円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(1) 三葉は、本当に一度死んだのか?


 ほぼ大半の人々が考える「君の名は。」の、瀧の行動の原動力は、三葉に会いたい、だけではなく、死に直面する彼女を救いたい一心である。
 ところが、当方が出した解析結果は、「三葉は死んでいない」という驚愕の結論である。

 「そんなバカな」と思われる方も多かろう。というわけで、当方が、ストーリーから解析した、決定的な証拠を列記しつつ、この結論がいかに間違っておらず、そしてそれは新海氏の表現力の力であるという事を証明していきたいと思う。

 証拠その1/瀧が見ているWEBニュースのシーンだけで、今までのことがすべて矛盾していることに気づかされる。
 
 決定的な証拠というものは、こういう、伏線だらけのストーリーであるがゆえに、また、大団円に終わっていると表面上わかっているだけに、ラストシーンの導出直前のわずか数秒の描写に隠されていようとはほとんどの方が気が付いていない。
 ではそのシーンを文章で再現してみよう。場所は、瀧が奥寺先輩と、災害発生後の8年後に当時を振り返るテレビ番組がYUNIKAVISIONに映し出されるところから。この直後、「自衛隊提供映像」とキャプションの打たれた、ニュース映像が流れ、今までの新聞/雑誌記事はものの見事に「奇跡的に全員無事」などと書き替えられている。瀧のセリフとしては、その自然災害に興味を覚えてはいたものの、「あの町に、知り合いがいるわけでもないのに」と言い切ってしまっている。
 そして瀧がおそらく落下数日後に見ていたであろうニュース記事が、「謎の停電」にまつわるWEBニュースなのである。

 歴史が改変された、とみるのが妥当と思われがちなこのストーリー。だが、よくよく考えてみると、瀧に時間遡行の能力があったとか言う記述は全くない。当然、歴史をそのままに過ごしている三葉サイドには、その必要がない。
 瀧が干渉したことで歴史が変わったのだとすると、すべての事象…500名もの命が救われたということは、それだけでも歴史に大きな変動をもたらしているはず…に変化が訪れていないとおかしい。
 そして、2013年時点で、瀧は糸守の災害のことに少しだけ興味を持っていたとはいえせいぜい、その当時使っていたiPhone(6ではない)を使ってニュースを見ていただけにとどまっている。

 だが・・・「停電している」という事実がもたらす、「あの」シーンとの矛盾が浮き彫りになる。そう。開始一秒。「あーきれいだなー」とみるものを恍惚とさせる、隕石の落下シーンでは、街の明かりはこうこうとついている。もちろん、最後のクライマックスシーンでは、停電している糸守に隕石が落ちてくる。2013年のWEBニュースがそれを補完しているわけなのだが、この「明るい糸守」と「暗い糸守」が、同じ2013年10月4日なのに出てきてしまうことがおかしいのである。

 二つの事実は存在しない。そう考えるのが妥当だ。二つの糸守をどう考えるのがいいのか? ”正解”と考えられる結論は2つある。
 ①歴史が書き換わった(オープニングも仲良し3人組が広場で彗星ショーを見ているのも正しいが、瀧が干渉して死なない時間軸に移動した)
 ②もともとの正解は「停電している糸守」であり、電気のついている糸守と隕石の対比は間違っている。

 数回程度/解析などをしようと思わない層の人なら、いまだに①が正しいと思っているはずである。だが映像で描かれた順ではなく、時系列で並べると、「2013年隕石落下→その後ニュースを携帯で見る瀧→この間に引っ越し→2016年に入れ替わり勃発→カタワレ時で別次元の2013年10月4日に飛ばされる→記憶を失う」の順序で描かれている。下線部に注目である。このニュースは、 瀧の入った三葉が起こした(道筋を作った)事件ではない ことが証明されてしまうのだ。

 となると何が導き出されるのか?
 ・瀧が関わっていないのに変電所で爆発事故が起こっていた。
 ・暗闇の中で隕石が落ちてくる、最後のシーンが答え=唯一無二であり、「それ以外の記述は間違っている」
 ・すなわち、広場で見ているシーンも、口噛み酒トリップで彗星そのものを目の当たりにするような描写も、間違い=なかったこと →三葉が死に至るとは考えられない

 となるのだ。

 証拠その2/2016年10月22日と2013年10月4日がリンクしている

 後で記述するわけだが、瀧が発案し、なぜか司と奥寺先輩が同伴してしまう、糸守を発見しようとする『飛騨探訪』のシークエンスは、小説にも「金土日で探す」ことが言われており、高木のバイトシフト交代の許諾動画の撮影日が2016.10.17であることから、出発日が2016年10月21日の金曜日、翌日の土曜日にご神体を訪問、カタワレ時で三葉と出会い、記憶を喪失、10/23の日曜日に「こんなところで何やってんだ」と、まるでここに来たことすら理由もわからなくなっている瀧が描かれている と断定できる。
 2016年10月22日。瀧はやっとの想いでご神体に到着、13時50分ごろに三葉の口噛み酒を飲み昏倒。口噛み酒トリップを経て2013年10月4日の三葉の中に入ることに成功する。
 
 今までの入れ替わりは、実体のあるお互いが、時間のずれはあるものの、入れ替わることで表現されている。特に月と日は同一である。ところが、このときは、月日はもとより、糸守に隕石が落ちた後の「生死がわからない」、いや、このときには死んでいると誤認している三葉と入れ替わることに瀧はチャレンジしたといっても間違いない。
 
 2016年10月22日に、瀧の体の中に入ったのは、どんな三葉なのか?これを考えるとなかなか面白い。
 普通に考えれば、2013年10月4日の三葉の中には2016年10月22日の瀧が入っているのだから、2016年10月22日の瀧には2013年10月4日の三葉が入ってきて当然である。ところが、彼女の精神と、瀧が見た口噛み酒トリップがリンクしてしまうシーンが出てくる。それは、彗星がゆっくりと目の前に落ちてきて、直撃を食らうかのようなワンカットだけ。ひょうたん型になった糸守湖を見下ろしながら、「私、あの時…死んだの?」としゃがみ込むまでがそれである。

 しかしながら、上でも書いたように、隕石の落下シーンは暗闇の糸守町の宮水家近傍に猛スピードで激突するのが正解。口噛み酒トリップで”体験”した彗星本体が迫りくるような記述は間違っている。間違っているのだから死に直面しているとはとても言い難いのだ。
 では現実に起きていない現象をなぜ彼女は記憶できていたのか?口噛み酒トリップ内の2013.10.4の記述は浴衣に着替えるところから表現されているわけだが、これも実は正しくない。もっとも、このシーンがあるおかげで、三葉は2013年10月4日を「2度」演じることになった、と認識でき、それは歴史を書き換える(と錯覚させる)クライマックスシーンに向かう一連の作劇を成功させることになったわけである。そう。口噛み酒トリップは”トリック”でもあったのだ。

 「三葉は死んでおり、2016年10月22日の瀧に憑依したのは霊魂だけ」という意見を唱える人もいた。だが、私はその説には真っ向から反旗を翻したい。
 タイムスリップを扱った(最終局面ではそういう表現にしてあったが)わけでもなく、まして、ゴーストまでもが登場するオカルトチックな内容でもない。そもそも私は、死者の甦り、霊の存在、歴史の書き換えをこの作品は謳っていないと考えている。

 証拠その3/彼女の死を目の当たりにしていない
 監督にとって「三葉を死なせる」ことをどう表現しようか、というのはかなり迷ったのではないか、と思うのだ。彗星が落ちてくる→死亡、と単に刷り込ませるだけでなく、それは不可避なのだ、と思わせておかないと、以後の歴史改変とされるシークエンスの盛り上がりに欠けるからである。

 そこで使われたのは、まさに観客に三葉の行く末を『忖度』させる方向である。三葉は、割れた彗星が、よもや自分の近くに落下するなどとは思いもよらないで、彗星天体ショーに見入っている、あるいは、口噛み酒トリップで見せたように、逃げようとするも身体が硬直して、なすすべなく落下を認識しているシーンが提示され、その後に暗転、激突したときのような『ギーン』という独特な効果音で、彼女の身の上に何かが起こった、と思わせることに成功する。

 ただ単に「死にました」とは提示せずに「何かが起こった」とだけを観客に知らせる。だが、隕石が直撃に近いところに落ちてきたのだから死んでいるに決まっている、とみんなは思う。
 監督氏は「それで十分だし、むしろ死んだと書き切ると歴史改変ものになってしまう」と思って、あの程度の、それでいて衝撃的な演出にしたのだと思う。

 そして、その「何かが起こった」という記述は別の効果も生み出す。
 「三葉が死んでいない可能性」である。
 もちろん実際にスプラッタよろしく「チリヂリになった」三葉を見たいわけではない。だが、描かれていない以上、死んだとも死んでいないとも、両方の解釈は可能である。
 そしてこのことは実に重要でもある。

 
 かくして証拠は3つ上がっている。特に重要なのは、やはり「証拠その1」だ。
 2013年の(2016年に住んで居る場所とは違う)時点でニュース記事に触れている。それは新聞でも雑誌でもなく、webニュース。もしこれが事実でないとしたら、ネットの信ぴょう性は地に落ちる。
 正しい情報に裏打ちされたラストの隕石落下シーンがそれであり、それは唯一無二の歴史の事実を提示する。だから、それ以外の描写/記述は間違いであると断言できるのである。

 私の解析の集大成、といっても過言ではない、三葉の処遇をトップ記事においたのは、数回程度しか見ない人にとってみれば「死んだ彼女を生き返らせるためのスト―リ―」となるところが、様々な状況証拠を積み重ね、決定的な物的証拠を携えれば、その結論とまったく真逆…「彼女を死なせないために入れ替わりは起き、歴史を変化させなかった」ということがはっきりするのである。