円盤発売記念
「君の名は。」を深掘る(4) 「あんた今、夢を見とるな」のセリフの意味
登場人物が投げかける言葉の重さ、そして意味。この作品の底知れぬ魅力でもあり、謎めいているところでもある。
場面は口噛み酒を奉納し終わり、帰宅途上の宮水家一行。瀧の入った三葉は、夕焼け=カタワレ時の糸守の情景に目を奪われる。四葉が「あ、そうや。彗星、見えるかな」というセリフに「彗星…」とつぶやいたときに、祖母の一葉が、三葉を覗き込んで、決定的な言葉を投げかける。
「あんた今、夢を見とるな?」(p.94)
そこから物語は、一気に澱みを生み出し始める。突然に現代に着地した瀧は、「まるで別人みたい」と奥寺先輩に言われるほど、自身のようで自分でないような魂が抜けたかのような動きにしかなっていない。遂に三葉のもとに電話をかけた時…それこそ、「夢」ではなく現実的に死に直面する三葉が描かれる。
そこから瀧の孤軍奮闘が始まる。スケッチしかないと思いこんだ瀧は、記憶の中から糸守を書き上げ、実際に訪れて驚愕する。そこで三葉の書いた日記の消失に立ち会う。まるで今までそんな私信がなかったかのように…。
事実を確認しに訪れた図書館でも、瀧は、鏡のような窓に映る自分に問いかけられるように一葉の声を聞いている。まるで糸守での死者が出た事を「夢を見ている」ように思わせるかのように。
<仮説>
「夢を見とるな」という問いかけの後のことはすべて、実際に瀧が夢の中で見ている光景、と考えると、現実に引き戻されて「起きている間の出来事」であるはずだが、先輩とデートしたり、糸守のスケッチを描いたり、糸守を訪問するその間に起こった出来事は、何もかも夢幻の如くなり、とすれば、三葉の死も不安定なものに変化していく
「おいおい、そうは言っても、隕石落下を目撃しているから死んだに決まっているでしょ」?
それはその通りである。ところが…三葉が見た「糸守に落下した彗星」は、二通り存在する。
・彗星のカタワレが落下する場所は神社の近く。つまり、「第一の時間軸」で見た=最後の激突シーンで描かれている、赤い物体が落下してくるのが正解。
・口噛み酒トリップ/その記憶を追認している瀧の入った三葉が見た事故の結末は、彗星本体が落下し彼女を直撃したかのように描かれている。場所も、落ちてくる物体も、何もかもが違っている。
今まで、我々は、「彗星の破片が落ちてきて町が破壊された」と信じ切っている。そして歴史改変をしないと彼女たちは生き残れない=瀧と三葉は再会できない、と思いこまされている。だが、「夢を見とるな」で囲まれた時間帯すべてがもし「夢」だったとしたら…
うほっっ?!
もちろん、当たり前だが、寝ているわけではなく、しっかりと生活しているわけだが、その行為自体が夢の中の出来事だった、と考えるのだ。
その証拠がある。糸守を探索する際に乗った新幹線の座席の2列/3列が逆転している(当初は設定ミス、とされていたが、夢の中で反転している/あやふやに書かれた、とするとこれはこれで面白い)/アナウンスの場所の妙/名古屋駅での変な設定の数々/味噌カツ弁当の日付がおかしい(円盤では修正されている) などが挙げられる。飛騨古川駅の描写もおかしなところは一つや二つではない。
糸守探索のシーンもそうだ。だいたい、3年前の出来事であり、それも地元に行ってスケッチを見せているのに、ラーメン店に至るまで、誰一人、その地形的特徴から割り出せないって、どれだけ地元愛がないのか、と勘ぐってしまう。しかし…会う人聞いた人すべてがまともに答えられないように描かれていたとするなら…。瀧の夢の中で会った/あるいは別の時間軸にいた人たちという考え方もできなくはない。
まだある。それは「犠牲者名簿」を見ている瀧と一行である。
まず、勅使河原と名取(紗耶香/円盤修正後は早耶香に正しく表記)が並んで表記されていることにだぁれも疑念を抱いていない。そんなことはありようはずもないのだ。結婚して、別姓を名乗っていたとかいうわけでもなく、まして同じ地区に住んでいたとかいうこともないはず。彼らが並んで表記されていること自体が特異すぎるのだ。劇場公開版では、名前が役名と間違っている、と言われていた「紗耶香」表記だが、円盤ではこれは修正されている。しかし、結果的に彼らの家族の行く末はわからない。家族単位で名簿は編纂されるべきで、二人の並びは「都合がよすぎる」。
そもそも、500名程度の犠牲者名簿の異様なまでの大きさ/厚さを論じるだけで矛盾していることが浮き彫りになる。あの程度の書き方なら、数ページでもおつりがくる。そう。とにかく「おかしなことばかり」なのだ。
そうなってくると、「糸守に行ったことがある」という先輩の証言は、若干この仮説にはアゲインストである。でも、それには救いが施されている。彼らは「現実にも」「夢の中でも」瀧と同行している。そう。「夢を見とるな」と問いかけられる場面に同席しているからである。
そこから先は現実の2016年10月21日が描かれるわけだが、そこまでが『ほぼ夢の中の出来事』であり、その時間帯のことが「なかったことのようにされる」とするならば、司・奥寺先輩をも巻き込んだ"壮大な夢物語"と考えてしまうこともあながち荒唐無稽、と断言もできない。
それが垣間見える記述もある。瀧が、窓際で、資料を見ながら嘆息する。
「・・・・・・あいつの名前、なんだっけ?・・・・・・」(p.131)
つい数時間前に、犠牲者名簿で名前を確認しているはずであり、それこそ「忘れちゃだめな人」レベルにまで到達していたはずなのに、思い出せない。そう。それは夢を見ていたから、そして、その夢の中で長く会っていない(入れ替わっていない)から、忘却してしまっていたのである。
瀧に入った三葉は、幾度となく「夢」という言葉を使っていた。「変な夢」「ま、いいか、夢やし」「よくできた夢やなぁ、我ながら」・・・。そして入れ替わりの事実さえも「夢の中で入れ替わっている?」と認識していた。実際には超常現象だったわけだが、事実として受け取っていた彼らに投げかけられた「夢」という言葉。これが彼らに劇的な変化をもたらしたことは間違いない。
解析結果(かなり確度上がる):
一葉の「夢を見とるな」の2回のセリフ。これで囲まれた出来事/行為/内容すべてが瀧の夢の中で紡がれたことだとするならば、一気に理解が進む。10月中旬なのにラーメン店で半袖でいることや、そこで野球の実況が流れていること。地元民があの印象的な被災前の地形をだれ一人言い当てられない不思議。「紗耶香」の表記誤り/テッシーとさやかの並び/500名程度なのに分厚すぎる名簿…。
発言や資料すべてが夢の中の出来事だとすれば、第一の時間軸で起こった出来事自体が「夢の中」の出来事と受け取ることもできる。よって、三葉は死ななくて済むと考えられる一方、死に至る可能性も残っていることも提示されている。確実に生き残る=回避するための最後の入れ替わりは必然だったとみるべき