2001年3月−4月の分

2001年3月22日木曜日
10日間の留守。昨日、ディリからスアイ到着。●本日早朝より、国連平和維持局本部、国連事務総長補佐(Assistant Secretary General)のHedi Annabi氏がスアイ訪問。初老のチュニジア人だ。General Smithに代わる新任のPKF Deputy Force CommanderのGeneral Powellも同行。いつもの様に俺がホストの半日のプログラムを組む。Annabi氏は、先週の東京でのセミナーで一緒だった。日本からの途中、バリからの飛行機でも隣合わせた御仁。何事もなくこなす。●Joao Mendoncaという人物。FPDKという当時インドネシアの諜報機関として使われていた組織の幹部。この県で、Mendonca一家として肩で風を切っていたらしい。この親父のCaetano Mendoncaは、いまだに西チモールの難民キャンプの顔で、自称難民支援グループUNTASの顔役。この一家の処分如何は、これからの難民帰還に大きな影響がある。昨日の帰還難民に紛れてJoaoが帰還、我がCivPolによって身柄を拘束中。この情報を聞きつけて、県CNRT幹部達が談判に来る。かなり鼻息が荒い。言い分は、どうせ我がCivPolが逮捕、ディリに送還しても、また証拠不充分で釈放されるに決まっているから(本当にそうなるだろうから辛い・・・)、JoaoをCNRTの管理下に置け。そうすれば、他の住民達からのリンチからも守ってやるし、“和解”を促進してやる、というもの。●去年から俺が言い続けている司法インフラの整備に目立った進展が見られない状況で、非常に返答に困るが、こんな要求をのんでしまっては、ただでも危うい“政府の威信”を自ら完全放棄してしまうもの。断じて出来ない。何とか威厳を保つのに一苦労。●司法インフラと捜査能力不足が招いた、ハードコアMilitiaの釈放。今日のCNRT幹部の出方を見ても、住民はかなり忍耐の限界に来ていると見なければならない。今日のやり取りでも、それらのMilitiaは、Freedではなく、Released pending further investigation(もっと証拠が出たら再逮捕)であると、苦しい答弁をしなければならなかった。現状では、Freed同然であると分かりきっているのに。こんな言い訳をしたり顔でするようになった俺は、一体何なんだ。

(俺の左がAnnabi氏。その隣がPKF副司令官General Powell)

2001年3月24日土曜日
午前中は週間報告書の作成。●午後は、ビデオCDで「グラディエーター」を観る。何回見ても、この映画は好きだ。音楽も良い。主人公の将軍Maximus。将軍なのに一兵卒に混じって戦闘に加わる。近代戦では全く考えられない構図。●夜8時からPKF Sector Westでの週間軍事ブリーフィング。Brigadier General Gillespieと一緒に上席を占めるのもいいが、ただ一人の民間人として軍人に囲まれたこういう会議でも、窮屈さを感じなくなってきたのは、やはり慣れのせいか。●その後、ディリへ転任になるネパール人スタッフPradeepの歓送会。彼はスアイに1年半勤務した。こんなハードシップ勤務地で長い間よくやった。拍手でもって送り出したい。

2001年3月26日月曜日
SRSGのChief of Staffからアホな通知。先日、スアイで逮捕されたMendonca一家のJoaoのこと(もうディリに送還されている)。西チモールにいるMendonca一家の親分Caetanoが、Joao逮捕を聞きつけ、難民帰還を妨害するという脅しをかけてきたのこと。だから、Joao逮捕を見直す為にディリで緊急会議を開きたいとのこと。アホ。こんな脅しに乗るバカがいるか。●そして、JoaoのSisterがUNTAET暫定政府の東チモール人裁判官になっていると、わざわざ記述。それがどうしたというのだ。アホ。

2001年3月27日火曜日
昨日、UN市民登録スタッフと我がLegal Officerが運転するUN車が地元住民男性の運転するオートバイと接触事故。かすり傷ですんだが、この男は、去年起きたWFP(World Food Program)の日雇い労働者争議の首謀者の一人。やっかいな奴。CivPolの対応にごうを煮やしたのか、俺のところに談判に来る。こういう他愛無い事件が大きな暴動を触発するような昨今の状況なので、時間を惜しまず対応する。笑顔で返って行った。●二週間前から始まった東チモール市民登録(Civil Registration)。スアイ市内にオープンした市民登録所で暴動騒ぎ。でも怪我人は出ず。一つの登録所で1日200人をこなすのがやっと。ドイツから持ちこんだコンピューターの度重なる故障のせいだ。暴動は、このスローな対応に苛立った20人くらいの若者が起こした。(それとも裏で煽っている黒幕がいるのか)。県治安評議会District Security Council: DSCで協議。CivPol、特に東チモール警察隊Timore Lorosae Police Service: TLPSの配備を検討(TLPSは小銃を携帯せず。市民に威嚇の印象をなるべく与えないようにするため好都合)。しかし、この事件、何か予兆のような気がする。●今日の県政評議会District Advisory Council: DAC。Mendonca一家(Militia)のJoaoの扱いをめぐって、CNRTからイチャモン。Joaoは逮捕したのに、一緒に帰還したもう一人の舎弟Domingosを何故逮捕しなかったのかというクレーム。Joaoの逮捕は、ディリの誰かがこやつのスアイ教会虐殺での関与を告訴したため。Domingoは誰からも告訴されていない。だから逮捕できるはずがない。この論理が、やはり感情が先に立つからか、ここの人たちにはなかなか理解が難しいらしい。Militiaだから即逮捕しろ、が彼等の要求。しかし、犯罪の直接目撃者や被害者が提訴しない限り、逮捕はできない。この点を改めて強調。目撃者と被害者のカミングアウト奨励の手助けを全てのDACメンバーにアピールする。●公務員教師選抜に於けるNepotismと給料支払いに於ける着服事件の特別調査委員会(我がDACが任命した)がやっと報告書をまとめる(6ヶ月以上かかった)。全てを東チモール人(DACメンバー)で行なった。実名入りのかなり詳細な調査。上出来。額は小さいが着服の事実、選抜試験に落ちた人物が選考されたりのケースが多々。DACでは、これらをどう対処するか、刑事訴訟かCommunity Mediationかを討議。公衆の面前の謝罪などのCommunity Mediationに議論が集中。来週、更に詰める。

(スアイ市内の市民登録所)

2001年3月28日水曜日
Liquisa県で、UNTAET地元スタッフがスト、との情報。●Xanana Gusmao氏が、National Council国民評議会議長と将来の大統領候補者から降りるとの声明を出したことが確認さる。国民評議会に関しては、去年に引き続き二回目の辞任劇。3度目は誰も信じなくなるだろう。●辞任の原因とされているのが、Constituent Assembly制憲議会制定関連の法案、誰もが通ると思っていたその法案がNational Councilで却下されたため。Constituent Assemblyは、暫定政府下最初の選挙になる為、ここでつまづくと更なる遅れが(独立の)が予想される。National Councilは、各分野、政治グループの東チモール人リーダーたちで占められる。Xananaは、これらリーダーたちを国のためより自分たちの利益で動いていると、この法案却下に失望というふうに報道されている。これが本当なら、Xanana。それが民主主義と言うものであろう。

2001年3月29日木曜日
Juliana dos Santos。Militiaの一人Manekに性奴隷として略奪され、未だに西チモールに監禁されている。もう子供も生まれている。現在、 Xananaの妻の梃入れで東チモールの人権問題の象徴として世界的に脚光を浴びている。Julianaの両親は、我がSuaiに在住。俺のスタッフの一人、人権専門家Su(マレーシア人)がたまたまその隣に住んでおり、色々と親身に相談に乗っている仲。そのSuに言わせると、何せ「性奴隷」というセンセーショナルな事件、ジャーナリスティックな価値のためか、良心を装って色々な大物がわれもわれもと取り上げるが、両親の心はすさむばかり。●この傾向の一環が、UNTAETディリでの“主導権”争い。昨日、SRSGデメロ氏付きのChief Of Staff(マレーシア人)が、PKF本部を通して、我が県の国境Saleleで、Julianaと両親の対面を演出すると、通知してくる。Julianaの西チモールからの護送の手配は、インドネシア軍TNIによるもの。このChief Of Staffは、インドネシア政府とMilitia組織との交渉の先頭に立っている人物。インドネシア政府からの使節団との会議の席で緊急に決まったらしい。ところが、面白くないのが、インドネシア政府との外交問題を管轄するはずのUNTAET政務局本部(あのガルブレイスの息子、Peter Gulbraithが長)。この情報を聞きつけ、今朝俺に電話で、その対面式を中止せよと打診をしてくる。インドネシア政府が、国際世論からの避難をかわす道具に使われるだけ、というのが政務局の意向。一理あるが、現場の取り仕切るのは我々。TNIとの中継ぎ役の我が県の国連軍事監視団隊長のDavid(イギリス陸軍中佐)とSuを送り出したばかり。政務局の要請を蹴る。●結果は、両親は国境に行ったものの、肝心のJulianaは現れず。TNIによると、東チモールに近づくのを極端に怖がっているとのこと。代わりに、両親が西チモールに行ってJulianaに会う可能性を議論。TNIのRegional本部があるAtambua(去年9月にUNHCR職員3人が虐殺された町)へ我が国連軍事監視団が付き添うことに。もちろんTNIの武装エスコートが条件だ。Suも同行する。4月3日の予定だが、ディリのレベルでまた一悶着あるだろう。●午後、ディリ政務局に電話する。とにかく、これからこの手のイベントの指示は、ディリ本部の各部署がお互いコーディネートした上で行うこと。そして、現場ではDA(俺)が一括してコーディネートすること。●Julianaは、1999年9月のスアイ教会虐殺の重要な証人。虐殺の現場にいて、彼女自身の弟が殺されるのを目撃しているとのこと。そして、インドネシア軍TNIの関与に関する証言も期待できる。今まで暗殺されなかったのが不思議なくらいだ。

2001年3月31日土曜日
Julianaのケースの続き。先日、我が国連軍事監視団隊長Davidと人権担当官SuとTNIの間で合意した、Julianaの両親がAtambuaまで出かけてJulianaに面会するという提案。ディリの同意を得られず。残念。対インドネシア外交が絡む、そして同行するスタッフの生命保険その他の保証が絡むことなので、現場の俺達の意思で単独行動はできない。しかし、これは両親の心を弄ぶようなもの。しかし、どうしようもない。●最後の手は、PKF Sector Westの司令官Brigadier Gen. Billespieだ。形式上はPKFディリ本部の下部組織だが、TCWG(インドネシア軍TNIとの信頼醸成円卓会議)の主宰権を握っているのでTNIと独自のコンタクトを持つ。ディリを出し抜く形になるが、現場レベルでTNIと直接交渉してJulianaと子供の帰還作業を進めてしまう可能性を、夜、Brigadier Gen. Billespieに提案しに行く。Billespieは、俺同様、ディリの主導権争いに立腹。Atambuaでの面会案では、TNI西チモール司令官Gen. Da Costaが直々主催するという打診を受けていた。ディリ政務局の一方的なこの案の却下にも立腹。●しかし、昨日、PKF Force Commanderと政務局、SRSGの間で協議があり、このJulianaの件に関しては、PKFと国連軍事監視団は完全に手を引く、との合意に達したとのこと。PKFはディリ・レベルでも、文民政府当局間のアホなエゴの争いには付き合ってられない、と判断した模様。つまり、将来たとえJulianaと子供の救出劇が組まれても、国境を通過して実施されることはないということ。つまり、KupanguかバリDenpasar経由、もしくは国外のどこかで落ち合うということになる。これもアホらしい。とにかく、静観するしかない。

2001年4月2日月曜日
夜9時半、国境Salele(Junction Point Foxtrot)で、PKFとTNIが交戦したとの情報。負傷者は出なかった模様。現在は治まっているとのこと。どちらが先に発砲したか、調査中。●PKFは、APC(中型戦車)二台と一個小隊を配備、警戒中。TNI側にも人員を配置している国連軍事監視団の活躍どころ。PKFのこの警戒体制をTNI側に知らせる為、無線上忙しく立ち回る。●朝10時から県教育委員会の面々を集めて会議。教師の不登校の問題に発するモラル低下の対策をざっくばらんに話す。25年間のインドネシア占領下でスプーン・フィーディングされた結果、教師の家を村人が自力建設するなどのコミュニティの自助努力の精神が著しく損なわれているとは、県教育委員会委員長の弁。もっともらしい。給料がちゃんと支払われているのに不登校を続ける不届きな教師を監視する為、教師の出勤簿をその学校の校長の管理ではなく(馴れ合いになっているから)、コミュニティ管理にするということで同意。これをきっかけとして、教育を支えるのは地元住民、という考えを拡大して行かなければならない。政府だけの力でこの国の教育を維持するのは不可能。アフリカの経験から分かる。●この委員長(去年、旧教育委員会事務所をスアイ署に転用する案を俺に思い止まらせたあの頑固爺さん。個人的には好き。)とAlipioは犬猿の仲。Alipioは、去年3月まで、この頑固爺さんの下で働いていて追い出された経緯がある。Alipioが副知事になってから、事情に通じているということでまず教育分野の担当にした俺の作戦が裏目に出た。この教師のモラルの問題の対策を口実に、しばらく俺が直接関与すると宣言。教育委員会の面々は一様に満足そう。この辺、非常につらい。●午後は、CivPol署長Paulaを交えて、先週の県政評議会で(遅れに遅れて)提出された教師採用と給料支払いに於ける不正の調査報告について会議。去年、この問題にCivPol独自の犯罪の観点からの調査を指示したのも俺。調査報告公表は、この二つの調査の整合性を確認してからということに。

2001年4月3日火曜日
昨日夜の国境Saleleでの交戦の続報。真相は、Militiaらしき武装集団が、国境の川床からPKFフィジー隊基地に向けて発砲。自動小銃によるもの。これを受けてフィジー隊応戦。TNIは応戦しなかった模様。負傷者なし。これに前後して、Salele付近(東チモール側)と我が県中央部スアイ空港付近で、ほとんど同時刻に発光弾が目撃された。そして、国境海域でも不信な船舶が目撃され、偵察に向かったPKFヘリが到着前に逃走。隣のBobonaro県でも同様の事件が発生。●今朝、CivPol署長Paulaと協議。昨夜の一連の事件は、組織だったMilitiaの攻撃との認識の元に、DOC(District Operation Center)を発動。やっとCivil-Military Cooperationの要になるDOCを本格的に運営する機の到来。一昨日、スアイCivPol分署の隣の一室に、DOC専用の通信機材を設置したばかり。●午前10時から第一回のDOC会議。DAの俺を頭に、CivPol署長Paulaに実質的な進行を任せ、PKF情報将校、UNMO国連軍事監視団隊長、UN Security Officerでコアを形成する。去年二人のPKF兵士犠牲者を出した時の教訓から(この辺の歴史を語れるのはスアイでは俺一人になってしまった)、有事の際に交錯しがちな情報の収集経路を全てDOCに集中することを確認。この情報交錯の問題は、昨日から今朝にかけて実際に起こり、PKF Sector West司令部、PKFニュージーランド大隊、それにTNIとの調停に当たった国連軍事監視団との間で、混乱を極めた。●NGO、その他の国連援助団体向けには、国境付近への活動自粛、夜間の行動の自粛、無線傍受の徹底という指示を決定、伝達する。●そして、地元社会での風評を最大限にコントロールする為に、DAの俺の名前で事態の説明と、国境への接近の自粛勧告を、ラジオUNTAETで放送することを決定。夕方、ディリ本部を通じてオンエアする。今日から、事態が平常化するまで、DOCは24時間体制。●午後3時から、DAC:District Advisory Council県政評議会。地元リーダーたちに、治安情報を伝える。とにかく、TNIと戦争しているわけではない、ということを子供に諭すように何度も何度も繰り返す。●夜9時、今日第二回目のDOC会議。国境の情勢は平静。今朝から敷いている警戒体制は、このまま明日まで維持。明日朝、第三回目のDOC会議で見なおす。良いドリルになった。●Alipioがまた問題を作る。昨日、あれほど念を押しておいた、教師問題の報告書の公表をCivPolの刑事調査が終わるまで待つ、という約束を破り、ディリの人事院CISPEに流したことが判明。Alipio本人は今朝から別件でディリに出張中だが、CISPEからの問い合わせで判明する。かの報告書には、犬猿の仲の県教育委員会委員長の名が含まれており、委員長の座から引きずり落とす狙いだったらしい。かなり厳しいお灸を据えなければならない。●Alipioに限らずかなり広い範囲のリーダーたちに見られる幼稚なまで露骨な足の引っ張り合い。これは、アフリカでも経験しなかった東チモール特有の病気か。極端な疑心暗鬼の文化が25年のインドネシア占領下で定着してしまったのか。

2001年4月4日水曜日
治安情勢は落ち着いている。午前8時半からDistrict Operation Center:DOC会議。国境付近での援助活動の自粛勧告を解除する。●現在進行中のCivil Registry市民登録作業。これが完了しなければ、8月末がターゲットのConstitutional Assemblyの全国選挙は実施できない。市民登録プロジェクトはドイツの丸抱え援助。我が県では15人の国際スタッフが配属されているが、DAの俺が現場で統括するものの、ディリの市民登録HQに人事権がある。我が県のチームリーダーは、オーストリア人のRudy。やり手で人柄も良く俺と馬が合うが、何せ酒癖が悪い。今日、そのスタッフの一人が正式に俺のところに苦情を提出しに来る。週末に朝から泥酔し、このスタッフの家に車で乗り付け、罵詈雑言の限りを尽くしたらしい。同じく、UNTAETのオフィスの近くに居を構えるポルトガル政府派遣のポルトガル語教師のボランティア達からも苦情。「ポルトガル人のアホ」(これは分かる)とか「ファック」とかの罵声を浴びせ、ついでに石も投げたらしい。前回の俺の日本への出張中には、泥酔状態で無線機片手に全く呂律の回らない大演説を放送し、我がSecurity OfficerのCraigに取り押さえられる、ということがあった。●仕事ができる奴だけに残念だ。ここまで来ると人事的措置を取らねばならない。しかし、その前に最後のチャンスを与えることにする。誠意ある謝罪と禁酒の誓いを立てることで、被害者の同意を得ること。やれやれ。●シエラレオーネの件。UN NY平和維持局本部から履歴書再提出の打診があってから、まだ未だに返事がない。もうそろそろ我慢の限界か。

2001年4月5日木曜日
午前3時、無線連絡で目が覚める。国境Saleleの西チモール側に常駐している国連軍事監視団から、午前2時45分頃東チモール側で手榴弾らしき爆発音が確認されたとの連絡。PKF側の確認に何と1時間もかかる。国境に配備されているPKFフィジー隊がゴミの焼却中に、その中に紛れこんでいたエアゾール缶の破裂音だとわかり、ずっこける。真夜中に何やってるんだ、まったく。●無線連絡で反射的に目が覚めるようになった。これは良い癖がついた。●今日から2日間ディリでDA会議。

2001年4月6日金曜日
ディリにてDA会議2日目。●ディリ政務局から、Constituent Assembly制憲議会関連法案の議題。今月National Council国民評議会が却下し、それに怒ったXananaの辞任の原因となった例の法案だ。この法案は憲法草案の過程でより広くの国民の意見を吸い上げようという精神の元、DistrictとSub-District(郡)レベルに制憲委員会を作り、公的なヒアリングをし、憲法草案の下地を造ろうというもの。こんな直截な善意に基づく法案が、国民評議会で却下された背景は、各政党の利己的な思惑によるもの。郡レベルのリーダーシップは1999年の騒動以来、CNRT任命の面々。そもそも政治政党ではないCNRTが政党化している昨今、それに対抗意識がある他の政党たちが、憲法草案の過程がCNRTにポリティサイズされることを恐れたためであると考えられる。下らない。●今日のディリ政務局の説明は、国民評議会で一旦却下されたこの法案を、SRSGデメロからのDirective(訓令)として早急に執行しようというもの。数日前にこの決定が下ったとき早速俺の片腕、元ガンビア国連大使で県政務官のOmarに噛みつかせたのが俺。国民評議会は選挙で選ばれた東チモール人ではなく、SRSGによって“任命”された人達だから、たとえその意に反しても“緊急時”には、Directiveによって執行できるというのがディリ政務局の理由。つまり、この国連暫定統治下、国民評議会には法的な決定権はなく、ただのConsultative Bodyであり、SRSGが常にoverruleできるという見解。しかし、法的には説明できても、一般の国民の意識からかけ離れている。一般の東チモール人にとって国民評議会は“代表”であり、その意見をoverruleするのはDictatorialな印象を与え、政治文化が形成途中のこの時期にあんまりではないかというのが俺の意見。●この日のディリ政務局の言い分けは、今回のDirectiveは却下された法案と違う内容であるということ。どこが違うのかと俺。違いは一つだけ。郡レベルでの制憲委員会の設置をやめ県レベルだけにしたとのこと。あとは全て同じ。あまりに苦し紛れだったので、これ以上突っ込む気になれず。それと、やはり、ここでおたおたすると、ただでさえ危うい8月末のConstituent Assembly制憲議会の総選挙実施予定がさらに遅れる原因を作ってしまう。●しかし、お粗末きわまりない。どうせDirectiveを使うんだったら、最初から国民評議会の議事にかけるなっていうの。

(ディリから帰省。ヘリから見たスアイ飛行場。)

2001年4月11日水曜日
我が県に東チモール人知事(DA)の派遣決まり! 午前中に内務大臣Anna Pesoaの事務所から連絡あり。二人の候補者の名が上がり、この内の一人を赴任させたいので、地元のリーダーたちの感触を見てくれとのこと。二人ともこの県出身ではないので、県民全体が非常に“閉鎖的”(チモール人であってもよそ者を受け付けない)になっているので、一番何か言いそうなCNRTの面々を中心に、受け入れの下地を整えなければならない。●これで、ここを離れる立派な口実ができそうだ。副知事のAlipioが少し動揺していたみたいだが、二人の現地人Headができるのは、何かにつけパワー・バランスがとれて良いことだ。本当に良かった。

2001年4月12日木曜日
昨日の東チモール人知事の派遣について情報が交錯。アホみたいな事態。昨日連絡があった二人の候補者は、知事ではなく副知事のポストであるとのこと。どうも内務大臣Anna Pesoaは、人事院CISPEと全県のコーディネーション課であるOffice of District Affairs(ODA)と何の連絡も取らずに事を行ったらしい。つまり、Alipioと他県2人の副知事とAnna Pesoaとの間に、知事への昇格の密約があり、空席となる副知事の補充ということだったらしい。Alipioが知事に昇格するのに何の異論もないが、人事院を通さず(昇格審査や公示なしで)人事を行なうのは、Nepotismと捉えられてもしようがないやりかた。ODAからは、この二人の候補者に関して全てのアクションを停止するように指示される。やれやれ。●スアイで逮捕後ディリに送還されたJoao Mendonca。予想した通り、証拠不充分で釈放される可能性が高くなってきたとのこと。人権担当官Suは、この2,3週間寝る暇も惜しんで証言集めに奔走している。華奢な女の子だから、かなり憔悴している。1999年9月のスアイ教会虐殺の前後のJoaoの動向を立証する証言が取れそうだが難しい。まず証言者の記憶が薄れてきていること。もう一つは、裁判になったら証人として喚問され被告弁護人から突っ込まれるという覚悟が前提の証言だから尻込みするケースも。●こうやって証言を集めて行くと、Militiaが悪さしていた当時、露骨な寝返りとはいかないまでも微妙な保身に徹していた面々のことが表に出てくる。これが暴露されることが今となっては身の危険と考える奴も出てくるだろう。Suには、調査を進めるに当たって身の安全を留意するように釘を指す。

2001年4月13日金曜日
今日はイースター。よってオフィスは休日。朝からCivPol総出で交通規制と警戒体制。

(スアイ教会司祭に率いられたイースターの行進。東チモール警官が警護。)

2001年4月16日月曜日
このところずっと俺自身のProductivityが極端に落ちている。気を引き締めなければ。●アル中のRudy、ついに年貢の納め時。週末に禁酒の掟をやぶり、またもや大酩酊。今朝、奴のスタッフが市民登録ディリ本部に報告。即刻のディリ送還が決まる。たぶんくびになるだろう。いい奴だけに残念だ。●夜、Saleleでちょっとした暴動があったとの報告。CivPolを派遣。大きな騒ぎには至らなかったとのこと。分析は明日。

2001年4月17日火曜日
ミーティング、ミーティングの一日。●スタッフ会議では、チモール人公務員の出勤簿の徹底を確認。やはり、最大人数をかかえる教育部門が課題。●スタッフ会議では、半数以上がチモール人公務員という構成になってきた。副知事Alipioを頂点とする公務員の統制を如何に醸し出すかが課題。●DSC:District Security Council県治安評議会。PKFニュージーランド大隊の情報将校に昨日のSaleleに於ける騒動の報告を指示すると、まだ分析が終わっていないなどとうやむやな応え。諜報の機密性を盾に、文民に対して優位を誇示しようとするちんけな精神。ぽっと出の将校にありがちな態度だ。この情報将校は交替したばかりの新任。ちょっとうんざりだが、また“教育”の繰り返し。キツイ調子でこのアホに説教。「軍の諜報活動はDSCのような文民主導の権威に監視されないとこの国の文民主導の民主主義形成に負の遺産を残すことになる」、「とにかくPKFを国内の紛争鎮火に動員するのは一番最後の手。それは文民主導の調停作業の敗北と認識された時のみ」。こやつ目を白黒させていたが、次回からのDSCは、Early Detection of Conflict(紛争の早期発見・分析)を定例議題にすることを宣言、文民主導の調停チームの早期発動を紛争調停の要にすることを再確認する。●DAC:District Advisory Council県政評議会は、議長を副知事Alipioに任す。制憲委員会の県メンバーの選考が主な議題だったが、指摘されていたモノローグの傾向は影をひそめ、コンセンサスを得る方向に導く努力が見える。なかなかよろしい。●大きな台風がチモール島に上陸しそうだとの報告が入る。DOC:District Operation Centerがいつでも発動できるように、今夜は警戒体制。

2001年4月18日水曜日
一昨日のSaleleでのちょっとした暴動。問題の根は深そうとの感で、この郡のリーダーと会う。Saleleはこの郡Tilomarの郡庁所在地の町だ。●ことの発端は、この郡内の山間部にあるFoholulikという村。親インドネシアの村として知られ、当時はあのLaksar Militiaの拠点となっていた。場所的には国境にすぐ近くに位置する。現在でもこの体は変わらず、反独立の村として周りの村からは白い目で見られている。更に、この郡の大部分の人間はブナック語を話すのに対して、この村だけはテトゥング語圏。これが一段と隔絶感を増す原因に。●公務員教師の再雇用・再編成に伴い、このFoholulik村の小学校によそ者Salele出身の教師が転勤することに。しかし、Foholulik村の不穏分子から日常の嫌がらせ、恐喝を受け、ついには教師の“登校拒否”という事態に発展。事態を重く見た県教育委員会と我が教育担当スタッフのFilipe(モザンビーク人)がかの郡リーダーを伴って、Foholulik村を訪れたのが今月4日。この郡リーダーに付き添ってきた自警団員と村の不穏分子とのちょっとした言い合いが暴力沙汰に。この自警団員はこっぴどく殴られ、郡リーダーとFilipeと教育委員会の面々はほうほうの手で逃げ出したという顛末。●俺はこの日、もちろん一番先に報告を受けていたが、ことが親インドネシア派の問題を孕んでいるだけに、刑事事件として文民警察を出動させるのは俺の意志で早計と考え、この村の背景を調査していた。これにごうを煮やしたのが、今度はSalele側の不穏分子。自分等の仲間(自警団員)が殴られ、リーダーも危ない目に遭ったのが癪に障り、フラストレーションがエスカレート。はけ口として一昨日の騒ぎとあいなった次第。●もう一つの問題が、この一昨日からのSaleleに於けるPKFと文民警察のちぐはぐな対応。PKFが暴動鎮圧のためにQuick Response Unit(機動部隊)の出動を出張。(アホか)。文民警察は、首謀者を夜中に連行し、「インドネシア時代の悪夢の再来」と村人から非難され、さらにPKFと文民警察のエゴがぶつかり合い、全く連携の体をなさず。今日の俺の介入はタイムリーだったが、この連携の旗の元にDOC:District Operation Centerなどをぶち上げたものの、いざ非常時になると絵に描いた餅になる脆弱性が暴露。情けない。●今日、Foholulik村と和解作業を開始することにをこの郡リーダーと合意。まず最初に俺と彼だけでFoholulik村を訪れタウンホール・ミーティングを開くことを提案したが、かなり怖がっているよう。自警団員を同伴させたいという。しようがないから、知事の通常のタウンホール・ミーティングというふうに装って、まず俺一人で訪問し、和解作業の地ならしから始めることに。来週の月曜に俺が赴く。●オフィス到着後、文民警察副署長とTilomar郡駐屯のPKFニュージーランド中隊隊長を呼び出し会議。PKFは、武装警護付きの和解会議を計画していたが、これを却下させる。和解会議はあくまで非武装、文民主導の原則の徹底を指示。文民警察には、名前が挙がっていたFoholulik村騒動の首謀者の操作開始を、月曜の俺のタウンホール・ミーティングの結果が出るまで待つように指示。とにかく和解に銃は必要ないのだ。●しかし、このFoholulik村。和解に関わる問題の象徴的なケースになるだろう。