2000年3月の分

2000年3月12日日曜日
ディリ到着から2日目。午前中。ディリ市内を歩く。イラン人電力専門家カマル氏と一緒。蒸し暑い。1時間歩いただけでくたくた。破壊がものすごい。全ての木部は焼失。内壁も殆ど抉り取られている。どうみても、systematic destructionである。素人の放火とは、とても信じられない。●それにしても、ここの住民の人懐っこいこと。笑顔が心底素晴らしい。地獄を見ているはずなのに。町を歩いていると子供たちが、金目当てで寄ってくる。3−5才の子も。周りの大人の目を気にしながらだから、こんな習慣はまだ日が浅いと見える。これが、風習化しないうちに、なんとか復興しなければならないが。●District Administrator(県知事)になりそうか。どうせやるなら、一番難しいニーズがあるところをよこせ、と言ってやろうか。

2000年3月14日火曜日
ついにDistrict Administratorに決まる。Cova LimaDistrictだ。東チモールに13ある県のうちの一つ。西チモールとボーダーで接する政治的に一番難しいと言われている3つの県の内の一つ。●明日は朝から、13人のDistrict Adminitratorが一同に会するDAミーティングだ。

2000年3月15日水曜日
初めてのDAミーティング。現在までCova Lima DistrictでDistrict Administrator代理として勤務しているスタッフと対面する。56歳のノルウェー人。去年の6月から、選挙監視団としてCova Limaにいるとのこと。今日から、俺の側近となる。●やはり、俺が若すぎる上司と言うことで、少し抵抗が見えた。夕食を一緒に取る。少し打ち解けて来たか。丁寧なブリーフィングをしてくれた。かなり、生活水準を落とさなければならないだろう。少し覚悟がいる。●DAミーティングは、UNTAET中央のサポート不足に対する不平。かわいいもんだ。一つの議題が、広報部の提案のNational Cleaning Up Dayの実行可能性について。中央は、これをやりたい意向。しかし、一人のDAが吼える。町を汚くしているのは、現地人ではなくて、輸入品、特に一人に一日1.5リットルペットボトルで3本配給されて、それを投棄している我々Internationalだと。笑える。

2000年3月16日木曜日
昼間は、部下になるはずのモザンビーク人Filipe君と、DAに配属されたランドローバーでディリ市内を案内される。小さな雑貨屋がぽつぽつと出来ている。殆どが、インドネシアからのmade in china。市の中央マーケットも大した賑わいだ。

2000年3月18日土曜日


Filipe君の案内で、ディリ市内の西チモールからの帰還難民の受け入れ作業を見に行く。UNHCRとIOMの活動。大変な厳戒態勢の中、迎えの家族であろうか鈴なりの人々が波止場の門に。船を下りるなり、3−4歳の子供や腰の曲がった老婆までも金属探知機の身体検査を、完全武装した兵士から受けている。Militiaへの警戒は滑稽なまでだ。この後、Transit Houseへバスで輸送され、数時間で開放されるそうだ。ディリでは、これが毎日。Cova Limaのボーダーでは、週2回やるそうだ。Militiaが帰還難民の中に紛れ込んでいた場合の処置は、今一つピンと来ない。HCRの女性職員(フランス人)の話しだと、Cova Limaでは、CNRTが報復から保護を名目にMilitiaをdetentionしているらしい。一政党であるCNRTにそんな権利はない、とこの職員は憤慨していた。この辺が、帰還難民、Militiaの扱いをめぐる、組織間(UNHCR、IOM、UNTAET、CNRT)の摩擦のあるところなのだろう。

2000年3月19日日曜日
Suaiに到着。車で4時間余の道中。途中、山間部のぬかるみで車輪を取られ1時間ほど立ち往生。四駆だというのに、国連と言うのは、ロープかワイヤも常備させないのか。●山間部に入ると、滑稽なくらい警戒が激しい。何度も、APC(Armored Personnel Carrier:中型の戦車)とすれ違う。10年前俺がいたころのシエラレオーネ内戦との格差に呆然となる。国際世論の注目度如何だけで、これほど軍事投資に格差が出るのか。●これまた途中、チモール人の運転手の運転が余りに雑なので、途中で止めて、もう一台の運転手と共に、説教を垂れる。そのあと、Filipeより、途中の山中ではMilitiaが攻撃するかもしれないから高速度で運転するかもしれない、と釘を刺される。すこし、気負ってしまったか。自然体で行こう。●夜7時ごろ、事務所に着く。もと、中学校だったという、かろうじて焼け残った部屋を、UNTAET事務所、Civpol(UN Civilian Police:国連文民警察)とUNMO(UN Military Observers:国連軍事監視団)の事務所、共同食堂、テント部屋に使っている。

2000年3月20日月曜日
仕事第1日目。スタッフとブリーフィング。その後、市内を回る。


●市内の小学校。こんな状態でも、教育は行われている。教師へのStipendの支払いがDAオフィスの役割の一つ。

●旧県庁舎跡。ここに神戸ハウスが21戸設置され、UNTAET事務所は引越し予定。トイレ、電気が完備されるのだが、Internationalが住んだ場合、MSA(Mission Subsistance Allowance)から「家賃」が天引きされるのだ。これは、現在のボロ校舎住まいにも当てはまるだとか。馬鹿らしい。

●スタッフが移りたがっている元ホテル。オウナーは、インドネシア人だから帰ってくる可能性はゼロ。UNTAET、つまりDAの所有物となる。ドア、床のタイルは盗まれている。自費で修復しなければならない。ちなみに、現在、暫定政府としてのUNTAET発行の条例では、県内全ての公有地、公共建設物(ほとんどが破壊されているが)は、District Administrator、つまり俺がLand Loadなのだ。滑稽だが。

●午後は、UNHCR、PKF(Peacekeeping Force)、Civpolとの会議。帰還難民の中に紛れ込んでいる元Militiaの扱いについて。UNHCRは、とにかく西チモールから難民を帰還させるしか頭に無い。元MilitiaのReintegrationは、困難を極める。何せ肉親を殺した奴らだから、復讐されないわけがない。しかし、Militiaの中にも、幹部に妻を人質に取られ、否応無しに荷担せざるを得なかった者などSoftcoreな者もいる。それを見極めるのが一苦労。UNHCRは、帰還難民のリストを公表しない。西チモールで未だに暗躍するMilitiaの残党達から難民を守るためだ。しかし、Reintegration作業では、ボーダーを超えてReleaseされる前に、そのリストを取得し、Suspectを確認し、それを我がUNTAETのDFO(District Field Officer)たちが帰属する村に伝え、復讐するかいなかの反応を見なければならない。もちろん、重罪であるMilitiaは、PKFによってDetentionされ、Civpolに引き渡される。この辺のProcedureは、現場を見なければわからないが、問題はそのリストの公表だ。UNHCRのReluctanceが、今日の、会議の重点ポイントだ。リストは、ボーダーを警備するPKFには手渡されているが、そこまで。UNHCR独特のの人権尊重のポリシーだ。今日の会議では、リスト取得後のPKFの責任でUNTAETとCivpolに引き渡すことを合意。UNHCRのField Coordinatorは苦し紛れに、UNHCRの中央を通せと言う。そんなことをしたらこの国連のBureaucracy、時間がどれくらいかかるか目に見えている。すべての責任をこの俺に被せろ。最悪の場合は、俺がくびになるだけだと言ってやった。これで、合意。やれやれ。

2000年3月21日火曜日
Suspected MilitiaのReintegration作業を観察する。


●中央のやせた男が、国境を単独で横断。村に帰ったが、親戚一同にリンチに合い、逃げ出したところを国境の警備にあたっていたPKFに保護された。Civpol二人(バングラディッシュとポルトガル人警官)とUNTAETのDFO、HCRとで、この男を迎えに行き、Sub-district Head(CNRTの郡の幹部)に、Reintegration可能かどうか、伺いに行く。

●赤いシャツの男が、Sub-district Head。なんとこのMilitiaの親戚で、リンチを止めたのは彼だと言う。このMilitiaは、小者で、犯罪らしい犯罪は犯していないというので、UNHCRは、本人の意思を再確認し、村に戻ることで一件落着。犯罪を犯していれば、Civpolに引き渡され、場合によっては、裁判を受けるためにディリに送られるシステム。Districtで、こういうケースを審判し、何より先に、このようなSuspectを、俺の権限でDetentionできる施設を作るまでどれだけ時間がかかるだろうか。

●これが国境。TNIの兵士が、PKF(フィジー隊)の兵士と談笑している。自己紹介する。屈託が無い。


●この日の到着100余名。この後、テントの中でUNHCRによる登録。帰還する村まで登録。数メートル離れた机で、昨日の会議で合意したCivpolによる登録。同じリストを2回作るという馬鹿らしさ。これが、国際機関の官僚主義。疲れているのに、待たされている難民達が気の毒。何とかしなければならない。


2000年3月22日水曜日
PKFニュージーランド大隊、通称KIWI(国鳥に因んで名づけられた)を表敬訪問。Major John Rogersが案内してくれる。圧巻は、ICUまで兼ね備えた病院。テントづくりだが、空調までしてある。しきりに、人道支援への貢献を強調。東チモール人も数多く治療したとか。

●これは、6ないし10人の兵士を輸送するための装甲車APC(Armored Personnel Carrier)。頭に機銃が2つ。これが、警備のため動き回っている。20台くらいあって、フルに起動しているのは6台だとか。ここは、ニュージーランドの隊。娯楽施設の中に、若い兵士たちの教育(通信教育)の為の教室も見せられる。若いのだと17歳。絶句。●将校相手に、警備の戦略、Security情報のデセミについて談義。俺の中に、やはり、武器を持って体を張っている連中に男気を感じてしまう癖があるからか、どうしても気後れしてしまう自分が恥ずかしい。3月から、PKFはDA、つまり俺の傘下に入ることがポリシーとして決定。TNI支配下に置かれることに慣れ切っていた東チモール人に、MilitaryはCivilian Controlの下にあるべきが国家の姿なのだと印象付けるためなのだそうだ。しかし、我がDistrictオフィスとこのベースの設備の格差。Securityリポートを随時出させるぐらいしか、Civilian Controlの長たる権威を見せ付ける方法は無いではないか。それ以外に、どう、ここの民衆に「印象」づければいいのか。

2000年3月23日木曜日
UNMO(Military Observer)のブリーフィングを受ける。英国人Lt.Col Mark Waltonが指揮官。隣の部屋なのに、今まで余り親密な交流はなかったみたい。PKFとUNMOの区別。UNMOは、一応、impartialが原則。西チモールのTNIと、UNTAET-PKFとの間のimpartiality。一応、国境の外、15Mまでなら行き来ができるという。国境付近のTNIの配備はmore than expectedで、MilitiaのHuntingに積極的な協力があるらしい。しかし、UNMOに与えられた車は、一台。殆どが、PKFの情報に頼っていると見える。毎晩PKFとのSecurity会議が開かれるとのこと。DairyにSituation Report(SITREP)をディリのHQに出すとのこと。そのコピーを送付前に毎日俺に届けることを指示。

2000年3月24日金曜日


PKFニュージーランド大隊、APCによるPresence Patrolに参加する。Maj. Rogersによる計らい。APC2台。各APC、搭乗員3名。この隊のキャプテンは、ジャクソン君。まだ30前。機銃塔に座り、てきぱきと指示を出す。このPatrolの目的は、文字通り、Presenceをアピールし、住民に安心を、敵に脅威を、というもの。午前8時出発。正午に隣の県のBobonaroベースに到着。昼食を、ベースの兵士達と摂る。とにかく、ニュージーランド人の英語の分かりにくいこと。APCの中では、ヘッドホンとマイクロフォンを通しての会話になるので、皆目フォローできない。ジャクソン君は、コソボPKFにも参加したそうだ。東チモール行きが決まったとき、お袋さんに泣かれたそうだ。この兵士達、とくにこのキャプテンの振るまいから、住民に対する配慮については、かなり良く教育が行き届いていると見える。Presence Patrolは、週に4回行われるという。UNTAETのこと、特にDAの役割については、余り知識がないよう。俺はここの知事だ、と言ったら、やっと分かってくれた。午後4時に、事務所に帰還。ジャクソン君、礼を尽くしてくれたつもりなのか、わざわざ事務所の中庭にまで乗り入れ、後部の起動大ハッチを開けてくれたものだから、事務所の職員たちが大騒ぎ。

2000年3月25日土曜日
自分が仕切る初のスタッフミーティング。ちょっと、気負ったか。Admin的なことが全くお座成りにされていたので、ちょっと雄弁過ぎたきらいがある。少し気を付けよう。●Diliに送った車が、隣の県で事故。帰還不能。6時以降は、旅行禁止だから、Rescue vehicleは送れない。運転手と同乗のインド人電気技師には、現地事務所に泊まるように指示した。数日前に赴任したばかりのインド人。当初から散々な目。


●午後は、各Sub-districtの長であるZone leaderの一人と会談。UNTAETがNecessary Evilであることを強調。一刻も早くUNTAETは出て行くべきであると、(たぶんアフリカでは受けたであろう)得意のEmpathy作戦に出たが、余り反応無し。ここの人は、やはりアジア人だ。それとも、だまされ続けてきたから何事にも懐疑的なのか。でも、人は良い。第2次世界大戦中の日本の侵略に話題を向けると、まだ塹壕の跡が近くに残っていると言う。将来ヒマが出来たら覗きに行こう。●晩飯はFilipe君が鶏を絞め、料理してくれている。だれ彼と無く食材を持ち寄り、同じ釜の飯を食う。良いチームの雰囲気。

2000年3月26日日曜日
けだるい日曜日。何もすることがないから、皆事務所に出て働く。Filipeとネパール人Indraは、命じておいた公用車の管理表を頭を突つきあわして作っている。が、出来たものは…。何かを管理する経験は欠如している。

●皆、このようしてテントで寝ている。昨日は、ジンバブエ人法律専門スタッフ、Sipho君が、市内の焼け残った家屋の一つを自費で修理し、テント生活から脱出。UNTAET"所有"の建物だと、近い将来"家賃"を取られるという明確な”うわさ”から、CivpolそしてUNMOもこの現在の敷地から出て、同じように市内の建物に住みついている。まだ家賃の話しは正式に決まっていないが、神戸ハウスが来たら、確実にMSAの半分は天引きされるだろうとのこと。$54/dayで、自家発電、エアコン、トイレ、シャワー付きのプレハブを取るか、自費で修理してプライベートハウスに住むか。Suai市内に電気が通るのは、まだ数ヶ月かかりそう。発展途上国出身のスタッフには、MSAのSavingが大きく懐に係わるらしい。

2000年3月27日月曜日


Sub-distの一つで、村の代表者達を前に初演説。ボパティ(知事)と紹介されたので、ただの国連官僚のお邪魔虫であることを強調。受けた。●ネパール人行政官Indraに少し説教を垂れる。活動報告書の書き方だ。小学生にものを教えるみたい。45歳の国家公務員だというのに。夜、11時まで残業してやり直し。ご苦労様。

2000年3月31日金曜日
●着ディリ。DAミーティングのため。正規のDistrict Administrator達が着々とが着任しているからか、DA体制が整いつつある。初のDAだけのリトリートを一日中かけて行う。12月以降の鬱憤が爆発している感じ。次の日、DSRSG(UNTAET副代表)に噛み付く。意外とおとなしく受け入れてくれ、中央のポリシーメーキングにDistrict Administratorの役割が、(当たり前だけど)再確認されるきっかけとなったと思う。以後、監視するのみ。

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