第10回:戦争報道を考える
イラク戦が終わった日本は、またぞろ平和の真っ只中に身を置いているかのようである。中東の独裁国家と、テロにおびえて先制攻撃するしかないと早合点したアメリカとが剣を交えたことなど、例の「白装束」軍団がその白い布で拭い去ってしまったかのような忘れっぷり。このこと自体も問題にしてしかるべきなのだが、このたび日本テレビ系列の「ドキュメント’03」の特番として、戦争報道について考えるという趣旨の生番組が放送され、90分、野球で1時間おしてしまって、かなりの深夜時間帯になったが、かじりついて見させてもらった。
自身を「ジャーナリスト」のはしくれと自認するセーチャン。ジャーナリストたるもの、自分の脚で情報ソースの確認をすることは言うに及ばず、視聴者に事実をありのまま伝えることが重要となってくる。ところが、日本テレビのニュースは、大半が外国通信社(AFPとか、ロイターとか、聞いたことのある、著名ニュース配信会社)の物を抜粋して利用していたというのである。その半面、日本のテレビ局としてはただ一局、従軍女性記者を派遣、身近な戦闘現場で記者がインターネット回線を通じてリポートする様が毎日のように報じられていた。
また日本国内でも、中立的な報道会社に現地取材を委託(こういう言葉は使っていなかったが、ジャパンプレス社自体が他局とも関係を持っていたことを考えても、自社スタッフでは万が一のことがあったときの補償が大変なため、こういう形になったと推察する)、情報収集に躍起になった。まぁ、ここまではいいのであるが、取材スタッフ達も、アメリカ側なり、イラク側の情報操作というフィルターに翻弄されたというのである。もちろん、取材の終わったテープにしても、刺激の強すぎるシーンを放送しないなどのフィルターを経て、ニュース映像として流される。実際のニュース原稿としてのテープ数量は一日100時間というから、ほとんどが流されないでいる状態なのである。
大筋はこんなところである。
さて、私は、報道というものは、事実を曲げて報じてはいけないと思っている。もちろん、これは放送法にも既定されている事柄でもある。例えば、受け取った情報が間違いであることを知らずに発信したとしても、「その間違った情報を発信していた」という事実を報じ、あとで訂正する、もしくは正しい情報に修整することが可能なはずである。一番いいのは、情報の裏づけが出来てから報じるべきなのだが。しかし、局サイドで、大元の情報について放送すべきかどうかを議論し、カットしている部分があったということである。
また、戦死者や民間人の死者など、残酷シーンの取り扱いについて意見が錯綜していたが、戦争報道そのものが、きれい事ですむと考えている人たちのほうがおかしいのである。誤爆もしかり。つまり、そういう現実を見せ付けられていないから、「戦争はきれいなもの」という錯覚が生まれ、突然出て来る被害者に圧倒されてしまうのである。事実、当事者であるアメリカでは、報道統制が引かれて傷つくイラク国民のことなどほとんど無視されていたという。
国家の大義名分はともかく、合法的に人が人を殺しあっているのが戦争である。戦争を報道したとしても、戦争が早く解決するわけでもない。最も我々が声を大にして言いたいのは、戦争の「本当の」目的である。イラクをフセインの手から開放したかったというのは明らかに後付けの理由である。大量破壊兵器を持っていたかどうかも、分からない状況が続く中(いったいいつになったら、見つかるんでしょうか?)、何故アメリカは血気にはやったのか、そして、その目的とはなんだったのか?このあたりの報道こそが、真の報道だと思うのである。
リアルタイムの戦況報道と、白装束の移動先での生中継。次元は違うようだが、動向に注意を払っていたことはどちらも同じである。しかし、何故、こんなことになったのか、という振り返りの報道はまったくといっていいほど聞かれなかった。ジャーナリスト諸氏の、常に前向きで、強靭な精神力には圧倒されるばかりで、逆を言うと、反省しないから、後ろを向かないから、どんな難局にも立ち向かえるのかな、と思ってしまう。開戦からまもなく2ヶ月。そろそろこの戦争の意義を考え直す、戦争報道があってもいいのではないかと思う次第である。
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