円盤発売記念
  「君の名は。」を深掘る
(17) 二人の恋愛観を深掘る

二桁鑑賞。一つの映画にこれほどまでのめり込んだことは、49年の人生の中で初めての経験である。普通の人なら「2回くらいは見ようか」は当たり前のようにあっても、ここまで入れ込む対象ができるとは、そしてそれに今この瞬間に立ち会えていることは、奇跡としか言いようがない。

今回は、禁断のテーマ、に足を踏み入れてみる。彼ら二人の恋愛観についてである。

1.高校生時代
あまりのことにスルーしてしまっている人たちが多いわけだが、それは無理もない。「前前前世」が流れる中、最後の捨て台詞を二人が言い放ち、入れ替わりのドタバタ劇がいったん終了するからである。
だが、捨て台詞、だからと言って捨てっぱなしにしているようでは解析厨の名折れである。
その捨て台詞とは…

 「(彼氏/彼女は) いないんじゃなくて、作んないのっっ!!」

ああ、そう…で終わらせている人が大半だし、そこに突っ込みを入れている時間も間隙もない。ただ単に「異性に興味はございません」という意思表示、と受け取っていたからすんなり流せるし、「ああ、いまどきの子らしいわ」と共感している同世代の感想も聞こえてきそうである。
だが・・・
それで終わらせてしまっていいものなのだろうか?
恋多き年代・・・17歳といえば、そういう岐路に立たされている状況が見え隠れする。クラスメイトに彼/彼女と呼べる友人は、共学だった両名ともいないところに疑念が生じるのだ。

まだ三葉の方に彼氏と呼べる存在がいないのは察しが付く。彼女が神職…巫女だからだ。
さらに言えば、彼女が長女であり、宮水神社を背負って立つ家長になる。イコール、婿養子を迎え入れて宮水の血を絶やさないようにすることが三葉に課せられた使命である。彼氏になり、ゴールインすることは自分の姓を捨て宮水を名乗らないといけなくなる。それはかなりのハードルでもある。だから「作りたくても作れない」「敬遠される」のはわからないでもない(でも、瀧が入って自由奔放に生活したことでラブレターとかもらうようになっていったので、もててないというわけではなかったのだろう)。

ところが瀧の場合、いない理由が判然としない。三葉に言われて「いないんじゃなくて作んねぇの」と言っている暇があったら、その美貌を生かして、渋谷でも原宿でもナンパすればイチコロだろうし、それくらいやっていて当然ともいえる。
だが、そこまで積極的に動いてはいない。それは本当に「彼女なんて必要ない」と思っていたから、なのだろうか…
もしあの組紐をくれた女性に恋をしていた、とするとどうか…。と考えたが、ようやく三葉の記憶を取り入れることで「彼女だったんだ」と気が付いたわけであり、3年前のあの出来事で彼女に恋をした、そして初めての恋だから彼女は要らないということになるのは、飛躍しすぎである。
奥寺先輩の存在も考えてみた。だが、彼にとっては明らかに高根の花。抜け駆けはおろか、柱の影からそっと見守るくらいが関の山だっただろうし、それこそ三葉の大胆行動がなければデートなどという"暴挙"には打って出なかったはずである。

瀧が彼女を必要としなかった理由。それは「自分の両親」を見てしまっているからと考えると意外と腑に落ちる。
父一人子一人で何年過ごしているのかは知らない。だが、どういう経緯があれ、「別れている」ことに変わりはない。死別でも離別でも。「会うは別れの始まり」ということわざもあるが、お互い惹かれあっていても、別れがやってくると考えた時に「彼女なんか面倒くさいなぁ」という感情が出てきていてもおかしくない。ちなみにどうしてそう思えるのか?私の境遇とよく似ているからである。

三葉も瀧も実際"晩熟(おくて)"である。三葉も男性の体自体を知らなかったし、当然処女だろう。瀧はさすがにいろいろと情報を取っていただろうし、胸を触ることは母親から別れてだいぶたつ瀧にしても母性をくすぐられたからこその行動とも見て取れる。
高校生時代の彼らは、お互いがお互いを欲していないように描かれていたはずの序盤。だが…10月に入ってから、瀧サイドの描写に傾注することで、彼が突き動かされていく過程を見ていくことになる。立花瀧の孤軍奮闘が、我々の感情をも揺さぶり始めるのである。

2.再会に至るまで
物語のラストシーンでは、就職先も決まってようやくスーツも板についている瀧と、隕石落下からほぼ同時に上京したと思われる三葉の出勤シーンが描かれる。それは、まるで見てきたような場面・・・そう。オープニングである。我々は、まさに、このほぼ100分間の彼らを「この目に焼き付けた」からこそ、並走する電車の扉の前でたたずむ二人が突然のように再会するその一瞬を見て、感動もし、納得もするのである。

それを裏付けるかのように、三葉はこういっている(ただし、上京したときのセリフ)。
「でも、確かなことが、ひとつだけある。私たちは、会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。」(p.188)

とはいうものの、二人の間には、決定的な時間の流れが存在する。三葉サイドなら8年、瀧にしても5年もの歳月が流れているのである。
たださえ忘れているそれまでの出来事。その間に出会っているであろう、魅力的な異性の数々。そのいずれもになびかず、媚びず、追いかけず…。そうまでして「ずっと誰かを探していた」というのだろうか…

彼・彼女の恋愛遍歴は正直分からない。少なくともお互いに異性の影がまとわりついていないことも画面上から窺い知れる。それはお互いがお互いを知る前から何ら変わっていない、そして、忘れているはずなのに誰かを探し求めているような感覚をずっとお互い持ち続けて大人になっていってしまったのだ。
この恋愛観を不幸と呼ぶべきかどうか…。「会えなかったときの絶望感」を全く彼らは感じなかったところがすごい。あのタイミングで出会えたことの方が、歴史を変えた事より「奇跡」と呼んでも差し支えないのではないか、とさえ思う。

解析結果(独自研究):
彼らにとって、入れ替わりの体験が"初恋"につながり、それはお互いにとってなくてはならない人レベルにまで昇華してしまった。それゆえ、二人ともほかの人に恋愛感情を抱かなかった恐れは多分にある。出会えてなかったら二人とも独身で「誰かを探したまま」で終わっていた可能性すらある。