第15回:一期一会
 先日、電車に乗っていて、奇妙な体験をした。
 珍しく座席に空席のあった車内で、私はやおら、一冊の本を取り出した。内容は自作パソコンの本。実は現在WEB編集用のパソコンは、97年製のPENUパソコン。LANにも対応しておらず、なんといってもグラフィック機能がさっぱり。既に2世代以上前のCPUだけに乗り換え/買い替えを考えていたところに、意外に安く仕上がる自作パソコンの話が舞い込んできた。最も、製品に近づけようと思ったらソフト料金分高くなるところだが、ほとんど用を為さない付属ソフトの数々はハードディスクの無駄になると思い、思い切って、自作の世界に飛び込んだのだった。
 すでに自作パソコン自体は、最小構成ながら、マザーボードの機能が充実していたこともあって、ほぼ満足いくものになっている。後は回線をアップグレードして、いよいよ念願のADSL環境に・・・。などと思っているそばから、突然声がした。
 「あのぉ、お宅、パソコンの本をどれだけお持ちですかな?」
 左隣に座っていた、独断推定年齢62〜68と思われる、今でいうところの初老の男性(昔はかなりヨボヨボと受け取られる年齢だが)が声をかけてきたのである。
 私は一瞬あっけにとられた。このご時世、ちょっとしたことが原因で一命を落としかねない。他人が何をしようが、そ知らぬふり、知らぬ顔の半兵衛を決め込むのが、一種車内のマナーでもある。とはいっても、私は、半兵衛という人物が、知らない顔を決め込んでいるところに出くわしたことはないが・・・。
 そんな車内で、お互い知らないものどおしが、会話をすることなど、ほとんど皆無といってもいい。長距離にわたる旅の席上という特殊条件なら、私も経験があるし、私が主導権を握って話し掛けたことだってある。しかし場所は地下鉄。所要10分足らずというシチュエーションにもかかわらず、その老人は話し掛けてきたのである。

 「いや、これは自作の本ですから・・・」
 レベルが違うという説明をし、実際のソフトの使い方の本を何冊持っている?と言う問いにも、「習うより慣れろ」なのでほとんど持っていない、と答えると、これまたこの聡明そうながら、どこかに哀愁を漂わせた老人はやや残念そうにこう述べたのである。
 「がっかりしましたョ」
 その返答に私のほうがげんなりした。正直に答えた結果が、彼を失望させたわけである。最も、彼もこの言葉の意味について補足説明をした。曰く、この年になって、パソコンをはじめたものの、分からないことだらけで、前に進まない。そう思って本を買ってはみるのだが、ここでも分からないことが噴出して、足踏み状態。だから、本を持っていると思われるあなたなら、その解決方法をご存知なのかな、と思ったというのである。
 しかし、話をしていくにしたがって、彼の決定的な過ちを見出してしまったのである。どうやら、彼は「参考書にあふれている」、もっといえば、「本に振り回されている」生活なのではないか、と考えたのである。いきなりの質問は、本の数についてだったし、わずか10分足らずのヒヤリングで、彼の口から聞こえてくるのは、「うまく扱えない」という愚痴ばかり。本を読めば全て解決と考えて買ってはみるものの、扱い方がまだ不十分なので語意も分からず、そこで立ち止まってしまう。別の本を買ったとしても内容がほとんど同じなので結局一緒。それで本ばかりがたまる一方なのではないだろうか?
 そこへ登場した私。ほとんど参考書は読まず、習うより慣れろ状態で、とにかく前に進む。一歩上を目指すにしても、結果を想定し、うまくいかなければ現状維持、むやみな機能向上はせず、身の丈でパソコンを扱う。したいことが明確(ここ最近は特に)であるがゆえの使い方が出来ていることに、ここ最近ようやく満足しているところでもある。
 結局車内での懇談だけでも飽き足らず、降りてから改札に向かうまでの間でもしばらくしゃべっていた老人と私。人それぞれのパソコンの使い方もあるものだな、と思うと同時に、今後の彼のパソコンライフが、果たしてどのようになるのか、想像して、やや暗澹たる気持ちになってしまった。ひょっとするとまた同じ車内で会うこともあるかもしれないが、そのときまでに、何かはマスターしてくれていることを願うばかりである。
 
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