円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(7) 糸守の風景をアナログで書き留めた瀧の心情を深掘る

今やインターネットを知らない年代層はいないとさえ思われる。
私が20代…大学生のころには、一種「これから」という感じのまだまだエンジンを温めているかのような状態だったわけだが、90年代後半になると、現在にも通用するインフラの整備がほぼ出来上がり(いわゆるADSL網)、それは以後光回線へと移行していく。

回線の高速化は、大量データのやり取りを瞬時に行うことを可能にし、画像データなどの送受信に大いに貢献する。そしてそれらが安価に提供され始めるのは2010年代に入ったころ。現在は、光回線が一種のデフォルトであり、それ以下で引くことはあまり現実的とは言えなくなりつつある。

さて変に「インターネットの歴史」的なことを上げたのにはわけがある。
高校生の瀧が過ごしたのは2016年。彼はA社の最新スマフォを操り、様々な分野にそれを活用してきているそぶりがある。意外にも自室にパソコンはなく、それとは別に、建物のパース画像などが部屋一面に貼られていたりするところがあった。

問題にするのはそこではない。そう!!
              「彼はどうして、2週間近くもかけて、彗星が落下する以前の糸守町のスケッチを手書きしたのか」
という謎が出てくるのである。

<仮説>
スケッチの描写は、2016.10.3以降から行われている。一葉の放った「あんた今、夢を見とるな」で囲まれている時間帯に該当するため、スケッチを描く=夢の中の出来事 と解釈することも可能。そもそも写真を見てしまったのならそのものずばりにたどり着くべきだった。

その前後のシーンも思い出してほしい。2016年10月3日、なぜか平日に瀧自身が奥寺先輩とのデートをする羽目に陥るわけだが、この道程上、とある美術館での写真展で、既視感に襲われる。小説上でも「実際にはそんな経験はないはずなのに、奇妙で強烈な既視感が、この場所にはある」(p.101)としていた。

あれぇぇぇぇぇ???とみなさんも思ったことだろう。ついさっきまで、それこそこのほぼ一か月間、入れ替わりを繰り返していたはずの瀧くんが、この風景に見覚えはあるものの、どこかを言い当てられないという。「俺はここを知っている。」(p.100)なのに、だ。

実は、このころから---正確には、2013年10月2日に、ご神体を三葉の体で行った瀧の意識そのものが"変化"していたということに気が付く。意識だけは糸守に何度も飛んで行っているのに、その実像がつかみきれないばかりか、その場所の地名すらも忘れてしまっている。実際思い出したのは、ラーメン店で、スケッチを見せた時まで待つことになる。

あのデートの後、入れ替わりも起こらなくなったことが、彼の創作意欲を掻き立てたという部分はわからないでもない。しかし…今のご時世、インターネットがあるではあーりませんか!!ggrks、瀧wwwwwww
そもそも「あの撮られた場所に見覚えがある」のなら、その写真を撮った人に聞いてみる/少なくとも美術館にどこで撮られたものかを問い合わせれば、一件落着。あ、ネットすら必要なかったわwwwwww

では、その「探索」をしないでどうしてスケッチに頼ったのか?
それは・・・
  「写真展を見たことそのものも夢の中の出来事だったから」

うはっっっwww
凄い"正解"を見つけてしまった気持ちになる。

写真展という「疑いようのない事実」に深くアプローチせず、自身の記憶だけで糸守を描写しようとする。それは、写真展そのものを忘れた/元からなかったこと とすれば、そこに考え至らず、自力で書かざるを得ない、という追い詰められたかのような行動に瀧を駆り立てるトリガーになりえるとは思う。

スケッチの描写の部分は小説108~109ページに書かれている。もちろん記憶の具現化の手段としてスケッチを選んだ理由もわからないではない。だが、少なくともデートで見た写真展以降、記憶と画像からでだけ糸守を描写し、それをもとに現地に赴こうとしたのは、若干無理筋にも思える。
『飛騨』であることと、スケッチだけで目的地にはたどり着けたわけだが、果たして、その苦労は必要だったのか…インターネット世代の瀧なのに、使ったのは「スマフォで飛騨の山並みを検索する」(p.108)程度。かの地が被災地になっていたという認識がなかったことも災いしてしまった。

デート終了から飛騨探訪のシークエンスは、一種の中だるみ/時間稼ぎ要素にも受け取れる。だが、今までのおちゃらけた雰囲気から、一気にストーリーを澱ませ、我々をも「今までの入れ替わりの時間軸が違っている」ことに気付かせ、さらなる喪失感の演出としての電子的記録の抹消…。翻弄される瀧に同情を禁じ得ないシーンの連続である。

中盤に場面転換をする。それも向かわしめる方向をご神体に近づけさせる。飛騨に到着し、糸守という正解を見出せたからこそ、歴史はあらぬ方向に向かわなかったわけだが…画像や写真があふれているインターネッツ世代であるにもかかわらず、スケッチというアナログ的手法に手を染める瀧。むしろ「なんでも検索」しようとしない特異性なども彼がこの間、一種の夢の中で生活しているのではないか、と想像するに十分すぎる証拠でもある。

解析結果:
写真を見て既視感を覚えたのなら、そのものずばりを探す方が手っ取り早かったはず。
それをしない/できなかったのは、そうさせない力が働いたから。それが「彼が夢の中で見ていること」だから、とすると、アナログ的な手法しか手はないという風に考えてしまったネット世代の瀧=普通ではない、という風にも解釈できる。