉を防ぐ為に外的脅威(インドネシア)への対処に特化させるとは・・・これはどういうことだ。国防軍は一体何の為に。●これは、つまりPKFの“半永久的な”配備を想定。PKFは居ても良いだろうという”安心概念”が、3〜5年後にどうなるかというシナリオの想定を無意識的に回避させる文化がもう出来上がっているということ。PKOずるずるべったりの泥沼に足を踏み込んだということ。

(PKF本部副司令官General Smithと)


2001年3月5日 月曜日
しかし、こんな“手厚い”加護の独立が、アフリカの独立史上あっただろうか。インドネシア占領下の過去の惨劇、それを見過ごした日本を含めた列強国の罪の代償だと言ってしまえばそれまでだ。それで済まないのが、“現在”進行形の自前の国造りだ。保護に対する”甘え”が、独立精神に支障を来たし始めているのではないだろうか。●ウガンダ人スタッフAidahの案内で、Tilomar郡、Foholulik村の小学校を視察に行く。午前10時だというのに、道すがら、何人もの下校児童とすれ違う。その一人を止めて聞く。教師が登校して来ないと言う。こんな状態が1ヶ月も続いていると言う。何てこった。もっと早く手を打つべきだった。●原因は分かっている。“小さな政府”の掛け声の元、教師の数と共に、インドネシア占領時に比べると3割ほどの小学校の数を減らしたからだ。その結果、廃校処分にあった村の児童は、隣接した別の学校に通わなければならず、それは教師にとっても同じで、住居を移さなければならないケースが多く発生したのだ。これが、教師の“不登校”の原因。しかし、である。●教師の不登校の問題なんて、あの混乱時の世界最貧国シエラレオーネでもなかった。たとえ政府が給料支払いを1年以上も怠っても、校舎も、教科書もなくても、教育は進行していた。村が教師を支えていたのだ。村が、教師の不登校を許しはしなかった。●それに比べて、ここ東チモールの教師の”体たらく”はなんだ。このFoholulik村は、教師の為の仮住まいを自力で建設している。東チモールのこのご時世で、教師を始め公務員は、滞りのない給料を貰っている点で、不自由は何も言えない身分だ。それなのに、職場が遠いと駄々をこねる。これは、県全体に蔓延し始めている問題だ。●手厚い加護が、独立精神を蝕み始めたか。全ては、暫定政府の“暫定”がいけないのだ。自前の現実を、手遅れにならないうちに、できるだけ早期に思い知らせるべきだったのだ。●もうこうなったら、対処療法しかない。「教師の出勤簿」を導入する。欠勤日は日割りで給料から差っ引く。怠慢教師は、公務員から抹消する。村の同意を得て、抹消する。中央が優柔不断なら、県独自のイニシアティブでやる。絶対にやる。それで、教師のデモが起こっても、正面から受けて立ってやる。

(UNHCR支給のビニール布で何とかしのいでいるFoholulik村の小学校。最も復興が遅れている学校の一つ。だが、教師さえいれば教育は成り立つ。)


2001年3月7日 水曜日
District Security Council県治安評議会とDistrict Advisory Council県政評議会の日。●県治安評議会では、先月末から議題だったSafe Houseの建設の是非を議論。帰還難民が到着当日に1〜2日過ごすために造られた既存のTransition Centerの中に増設することに同意。Safe Houseを造ることにより、和解を”しない”逃げ道という印象を人々に与えることの懸念を考慮した妥協案だ。●県政評議会では、またギャンブルの問題に集中。鶏闘が主だが、コミュニティ・リーダーが注意しても、「法律を見せろ」と開き直る胴元が多発。この辺の法律は、インドネシア時代の法律を引きずっているが、明文化されたものが手元にない。文民警察にもない。県独自の通達として、現地語と国連のレターヘッドで体裁をつけるか。それとも、中央に働きかけて、一つの条例として発行させるか。後者は時間が掛かりそうだから、前者ということになるか。

(今日から、日本政府外務省と国連主催の国際シンポジウム出席のため10日ほど日本に帰国。スアイからディリに行く中継地で、スタッフの一人、元ガンビア国連大使Omarと。)