円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(2) 時間のずれに気が付かない二人

「夢灯籠」が流れ終わり、いよいよストーリーの本編に入っていく。さて、入れ替わりをどう表現しようかと思ったのだが、今後、生身(精神も肉体も入れ替わっていない)の二人は【瀧と三葉】で、入れ替わっている二人を描写するときは、「瀧ちゃん」「三葉君」と描写していきたいと思う。「三葉の入った瀧」とか、まどろっこしいので…

 ストーリーはいきなり、瀧ちゃんの起床シーンで幕を開ける。だが、シーンは入れ替わり朝食を作る場面に。これは、三葉に戻っている描写がなされている。
 授業のシーンでは黒板に書かれている日付は9月3日の火曜日。「イケメン男子にしてくださぁぃ」と無理難題をお願いして次のシーンでは、三葉君が描かれることになる。

 こうして、入れ替わりの端緒のシーンが導出されるわけだが、この部分はかなり強引にまとめてある。瀧ちゃんは9月2日に入れ替わっていることが前後の日付でわかるわけだが、相対する三葉君が9月2日にどうであったとかはわからない。三葉君が東京を初体験するのは9月5日で確定であり、また、この日が、二人の入れ替わりの日付であると確定している(日記のスタート日付がその日だから)。

 正直、序盤の強引さよりも、世間一般の認識はこれに集約されると思う。

  「なんで二人とも、3年ずれていることに気が付かないのか?」

 この部分が、結構駄作と秀作の分かれ目になっていると断言したい。「ダメ」と評する人々の意見は、「そんなはずがない」「曜日のずれで気が付かない方がどうかしている」など。秀作と判断する層は、「日付はこの時点でさほど重要でない」「夢と認識していて、日付まで気にしていなかった」と語る。

 3年ずれていることを初めて口にするのは、ご神体を訪問し、口噛み酒を飲もうとした瀧である。もう少し正確に「3年」が言われ始めるのは、糸守高校跡地で被災地を目の当たりにしたときでもある。そして、その時まで、瀧サイドは糸守が2016年にも存在していると信じて疑っていなかった。
 そして、二人は、10回程度に及ぶ入れ替わりを実際「楽しんでいる」描写が見受けられるのだ。瀧ちゃんは、バスケで大活躍、バス停のカフェ化にも積極的に取り組む。三葉君は、どういうわけか奥寺先輩との仲を深耕させる方向にかじを切り、夢ではなく入れ替わりは現実だと認識してからでもカフェでの散財を止めようとしない。二人が二人とも、好き勝手に行動しているような描写になっている。

 「前前前世」がかかっている間の彼らの動きはまるで2013/2016の違いすら感じさせない。だが、決定的な違いを画像から見いだせる。
 実はテレビを見ているのは、三葉だけであり、だからこそ、同じ時を過ごし、みているはずのテレビを思い起こせない瀧ちゃんの記憶は、「過ごしてきた2013年をもう一度、三葉の体で体験している」からこそ、覚えていられないのである。

 彼らにとって、物語が進行するまで、時間がずれていることを仮に知っていたとしても、どうしようもなかったともいえる。むしろ、どうして入れ替わるのか、という根幹にすら答えが見いだせていないのに、三葉は3年後の17歳の瀧に/瀧は3年前の17歳の三葉に憑依するなど、考えもつかなかったはずである。
 曜日は別にして、同じ日付に移行する。だから、彼らはずれていない、と誤認したと考えるのは飛躍しすぎだろうか?もちろん、突き詰めれば「あれ、なんで年代が違うんだろう?」と気が付いてもおかしくない。例えば、9月5日の三葉君が教室に入ろうとした刹那、扉には「2016 神宮祭」のポスターが貼られている。三葉君がこれを認めている可能性は十分考えられる。だが、夢の中の出来事/入れ替わり自体を楽しんでいることから想像するに、「よくできた夢やなあ、われながら」という感想を残す以外に考えられない。

 解析結果<不満足>:
 本編では、ずれていることに気が付くきっかけを促すような描写は一切描かれていない。それどころか、時系列は同一と思わせる描写にすらしている(同い年の二人、というだけでかなり説得力がある)。ご神体訪問からの2016年10月3日への着地→三葉の2016.10.2の日記の最後のメッセージでようやく「二人の時間軸がおかしい」と気が付かされる。本人たちはもやもやしたままで「その日」を迎え、瀧の飛騨探訪につながっていく。