円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(8) なぜ「飛騨探訪」の箇所は間違いが多いのか

奥寺先輩とのデート以降、入れ替わりがなくなる瀧。もちろん普通の生活に戻ってせいせいしていると思いきや、思いつめた表情でこの期間を過ごす。学校にも行き、バイトにも勤しみながら、それでも彼は今は亡き「在りし日の糸守町」のスケッチをほぼ独力で…記憶だけで書き上げていく。

そして、場面は、朝。
部屋に貼られたスケッチをやや引きちぎるように壁からはがし、リュックに詰める瀧。半ば防寒対策もしたうえで、一人で飛騨に行く…はずだった。スケッチをいくつか仕上げた瀧が向かったのは、早朝と思しき、東京駅である。
だがそこには待ち合わせでもしたかのように、司と奥寺先輩がいたのだった。

それにしても、この飛騨探訪のシークエンスは、「間違い探し」が趣味の当方にしてみれば、格好の場所でもあった。
列記していくわけだが…びっくりしますよ。
・新幹線の座席配置が逆
山側(下り進行方向だと右側)が2人席、海側が3人席なのだが、名古屋(下り)に向かうのに、画面向かって左側(進行方向に向かって右側)の3人席に座っている瀧御一行様。まあ、これは既に指摘されている事柄。
・車内アナウンスは、とんでもないタイミングで放送されている。
なんと、田園風景が流れている車窓を尻目に、『途中の停車駅は、品川、新横浜、名古屋、京都です』と、機械音声が告げるのだ。またしても、変な事象に出くわす。
品川が入っている、ということは東京駅を出た直後、というわけだ。言っとくが、首都圏の、それこそコンクリートジャングルの中を走る東海道新幹線。それなのに背景は明らかにのどかな田舎のような風景。もちろん、新横浜-名古屋間ならこういった風景はまああり得なくもない。ということは、明らかに品川、新横浜は停まった後、と言える。なんですでに停車を済ませた駅をアナウンスするのか、と思わずにはいられない。

ここまでの部分は、いわば、普通に見ていても「おや」と思われる描写部分で、いわば、「おかしい」ということに気が付く「初級編」といえなくもない。だいたい、素通りしていれば、ここで変だ、と気が付くはずがないからである。

そしてここからが、間違い探し 中級/上級編の幕開けである。
○名古屋駅での一時間のタイムラグ
西村京太郎作品に出てくる、十津川警部ばりの、時刻の精査をすることで見つけてしまったのがこれである。
名古屋から、最寄り駅と思われる飛騨古川に向かう一行。同駅でタクシーに聞き込みをするシーンで、後方の時計が1時半過ぎを示しているのがはっきりと描写されている。この時間前に、飛騨古川に停車する該当する列車は、「ワイドビューひだ 7号」(飛騨古川着 13:28分程度/ダイヤ改正の度に数分程度の早着・延着はあるが、大筋でこの時間帯に到着している)しかない。
ここから逆引きすると、意外な事実が明らかになる。「瀧はそんなに早く家を出る必要がなかった」という点である。

ひだ7号に乗るためには、名古屋にはせいぜい10時についていればいい(名古屋発は10時48分)。言わずもがな、東京-名古屋間は『のぞみ』であれば1時間強だ。ところが、名古屋駅の在来線の地下通路を歩く3人が映っているそばには、出発の電光掲示板が表示されていたが、そのどれもが9時台を表記していた(10番線側は9:46 中津川・11番線(画面向かって左側)の表記はなんと、9:24の中津川行であった。そして、重大な事実をまた見つける。旅程の一日目は2016/10/21 金曜日。10番線から出る中津川行きは、土日のみ!!ここにも現実と違う描写を見つけてしまう)。11番線の時間表記があるので、少なく見積もっても、この通路を歩いているのは9時20分ごろと思われる。なのに乗った「ひだ」は10時40分過ぎ。
つまり「あまりに早く東京を出てしまった」うえに、「乗継に失敗して、名古屋駅で大幅な待ち時間が出た」と思われるのだ。ところが、乗継に失敗したと感じられる描写はどこにもない。すんなりとすべてが描かれているのだ。
だとしたら、本当は、一本早い(当初の計画通りの)「ひだ5号」に乗って飛騨古川に12時半過ぎに到着した可能性もなくはない。だが、この場合、駅周辺で聞き込みを一時間していないとおかしく、原版小説でも、いきなりタクシー運転手に聞いたという記述があるので、その設定もずれてしまう。

○飛騨古川駅に入線するひだの位置は違う
ローカル線を走る優等列車の場合、乗り降りに不都合がないよう、複数のホームが存在していても、改札口にほど近いホームを使用するのが一種の心配りであったりする。都会の本線系の駅ならそこまで配慮はできないかもだが、高山本線では、現実的に、飛騨古川には、上下どちらの「ひだ」ともに画面向かって右側の1番線に発着する。
ところが、彼らの乗った「ひだ7号」は、どういうわけか、2番線に入線しているのだ。もちろん、1番線がつかえなくなった、とか、理由はないこともないだろうが、基本的に2番線を利用することは無い。
これぞ当方の大発見!!マフラーでないところから排出される排気ガス
高山本線は、全線にわたり電化されていない。よって、走る列車はすべて「気動車」である。まあサヤちんは「電車なんか2時間に一本やし」というセリフを吐くが、田舎方面に行くと、電化されていても「汽車」と呼ぶことの方が多かったりする。
さて、気動車は、ディーゼルエンジンを動かして走っている。当然、エンジンから出る排気ガスは、どこかしらから排出されないといけない。自動車で言うところの「マフラー」に当たる場所が気動車にも存在するのだ。
というわけでWikipediaの、「ワイドビューひだ」に充当されている、キハ85系のページを見てみる。→こちら
途中で出ている走行写真に注目である。入線してきたひだは貫通型タイプの先頭車をこちらに向けて入線してきている。この写真と同じアングルだ。そして、屋根の一部、向かって左側の部分が黒くすすけているのが認められる。ここが、排気ガスの出所/マフラーというわけである。
ところが…作中、飛騨古川駅で、跨線橋を渡る一行の手前にかかれた先頭車の屋根の、別の場所から排気ガスが出ているのが確認できる。
さて、この突起物…なんだと思います?実は、これ、「信号炎管」と言って、車両異常が発生したときに使われるもので、当然排気ガスを排出する場所ではない。

鉄道絡みでこれほども間違いが提示される。「これって、もしかして…」
ここまでの記述・描写の言い加減/間違え過ぎなところが非常に引っかかるのである。そして、当方は、決定的なこのストーリーにおける"瑕疵"を見つけてしまう。

○「その瞬間」まで保持されていた三葉が書いた記録
「被災地」に降り立った瀧達一行は、廃墟と化した高校を背に、風景が一変してしまっている糸守町を見下ろす。3年前に死んでいるはずの人と交信した?入れ替わった? 司の嘲笑ともとれる声にあらがうように、スマフォを取り出し、交換日記を見せようとしたその刹那・・・
 『俺は目を強くこする。日記の文字がぞわりと動いたような気が、一瞬したのだ。』(p.123)
この後、「見えない誰かの手が削除アイコンを押し続けているみたいに」(p.123)、三葉の書いた、瀧にあてた記事は一切なくなってしまうのだ。
まず、この行動自体をこのときにした、というのが、私としては腑に落ちない、というか、「なぜこのときまで後生大事に持っていたのだろう」という感慨の方が大きい。
好きになりつつあった三葉との交換日記のようなもの。喪失感を思うのなら、それこそ、スケッチの一角でも書きながら、彼女に思いをはせる意味もあって、この文章を読み返していてもおかしくない。
ところが、それまで一切手を触れなかった三葉の記事にこのときに触れてしまう。それこそ、砂の城が風にあおられ影も形もなくなるかのようにすべて消滅してしまうという衝撃を観客にも与えるのである。

このシーンのポイントは2つある。
1.「消え方」
2.「なぜ、その時だったのか」
では順を追って説明する。
今やデジタル全盛であり、記録媒体/メモリなくしては、日々の業務もままならない人たちが大勢いることだろう。そして、誤ったにせよ、経年変化にせよ、データが消えるのは「一瞬」である。
もう一度言う。画面でそれこそ、文字化けまでして、一個一個、削除ボタンを押すかのように消えることがおかしいのである。アプリを開いた途端、消えていて不思議はないのだ。
そして、「あの時に日記アプリを(入れ替わりがなくなって)初めて開けたかのような動きになっている」ところに疑念を抱くのである。
その時、2016年10月21日の旅行初日の夕刻。入れ替わりがなくなって20日近い。「あいつ、どうしてるかな」…想い出を探るようにこの日記アプリで彼女を思い出そうとしていてもおかしくない。
それでなくても、記憶に変わる入れ替わりの証拠はこれしかないのだ。そこにアプローチせずに、20日余りも悶々と過ごしていたとは考えにくいのだ。

とにかく「消え方」を論じるだけで、このシーンもおかしい、と断言できる。それ以外にも、スケッチがラーメン店まで役に立っていないこと、なぜか野球中継が聞こえているが、10/21金曜日に国内で野球は開催されていない など、間違い/変な記述ばっかりなのである。


 ここまで、飛騨探訪のシークエンスの間違いを追及してみた。これに関する結論は、後ほど。