第7回:オスカーはとったけれど…
 映画人なら、誰もが目指すアカデミー賞。とは言うものの、アメリカ映画が栄冠に浴しやすく、外国映画はそれほど高い評価を与えられるものは少ない。ヨーロッパでは結構受けのいい北野武氏もことオスカーの舞台ということになると、呼ばれたことすらないというのが実情である。そう思ってWEBで確認したのだが、確かにここ最近日本人にはお呼びがかかっていない。85年に日本映画としてはじめて、黒澤明監督作品の「乱」が監督賞などにノミネートされた後、98年に短編ドキュメンタリー作品でオスカーが日本人にわたった程度である。外国語作品欄にすら名前も上らないというのが残念だが事実である。
 それに比べて、ディズニー映画は質量ともすごい。1991年には、アカデミー史上初めて、「美女と野獣」でアカデミー作品賞(いわゆる、最高の名誉)にノミネートされるし、91/92/94年と作曲賞/主題歌賞を立て続けにゲット、その後も「ターザン」など主題歌賞にも何度かノミネートされている。
 
 日本でどれだけがんばっても、アメリカが基準のオスカーであり、ロサンジェルス地域での1週間以上の上映が必要になるなど、意外と障壁は多い。ホームで戦えるアメリカ映画に分があるのは言わずもがなである。しかし、「千と千尋の神隠し」は、それらマイナス要因を跳ね除け、海外アニメーション映画がなしえなかった作品賞を受賞。完全に「世界の宮崎」になってしまった瞬間である。一説には、興行収入(アメリカは作品力より、こういった、表の数字を気にする嫌いがあるらしい)が芳しくなく、受賞は難しいのでは、といった声もあり、私も、アイス・エイジや日本では現在公開中のリロアンドスティッチに「興行上」軍配が上がるものと見ていた。
 そういった下馬評をものともせずに「千と千尋」が受賞したわけなのだが、私はまだ納得がいっていないのである。

 私の当該映画評は、かなり辛らつである。特に、残り1/3をきったあたりの、あの電車に乗って銭婆へ向かうあたりのまったりさ加減。カオナシが湯屋で大暴れしたのが全く生きないばかりか、突然の穏やかさに違和感を感じたのである。ラストにむけた後処理も不完全。いきなり人間に戻っている両親との再会は置くとしても、それから先の2分間は全く不要。というより、ありきたりすぎてこれだったら要らないのに、というレベルである。
 「宮崎 駿」と言う人をかなり前から見知っている私からすると、ストーリーの醸熟さでは無意味な時間つぶしがほとんどなく、伏線がラストにものの見事なハーモニーを奏でる「ナウシカ」がベストであり、演出面で突出した作品といえば、「カリオストロの城」は外せない一作である。ところが、協賛企業が名を連ね始めた、「魔女の宅急便」(この名が示す通り、あの会社が協賛)、「紅の豚」(日航など)、「もののけ姫」(ニッセイなんですね。覚えてます?)と、どうしても、クライアント主導の作風を余儀なくされ、その影が見え隠れするようになってしまっていた。特に顕著だったのは「紅」で、機内上映用に作られたせいもあって、いろいろな面での制約があったことが自然体の宮崎氏を遠ざける結果になってしまった。
 この作品も、実際のところ、噛めば噛むほど、という作品ではないと考えている。ストーリーは分かりやすく勧善懲悪のはっきりしているディズニー系も、それはそれで困ったものだが、大笑いするところがほとんどなく(もののけよりは多かったな)宮崎ワールドだけを見に来てしまって、仕方なしに評価しないといけないような風潮になっていること自体が問題である。

 アメリカ基準のオスカー。イラクに対する攻撃も 「アメリカの言うことを聞かないものはこうだぞ」という示威行為にしか見えず、果たして、アメリカという国は、どこまで自分たちのおかげで地球が回っていると感じたら気が済むのだろうか?と考えてしまった。
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