第13回:絶望的な結末
駐車場の屋上から、全裸のまま突き落とされ、4歳8ヶ月の短い生涯を閉じなくてはならなかった男の子。そんな凶行に及んだのが、今年中学生になりたての12歳の少年だったということで全国に波紋が広がっている。
私は第一報を聞いたとき、頭を抱えてしまった。責任能力も、そして今回の場合、殺意があったのかどうかという論点すら見えてきにくい年齢。そして、またしても密室で論議が重ねられ、当事者である被害者の家族でさえその詳しい内容がまったく知らされないという少年事件の特異な部分を目の当たりにしてしまうからである。
今回の場合、少年は、衝動的、簡単にいえばかっとなって幼児を突き飛ばした可能性が高い。つまり、殺人という罪を犯しはしたのだけれども、はずみである可能性を否定できないのである。となると、たとえ、どこか精神的に不安定なところが従前からあったとしても、もともとがそういう病気を持っていないだけに、大人の刑法でいうなら「過失致死」に当たるような気がする。既に反省の態度を示していることから見ても、この少年が凶悪な人間には見えないのである。
しかし、問題が全くないわけではない。既に他の幼児に対する傷害事案も少年の仕業と断定されている。つまり、連続幼児傷害事件の犯人だったわけである。こうなると今後、世の中に出てもまた同じような事件を引き起こしかねない、という想像は、察しがつく。年齢的に鑑別所おくりは困難のようだが、精神的な更生をさせる必要があることは間違いない。
いずれにしても、こういう事件が起こってしまったときに、被疑者が検挙されてからは、被害者の立場というものはほとんど論じられなくなる。言葉は悪いが、殺され損である。方や何の落ち度もなく命を絶たれ、もう一方では生き長らえている・・・。この不条理な現実。山口県の母子殺害事件のときに、父親が、「許されるものなら、犯人をこの手で」的な発言は、過激でも、不見識でもない。法治国家の元生活しているという前提すらをも超越した、被害者として当然の権利である。ただ現在の日本では、その代わりに司法が裁くというシステムを取っているのである。
しかし、現在の司法制度の重大な欠陥は、「殺人を犯したものが必ずしも処刑による贖罪とはならない」点にある。特に少年法に守られている20歳未満の被疑者には、少なくとも長期間の看護措置とかにはなっても、死刑や無期懲役といった量刑に処されることは決してない。現に神戸市の「酒鬼薔薇」事件の被疑者(当時14歳と記憶している)は、もうそろそろシャバに出てきているのではないか、とうわさされている。あれほどの凶悪、残酷な殺し方をした人間でも、数年で、釈放に近い処分で済んでしまうのである。
その意味からすると、鴻池防災相がいった、過激とも取れる発言には、私は同意したい。彼に曰く、「少年自身の罪が問えないなら、(加害者の)親なんか、市中引き回しで打ち首にすればいい。それが道徳心のある子供を育てようということにつながる」といったそうなのだが、市中引き回しはともかく、「加害者の親を引きずり出すべきだ。親なり、担当の校長なりが前に出てくるべきだ」と言う発言は至極最もである。何かにつけて守られる加害者側に対し、被害者側に立った発言として大いに興味があるところである。「不見識」と声を上げる弁護士会もいるようだが、加害者側の親の責任の所在というものにももっと明確な指針なりが必要であるということの言い方を違えただけであるということに気づかない、お粗末な解釈でがっかりである(親の責任を問うのは筋が違う、という野党の方に。ではこの際、どうしたら、被害者の方たちは納得するのですか?)。
殺伐とした日本。犯罪が低年齢化し、ついに!12歳の少年が凶行に及ぶ現代・・・。確かに景気はやや上向いてきてはいるのだろうけれど、経済や政治より、もっと足元のことについて我々は振り返って見る必要があるのではないのだろうか?
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