円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(10) 噴出しまくり!!小ネタ集

2016.10.1に初めて観て、その世界観にやられてしまった小生。とうとう30回オーバーという考えられない鑑賞回数を数えることとなった。
それだけ見ていては、実は『矛盾点』や「おかしなところ」、作画ミスと思しきところも見つかってしまうのだ。
もちろん「わかってあえて間違ったふりをしている」ところもあるだろうが、それも含めて、当方が見つけた、「こ、これはっっ」といえるような、トリビアやネタを上げていくことにする。

それにしても、当方が某アニメーションを徹底解析したときと同じように、出てくる出てくる。一応『これで終わり』と思いたいが、草稿からすでに6,7回書き加えたり修正しているが、収まる気配が見当たらない。
※基本的に登場順にはしてあるが、項目として挙げたところについては、順序が異なる場合がある。

・オープニングは情報満載っっ
開始一秒の隕石落下シーンから、すでに我々は仕込まれている。それを知ってか知らずか、二人の成長するビジュアルが、東京の瀧から飛騨の三葉へのアプローチが、様々な形で描写され、それを引き立てる形で「夢灯籠」が流れる。ちなみに、東京の瀧が都庁を向き、その後素早い速度で糸守の三葉の部屋に向かうスピード感あふれるシーンは、なんと、2013年の瀧の家に居る、2016年の瀧、というこれまた厄介な描写になっている。

・オープニングのラストの二人の動きに着目
夢灯籠が流れ終わる刹那、組紐に結ばれたかのような二人が、画面の外に向かって駆け出していく。(表記的には新海 誠 がババーンと出て、音響的には「君の名を今、追いかけ―るよ」ですとんと終わる。)ちなみに三葉は画面向かって左に、瀧は右に向かってフレームアウトする。残っているのは彼らの下半身、駆け出す感じの足の動きと組紐だけ、という状況だ。

このときの二人の動きに何か「意味があるのでは」ないかと思い続けて、実に半年。20回もの視聴を越えてですら、その画面での二人の動きの意図に今の今までたどり着けなかった。
だが、面白いもので、分かってしまうときは突然なのだ。二人がご神体のクレーターの上を走り回るシーン。三葉は左から右に走り、瀧は右から左に向かって走り、すれ違う。その結果、立ち位置は、向かって左に瀧、右に三葉、という配置になっている。

ここにも、そんな伏線を張っていたとは驚きである。ケンシロウに秘孔を突かれたくらいの衝撃を仕事中に感じ、思わず手が止まってしまったほどである。
すれ違い別れるようなオープニングの二人。クライマックスでは向かった方向から駆け出しすれ違い、お互いを確認しようとする。もちろん、時間がずれているから逢えようがない。手を伸ばす。そこにいるはずなのに、手ごたえ無くなにもつかみきれない右手。我々も「そりゃそうだよね」と思わずにはいられない。奇跡なんか…
それがカタワレ時で可能となる。もうここで感極まる人もいることだろう。

だが!!!
手練れの新海氏は「もう一度」同じシーンを畳みかける。それがボタ雪の降りだした歩道橋のシーンだ。全く同一方向から向かい合う二人。すれ違ったときに風鈴まで鳴る。時間軸が同一になっているにもかかわらず、お互いがお互いを認め合えないもどかしさ。このすれ違いのシーンは特に「秒速5センチメートル」でも使われており、結果その映画ではそのままに放置されている。

歌詞にもある「追いつく」「追いかける」「追い越す」・・・。もうすべて、計算ずくだとすると、凄すぎるとしか言いようがない。

・協賛していないはずの会社製品がほぼデフォルメなしで登場している不思議
エンドロールでも、この作品には、いろいろな会社がある程度お金なり、協力したりして作成されている。CM繋がりのZ会(劇中の車内広告で確認できる)、栄光ゼミナール(Z会と同様)、そして製品がものの見事に出まくる明治(避難計画・コンビニでの買い物のシーンでは、FRAN/きのこ/たけのこ/マーブルチョコレートが確認できる)、電子地図のマピオンやゼンリンも名を連ねている。製作委員会に名を連ねるJR東日本やローソンは、そのものずばりがほぼデフォルメなく書かれている。
ところが、だ。瀧がベッドから起きる一発目のシーン。ベッドのそばには天然水がシレッと配置されている。宮守バス停のカフェは、まごう事なきBOSSの自販機。テッシーはレインボーマウンテンを、サヤちんはなっちゃんオレンジを飲んでいる。→実は、予告編では「プレボス」缶が自販機から吐き出されている

勅使河原家の宴席には珍しいプレモルの瓶ビール。プレモルの缶ビールは、劇中でまくっている。しかも、彗星天体ショーのさなか、ある家庭でのシーンでは「トリス」まで確認できた。
三葉の入った瀧が、自分を知らせるために手のひらに書く「みつは」を書いたのは、間違いなくゼブラのマッキー。カタワレ時も同様だ。「うぬぼれるな!!」と赤で大書きしているシーンもあったが、あれは、ゼブラのマッキーの太/細で書かれたもので確定(ペン立てにその姿が確認できる)。
でも、実際、エンドロールには、サントリーも、ゼブラも確認できない。もちろん、サントリーに関しては、CM繋がりの部分があったりするので、次回作では、エンドロールに載ってこないとも限らない。だが、ゼブラの方は、一切そう言った関係を持っていないのだ。これは謎でもあるのだが、新海氏は、著名なコモディティをさりげなく使うことにあまり抵抗がないのかな、と思ったりもしている。もちろん、この映画の影響でバカ売れするほどのものでもないし、そんなことは今や世の中の人は忘れているはず。ただ、BOSS好き/筆記具はほぼゼブラな当方からすれば、なんか、監督さんと思考が似ているのか、と自己陶酔したりしている。

・ラーメン屋の軽、2013年町長選挙応援演説会場に出現していた。
2016年には瀧達一行を乗せている設定になっているあの軽。演説会場を立ち去ろうとする登校途中の三葉たちの背景として描かれている。
ダイハツに同様の車種があった記憶から、ようやく特定。→こちら。2004年からモデルチェンジをしていないので、2013年当時にも存在していることも確定している。

・作画ミス①
遂に入れ替わっていると思われる事象が語られる、3人での昼休み。
サヤちん「覚えとらんのぉ?(中略)制服のリボンもしとらんかったし…」
小説上では「私はその姿を想像してみる」(p.28)とあるが、映像上では、不気味に笑う三葉と、それをかなりドン引きで見ている早耶香・テッシーが描かれている。
だが、ここで三葉の胸元に注目。ちゃぁんとリボンはされているのだ。
実はこの描写、初見の段階で「ウワ、ミスってる」と理解できたほどのイージーミスだった。そして、円盤でも修正されていなかった謎の箇所でもある。

・「繭五郎の大火」のもたらす伏線効果
物語は、一連の入れ替わりを過ごし始めた、田舎町の高校生・三葉の隠れた一面が垣間見えるシーンである。
一室で組紐を編む祖母に、糸をまく妹・四葉、そして糸を組み合わせて組紐を作っている三葉が描かれている。
やや飽きてきた四葉をたしなめるように祖母・一葉が話し始める。

「繭五郎の大火」のくだりである。小説では34ページ中盤あたりから記述があり、調子のついた語りが画面上でも展開される。「日本昔話一家」(瀧の発言/p.157)の面目躍如でもある<キャスティングに市原悦子氏を当てたのは、奇跡なのか、必然なのか…>。
ここではあえてそのセリフ自体を書きはしない。だが、一葉の発言で気になる文言がある。
「おかげで、ワシたちの組紐の文様が意味するところも、舞いの意味も解らんくなってまって、残ったのは形だけ」「形に刻まれた意味は、いつかまた必ずよみがえる」(p.35)

「繭五郎の大火」の影響で、舞い/組紐そのものすら「意味があった」はずなのにそれが消えて200年たってしまっていたという。200年…世代的に言うと6~7世代前の話である。ご神体があの場所にある理由も「繭五郎のせいで、ワシにも分からん」(p.85)。

だが、その意味に一番近づいた人物がいる。それが、三葉の口噛み酒を飲み、壁画の彗星を見てまさに「口噛み酒トリップ」をした17歳の瀧である。

そこの部分を小説から抜粋する。
  「人はそれを記憶に留めようとする。なんとか後の世に伝えようとする。文字よりも長く残る方法で。彗星を龍として。彗星を紐として。割れる彗星を、舞いのしぐさに。」(p.148)

小説を読んで映画を見ると、あの、二人で舞うラストシーン。手に持った鈴が二手に分かれて落ちていくさまは、まさに彗星が分裂し、ひとつが降ってくるということを暗示するものだったことに気が付く。
そして、部外者である瀧がそれを知り得たというのも面白い。たしかに「三葉の半分」が入ってきたからこそ宮水の血筋のもつ特殊な能力の一端が開花した可能性はあるし、実際この後、2013年10月4日に着地ができている。彗星落下の当日にうまく着地できた理由はよくわからないが、やはり、彼の情念の強さが”奇跡”を呼び起こしたのだろう。

「繭五郎の大火」そのものに意味はほぼない。ただ「すべての意味は失われても、形だけは残さないといけない」という意思表示が結果的にすべてをつなげる大きな伏線になっているのである。だいたい、ああいう語りの場で提示される文言は伏線として扱われるのが常道(ナウシカの感動ポイントともいうべきこのセリフ「その者青き衣を…」の伏線も、主人公を交えての語りの場だった)。恐ろしい手法を用いたものである。

ただ、この場面の書き方は少しだけ疑念が残る。
「始まった」と三葉はつぶやき、「繭五郎の大火」と、一葉のセリフを横取りして答えている。
その後の四葉の反応が意外なのである。
「エ、火事に名前付いとるの!?」(p.35)そのあとぶつぶつと「マユゴローさんかわいそう…」なんてひとりごちている。

一家の決め事のようなルーチンワーク。「始まった」は、その何よりの証拠である。
ところがまるで四葉は、初めて聞くかのような反応を示したのである。今日が組紐の作業場デビューならそれもわからないでもないが、組紐をくみ上げる作業の方がいい、と知っているということは、下働きに近い、重り玉に糸をまくという作業も今回が初めてではない、ということである。そもそも設定ではこのとき9歳の四葉。それまで一度も携わったことがないというのもいかがなものか。

解析結果:
「繭五郎の大火」そのものには大した意味はない。だが、それによって意味は失われても形を残していくことこそ重要だということが、のちに生きることになる。ただ何度となく聞いて知っているはずの四葉の態度は気がかりではあるが、このときは「観客と同じ立ち位置にいた」と解釈すれば不都合はなくなる。
・立花家の扉の怪
もう、この項目だけで「深掘れる」のではないか、というくらい、立花家の扉は、描かせてしまう内容満載である。瀧・関係者が扉を開けるシーンは4回。
①瀧の父親が出ていくときのドアはレバー式
②身支度して出てくるドアを、瀧ちゃんはノブで開けている。
③デートと知り慌てて出かけるときに開けたドアはレバー式だが、開き方が今までと逆
④三葉に会う直前、出勤時に開けた扉はノブ
「実に面白い」(ガリレオさん 談)。レバー式で描かれたのも、ノブでかかれたのも2回。しかも一回は、我々の鑑賞上では、逆に開くというあり得ない現象が起こっている。
もうね。いろいろと突っ込みどころ満載なのだが、結論から言うとこうなる。

結果:
デートに出かけるときに慌てて出て行くシーンがあまりにぞんざいに扱われ過ぎているところに疑念を抱く。ちなみにその時隣の部屋の扉も描かれているが、外から見て向かって左側にレバーがある。だが、レバー/ノブの差こそあれ、外から見て向かって右側にあることはこの一回以外は正解。ここは「夢を見とるな」で囲まれた場所に位置しており、この描き方が現実と違う・・・夢の中の描写とすればまだ理解できる。
よって、③は、現実的ではない(わざと間違えて描写した)、とするならば、①が、完全に描き間違いと理解できる。

・作画ミス?②
これは意見が分かれるところだと思うが、三葉の入った瀧の初カフェのシーン。水の入ったコップがやたら比率的に大きく感じてしまうのだ。
ほかの客に出されているものを見てもあそこまで大きく見せているのは、若干おかしい。ちなみに内定社数を自慢されるシーンでも少しだけ水の入ったコップは大きく感じた。
もっとも、これは「観る人の感性」の問題であり、大きくミスとは言い難い。

・傷害事件も辞さないあの二人組の"魂胆"
イタ飯屋に難癖をつけてただにさせたあのチンピラ二人。だが、次の瞬間、カッターがキラリとひかり、不穏な空気が流れる。もちろん、終業後に瀧に刺繍をさせるためのスカート切りつけなわけだが、彼らのような詐欺師的な手法でただ飯を勝ち取る連中が、変質者同等の行為をすることに疑問が生じるのだ。
まあ強引にもほどがある「ピザに楊枝」は百歩譲るとして、もし手元が狂って足にけがでもしようものなら、いやでも彼らの犯行だと気が付く。被害が制服のスカートだけで済んだのは不幸中の幸い。そのあと防犯カメラの映像でも警察に提出してしかるべき措置を取っているだろうとは思うが、一歩間違えば流血の惨事もないとは言えない。
なぜそこまでの行為に及んだのか…ここはひとつ取り調べてみたいところである。
ただ飯が食えればそれでいいのに畳みかける行為。彼らの心の闇を垣間見たかもしれない。

解析結果:
傷害事件に発展する可能性を彼等が認識していなかったはずがない。ただ飯どころか「臭い飯」を食う羽目に陥ってでもあの行為をしなくてはならない理由が存在するはず。

・CWF、カメオ出演しまくりww
製作サイドが、映像で”遊ぶ”ことは、実写であってもよくあることである。ヒッチコック監督が画面で見切れるかどうかと言ったところで出てきたりするのは有名な話だし、クレジット記載なしでゲスト出演する俳優なんかもざらにいる。
このアニメーション映画を作ったのはコミック・ウェーブ・フィルムである。略称はCWF。実はこの名称があちこちに姿を見せているのである。
それは主に瀧の携帯のキャリア表示に現れている。ばっちりわかるのは、三葉の入った瀧がベッドの上で携帯を触り、日記を確認したり、写真を見たりしている場面。その他にも、一部携帯を触っているところで発見できる。
その次は、画面上での古川図書館。ここでは、URL表記が「CWF-SEARCH云々」と書かれている場所があり、サーチするサイトの表記がグーグル様を模したものになっている。
ちなみに2013年テッシーが重畳周波数を検索する際には、嘘サイトではなくなぜかGoogle様が使われている。ここは謎な点でもある。

・あ、こんなところにwwwww
瀧の携帯に日記を書きつけてご満悦の瀧に入った三葉。だが、次の瞬間、ノートに書かれた「お前は誰だ?」を思い出す。ふっと思った三葉は、自分の名前を瀧の手のひらに書こうと考え、左の手のひらに「みつは」と書くのである。
その時!!
奥に映ったマグカップのキャラクターに見覚えがあったのだ。そう。自画像とまで言うつもりはないが、新海監督のトレードマーク的な猫のデザインされたマグカップが置かれているのだ。→新海さんのツイッターのサムネイルがまさにこのデザイン。
まあ、こういう発見こそ、小ネタというべきところでしょうな。でも25回目まで気が付かないというwww

・媒体に存在しない劇中の「前前前世」の存在
主題歌として挙げられる4曲。実は、movie ver.と銘打っておきながら、実際に劇中で流れているものとは似ても似つかないのが「前前前世」なのである。「ニコニコ大百科」の前前前世の記述を読むと、劇中Ver.の存在が明らかになる(媒体未発表)。では、CDなどに収録されている曲をどうしてmovie ver.としたのか?
理由としては上記のニコニコ大百科上の記述を読んでもらった方がわかりやすい。

・作画ミスといえるかどうか…
前前前世が奏で終わる刹那、二人の自宅のカットが、画面を半割にして描かれる。右が三葉で左が瀧の家だ。
だが、いろいろな状況証拠が「この家の描かれ方は間違っている」としきりに訴えかけてくるのだ。
・彗星天体ショーを一番「最後に」瀧が見るタイミングで家が映るが、その時のパラボラアンテナの配置が酷似
父親と一緒にテレビの画像に見入っていた瀧は、あまりの美麗さに「俺、ちょっと見てくる」と言ってリビングを飛び出し、屋上で彗星天体ショーを堪能した。
・2013年から2016年の間に引っ越しをしている
2013年10月3日。瀧は四ツ谷駅で下車する、「名前はみつは」と名乗る女子高校生から組紐を受け取るわけだが、瀧は四ツ谷で下りてはいない。
それはズバリ、「瀧の最寄り駅は四ツ谷ではない」ことをあらわしており、2016年段階で四ツ谷が最寄り駅になっているのだから、最低一度は引っ越したことが明らかになる。
・なのに、2016年の官舎的なものではなく、2013年の個宅的な映像が映されている。
改めて自宅カットを見直すと、明らかに一軒家っぽい風貌の立花家が映っている。

実は、これは「明らかにミス」だと当方は見ている。2013年の瀧の家と、三葉の家の対比は、お互いが知らない時間帯だからである。もちろん、瀧の家が2016年版の、官舎的なマンションなら問題はなかったのだが、このシーンがすんなり流れてしまったのは、多分に、ビデオコンテによる、年代の弊害が出たものと思っている。

・作画ミス③
物理的におかしなところはどうあっても直してもらいたいところ。
3人でご神体に行き、遂に!「ここから先はカクリヨ」「えっ」「あの世のことやわ」
そして四葉は「あの世やぁぁ」と屈託なく、小石を飛び越していく。
次のシーンである。
「此岸に戻るにはあんたらの一等大切なもんと引き換えにせにゃいかんよ」と言いつつ三葉に手を引かれながら小川を渡る一葉が描かれているのだが、一葉の足元に「影がない」のだ!
浮いているようにしか見えずかなりの違和感。これも実は当方初見の段階でやらかしたな、と気が付いている。でも、ここも円盤の時には修正ならず…

・うそぉ。誤字発見/確信犯?→円盤で修正される
「郷愁」という写真展を訪れる瀧と奥寺先輩。飛騨の写真が展示されている場所で瀧は、吸い込まれるように写真に見入ってしまう。実は入れ替わりがまだ続く状況(正確には既に入れ替わりは終わってしまっている)であったにもかかわらず、まるで失った何かをそこに見出したような表情だった。
このとき奥寺先輩から「今日は、なんだか別人みたいね」と言われるシーン。背景で恐ろしい文字を発見してしまった。

                                       山 陸
振り仮名として『SANRIKU』の文字もある。「そんなバカなぁ」とお思いのそこのあなた。是非ともスクリーンでご確認をwwwwww少なくとも、日本人ならこういう誤字はあり得ない。そして、円盤で修正されたところを見ても、本来、三陸と書きたかったのに、読みしか伝わらず、山陸と書いてしまった日本人以外の担当のミスを見抜けなかったと考えたい。

・作画ミス④ 1枚だけとじしろが変。
飛騨に向かおうと決意する2016年10月21日早朝。瀧は、書き貯めておいた、数枚のスケッチを壁から引きちぎるように取り込み、リュックサックの中にねじ込むように入れる。
さて、その壁からスケッチを取り込むシーンで、縦書きされていた一枚が、なんと、短辺にとじしろが設定されているのを発見したのである。
これも、普通にスルーすべき箇所ではあるが、見つけてしまったのだから仕方ない。

・入れてほしくなかった「あの」へしゃげた物体
場面は、破壊の限りを尽くされ荒廃した糸守町を眼下に望む元の糸守高校のグラウンドで一同が新糸守湖を見下ろすシーン。ここで破壊の程度を示す3枚のビジュアルが提示されるが、よりにもよって、3枚目に哀れ、JRの車両2両(しかも一両は、単色ではなく旧急行型色の塗りわけがあった)が完全にぺしゃんこの状態で描かれている。
これがある、ということはJR東海の車両も巻き込まれた、とみるべきであり、ここで死者が出ていないのだとすると、とんでもない奇跡のように映る。

気動車だから電力がなくても運行は可能だろうが、電気がないと困る信号や踏切/無線などに支障をきたすはずである。避難に必要な2時間前…6時過ぎに"事故"が起こったとして、状況を把握するのに1時間程度。運行を始める前に役場からJRに進入しないように連絡が行く可能性もなくはない。つまり「巻き込まれない」こともあり得る=死者も出ない と言える。
確かに高山本線が走っている地域でもあるのだが、実際の駅の描写は、東京行を決めた三葉が、「美濃太田」行きの気動車に乗り込むシーンだけ(架空の駅でもあるが、乗ったとすれば、該当する列車は一本だけ。猪谷発6:07→美濃太田9:38)。原子力災害でもないので高山線の復旧もされていてしかりなのだが、そういったことは脇筋も脇筋。だったとしたら、あえて気動車の被災しているビジュアルはない方がよかったのに、と思う。

・どこからやってきたのか???を含む2016.10.22のご神体関連の謎
①ご神体を囲む水たまりには、なぜか魚が存在している!!
魚なのかの断定は難しいものの、水生生物がいることは間違いない。2013.10.2の三葉が訪れた時は、水はたまっておらず、小川のように表現されていた。一気に雨が降ってしまったため、排水が追い付かず、たまってしまった可能性はあるにしても、あの閉鎖的な場所にどうやって魚をはじめとする生物が到達したのかは、謎である。
②そもそもあそこまで水が溜まるのか???
たった3年で何かが起こったのか?ご神体を囲むようにちょっとした湖を形成しているようにしか見えない。実際、瀧は画面上、腰上まで水に浸かって渡り、ご神体にたどり着いている(実はここも作画ミスが指摘されるところ。濡れてズボンの色が変わっているのはひざ上までであり、直前に最深部を渡るときに腰上近くまで水に浸っているのとはずれが生じている)。小説の中では、・小川は、池ほどの大きさの水たまりに ・胸元まで水に浸かって渡り切る(要約/p.141-142)とあるのだが、取り囲むように円形に水が溜まるような地形にもともとなっていたかどうか…また、瀧の身長を170㎝と仮定すると、仮に胸元ならメーター越え。腰上でも一メートル近くはたまっている計算になる。ここの部分は、それほど題材もないと思ってスルーしていたところなのだが、DVD・BD入手後に再調査をしてみたいところである。

・なぜ落下時刻は「8時42分」だったのか?
もう「本当に」考えるべき項目はないと思っていた。でも、気になる数字がある。

  2013年10月4日   午後8時42分
実に中途半端で、面白い並びである。8-4-2。2の乗数の順番か?…
くらいにしか考えていなかったから、この数字に意味なんてあるはずないと思っていた。

だが…もし意味がある数字だとしたら?そう思って、この数字をひっくり返し、並べ替えてみる。

2-4-8。時間に直すと、午後2時48分…
この時刻に聞き覚えがあった…
何か背中を冷たいものがゾクゾクッと走ったのを覚える。そう。東日本大震災の発災時刻ってこのくらいではなかったか…調べる。WIKIには発災時刻(地震の発生時刻)は2011年3月11日 午後2時46分と書かれている。
はぁ、又外れか…うむ。2-4-6?!頭2つはぴたり符号するぞ!!

仮説:
東日本大震災の発災時刻の逆=「んなもん適当や」といった変電所の爆破時刻=2時間前、と考えるとなかなかいい推理とする。

ちなみに役場の部屋の中で右往左往し「誰がしゃべっているんだ」とイラつかせながら独り言を言っていた町長の背景の時計は6時45分。だいたいあっている、と考えて間違いない。ていうか、「んなもん適当や」といった割にきっちり2時間前に爆破できるとは、テッシー、なかなかの策士である。
そう。変電所爆破の結果起こる停電は「地震」、隕石で起こる災害は「地震の後にやってくる津波」と考えると、まさに監督が言っていた「東日本大震災を下敷きにした」こととバッチリ符合するのだ。
もちろん人為的な爆破を自然災害になぞらえることは少し違っているかもだが、劇中死者を出したのは隕石落下の「セカンドインパクト」が原因。それを避けるための前兆という意味合いもあるとみる。

・口噛み酒トリップの描かれ方に注目
解析厨であってもなかなかこの視点にはたどり着けない、と自負したい点が見つかってしまった。
何を隠そう、口噛み酒トリップの描写である。我々は、これを「誰の視点で見ているか」ということを一切飛ばして、「三葉の記憶」という都合のいい解釈で済ませている。
ところが、彼女の記憶、であるならば、三葉は本来映り込んではいけないのである。彼女が見たものが記憶として描写されているのだから。
ここで「ああ、なるほどっ」と膝をたたかれる人も出てくるだろう。東京に行くと言っている情景(背後からのアングルでしたな)、祖母である一葉に「お願いがあるんやけど」と言っているその姿をだれが見ているというのか?
もちろん、これは、正直私が意地悪なのである。三葉の見たままを描いたならば、こんな客観的に理解できる映像が次々に映し出されるはずがない。口噛み酒が映した彼女の情景。そう理解するのが本筋であり、であるが故の口噛み酒トリップなのだ。

・うまいねぇ、と感じさせる「走り方」
クライマックスシーン。ご神体の上を走り回り、お互いを探しまくる二人。だが、三葉には瀧が、瀧には三葉が入っている。このときの二人は、お互いの精神状態まるだしで走っているのだ。つまり、三葉は男の子のように若干ガニ股で、瀧はおしとやかに、といった感じだ。もちろんオーバーな表現ではあるのだが、それがわかっていて彼らの真剣な走りを見ると、少しだけクスッと来てしまうから面白い。

・勅使河原の自転車に関する発言
父親の説得に失敗し、「三葉なら……説得できたのか?俺じゃだめなのか?」(p.176)と自問自答する三葉の中の瀧。そこに一同が会する。どうしようか悩む三葉(瀧)に、ご神体の映像がありありと浮かぶ。向かうと決心した三葉は、勅使河原の自転車を借り、ご神体まで向かう。
途中の山道で自転車はがけ下に落ち、壊れてしまう。そこから、女性の駆け足で山頂を目指す三葉が描かれる。
そして場面は、瀧との出会いを終え、組紐をバンダナ風に巻き上げた三葉が、変電所にたどり着き、そこでバイクに乗った勅使河原と合流するところ。
 三葉「自転車壊しちゃって、ごめんやって」
 テッシー「はあ?誰が?」
 三葉「私が!」(p.211)
ここは、勅使河原が「どこに」びっくりしたのかが分かれ目になる。
1.『壊れるような乗り方って、なんや、それ』
壊したのが「誰が?」と問いかけているのだとしたら、納得いくといいたいところだが、この文脈から考えて、貸したのは三葉以外でないのだから、聞くとすれば「は?<u>なんで?</u>」となるのが普通である。
2.「自転車壊れた?何言っとるの?」
この文脈の方がより正しいとみる。17歳の瀧と出会ったことで歴史が動き始めており、すでに起こっていた2013.10.4とは違う道筋をたどりつつある。もっと正確に言うと、17歳の瀧が2013.10.4に着地した時点から動いているともいえる。その過程で、「自転車を貸した/借りた」の記憶があいまいになっていることは十分に考えられる。
3.今からしでかすことに比べて取るに足らないことを強調したかった。
自転車は所詮私物。ところが今から爆破しようとするのは公共物であり、立派な犯罪である。「そんな細かいことはどうでもええ」という意味合いで発した、とも考えられる。

・「あの人の名前が思い出せんの」からの右手を見なかった三葉
感動のシーンに水を差すようで恐縮だが、またしても見つけてしまったのだw

「目が覚めてもお互い忘れないようにさ」
あの時君はそう言って
「名前書いておこうぜ」
私の手に書いたんだ。(p.227)

今だから言えるけど、ここまで忘れっぽい三葉ちゃんだとは思いもよらなかった。ひっくり返ってあの愛おしい人の言葉を思い出すまで、彼女の記憶から右手に書かれたことも何もかも、消えてしまっているかのようなのだ。
もちろん、事態は急を要していた。遅々として進まない避難計画。業を煮やしたテッシーは、叱責するように三葉に迫る。「あの人の名前が思い出せんの」なんて言われて「知るか、あほぉ」となるのは当然の反応だし、私でもそう言ってしまうだろうw
まさにあのシーンまで取っておくいやらしいまでの溜め。それまでに右手をまじまじとみる機会がなかったとはいわせない(テッシーの原付に二人乗りして、サヤちんに携帯で連絡しているとき、携帯を持っている手はまごう事なき<span style="font-size: large;">「右手」</span>だ)。客観的に見てみると、結構いろいろ出てくるものだ。


・宮水神社の設立年がわかってしまったことによる疑問
ラストシーン手前。瀧が糸守関連の書籍を図書館で閲覧しているときに、宮水神社の設立年が446年と記載されている。この年代をどう判断すべきか。

これから分かることは、糸守湖ができる前から、このあたりには人が住んでいた、ということである。それは小説にもかかれている。なので問題はない。
ところが、私も参考にしているこの年表では、「2回」湖(糸守湖)ができていると書かれている。
これは、テッシーが見せてくれた、町の資料である、糸守湖の断面図を見ても"おかしい"と断言できる話である。同じ場所に落ちることなどありえず、ましてや1200年前と2400年前を間違える考古学者はさすがにどこにもいない。
ただ、「一回目」がご神体を形成したとしたらどうだろうか?これが納得いく話だと思われるのだが、小説では「山間の集落に落ちる。」(p.148)と書かれている。あの標高に人が住んでいたとは考えにくく(いや、100%ない)、2回落ちたとすると、一番最初の2400年前にはどこに落ちたのか、は小説の中でも劇中でも明らかにされていない。むしろ、劇中では前回の落下のみがかかれているようにもみえる。

仮説:
小説の書き方が間違っているとする。まず隕石由来による窪地→ご神体ができ、それを崇拝すべき神社ができる。その後湖を形成したティアマトが落下。これならすべてがうまく説明できる。

そうなるとおそらく形の残ったご神体とされる隕石の上に茂るご神木は、樹齢1000年越えは確定してしまうのだが、これはいくらでも否定が可能である。建立資材に使った/何度も枯れたりして、現在のご神木は3代めくらい/標高が高いので育ちが悪い などなど。
小説ではまず湖形成(1200年前)→もう一回落下、で整われているのだが、この順序だと、確かにご神木の樹齢だけはつじつまが合うが、別の彗星/隕石落下が起こったとしないと周期的におかしいし、さらにご神体の形成が、神社設立よりかなり後ということになってしまう。仮説の域を出ないとはいっても、この説をもってでないと、全てがうまくまとまらない。

・ラストシーン直前に書かれている人物たち
二人が歩道橋ですれ違ってから「ダダンダダンダン・・・」(ターミネーターではありませんよwwww)と、「なんでもないや movie edit.」がかかり始める。図書館で調べ物をする瀧。夜が明けるシーンにかぶさるように季節は春を告げる。桜吹雪舞う町中。営みが普通に描かれる。花屋の店員、牛丼屋で食べる女性、ローソン(製作委員会に入ってますからねww)でレジをする店員、ゴミ出しするロングの女性(後姿)、新居を探しているかのようなカップル、そして、高校生になった「四葉」・・・

そのいずれもに既視感を禁じ得ない。そう。全員糸守町/高校にいた人々である。牛丼屋/ローソン店員(手前)/ゴミ出し女性は、三葉に事あるごとに絡んでいた男(松本)と、女性二人である。不動産屋の店先のカップルは、もちろんサヤちんとテッシー(ただし後ろ姿)。では、花屋の店員は…?
彼も実は同じクラスメイトだった。場面は、絵画の時間。手前から三葉、サヤちんと並んで描いていたわけだが、そのサヤちんの奥で描いていた、黒ぶちメガネの彼こそが花屋の店員なのである。

ちなみに「かなりはっきりと描かれていながら、だれなのかわからない」人物が一人いる。それは、三葉とテッシーが避難を呼びかけようとするシーン。
「あの人の…あの人の名前が思い出せんの」と三葉が言っているそばに、背後から近寄り画面を横切る男性である。まるでカメオ出演するヒッチコック監督のように。
それから、いろいろ情報をまさぐっていると、RADWIMPSのお二人が出演していることも明らかになる(今頃か、という声はなしwww)。クレジットでも確認した(声の出演、最後のお二方)。

・最後まで気が抜けなかったスタッフロール!!
私自身は、全てのアニメーション映画を鑑賞する際、スタッフの詳細が提示されるスタッフロールを、逐一チェックしている。
著名なアニメーターの存在、協力会社、声の出演…すべてすごいデータである。
たとえば「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ」の劇場版にも、コミックウェーブフィルムが製作協力にクレジットされているし、「打ち上げ花火(略」はシャフトが主幹事社だが、君縄にも、ノーゲームノーライフにもクレジットされている。
それほどまでにスタッフロールって情報の宝庫なわけだが、今回ほど、それに感じ入ったものはない。

その場所とは、最終盤。「「君の名は。」製作委員会」のスタッフロールだ。
Wikipediaでも確認できる→君の名は。のページ
ここには、東宝/コミックウェーブフィルム/KADOKAWA/ジェイアール東日本企画/アミューズ/voque ting/ローソンHMVエンタテインメントの順で出てくる。

さて、感のいい方ならお気づきだろう。私がどこに目を奪われるのか?
  そう。voque tingである。
「なんだ、これ?」(瀧 談)が第一印象だった。2回目くらい見た時にRADWIMPSのことが気になり、WIKIで引いてみると…→RADのWIKIページ
所属事務所は有限会社ボクチン(英称: voque ting、所属はRADWIMPSのみ)

うはぁぁぁぁっ
今まで、製作委員会にバンドの所属事務所がクレジットされるような事態を当方は見たことがない。もちろん、アミューズは、芸能事務所であり、大御所の一角。どこに絡んできていたのか(ただ単にお金を出しただけとも考えられるが)は不明だが、有限であり、しかもRADしか所属していない=ほぼほぼ個人事務所と同格レベルの会社がこの作品に投資もしていたことに驚くのだ。
だがしかし・・・彼らは「本気」だったとみていい。それは、RADが、英語歌詞を作ってまで、この作品に寄り添っていたからでもある。
ここまでのヒットをしたことで、それなりの配当を「製作委員会」サイドとしても、曲の提供としての著作権の意味でも、大幅に「儲けた」RADにvoque ting。気になったら調べる結果が、よもやの事実を知ることになろうとは…