第3回 あるひとつの裁判
「馬」ねたのホームページを立ち上げつつも、今ひとつ乗り気になれないWEB生活。テキストデータばかりで多分かなりの方が飽き飽きしていると思われる。
そこへもってきて、ほぼ終日働きどおしという狂った日々を送り続けている。体のほうはいうことを聞いてくれているが、いつまでこんなくそ忙しい毎日を送らねばならんのか、と自問自答するばかりである。
しかし、たまの休日に、久しぶりに溜飲の下がる裁判のニュースが飛び込んできた。競馬ソフトでの実在の競走馬の名前使用は権利の侵害に当たるとして、馬主側がソフトメーカーを訴えていた裁判で、最高裁が、馬主側の訴えを全面的に退けたのである。
訴えの焦点となったのは、著名人が氏名や肖像を使った商品などを、第三者に無断使用されない「パブリシティー権」。馬にこの権利が認められるか、というものである。最高裁では、「競走馬の名前が顧客を引きつける力があるとしても、法律などの根拠もなく馬主に独占的な使用権を認めるのは相当ではない」との初判断を示し、著名な競走馬に限ってこの権利を認めた2審・名古屋高裁判決を破棄、請求を全面的に退けた。
この裁判の特徴は、「有名人」には権利は認められるが、「有名馬」は違うという判断をしたところにある。別の言い方をすれば、馬の名前という固有名詞は、馬主が独占して使用できるものではない、ということなのである。この判例は画期的ともいえるものである。それまでの裁判では、1審が、有名馬が人格ならぬ「馬格」をもっていると判断、2審でも、範囲がGI優勝馬と狭められはしたものの、同様の判断が下されていた。そして、この判決の最も肝となる点は、「馬主に独占的な使用権を認めるのは相当ではない」という一文である。競走馬は、いったん名前がつけられると、馬主のものであると同時に、競馬ファンのものとなることを判決で言い表してくれたことにある。
そもそも馬主は、競馬にかかわって生活しているわけである。競馬は、ただ単に、馬主同士が握って勝ち負けするゴルフコンペとは訳が違う。数千万人に及ぶファンの浄財によって成り立っている。われわれが一票たりとも馬券を買わなければたちまち競馬社会は崩壊する。現に客の減った地方競馬は、いくつも閉鎖されてしまっている。ファンあっての競馬、ファンあっての競走馬、という、大前提を一部の馬主は見落とし、権利ばかりを主張したのがこの裁判の始まりである。
確かに、馬名を無断で使われたことに立腹したという気持ちもわからないではない。しかし、すべてのオーナーが反対していたわけではないことも事実である。むしろ喜んで使ってくださいといってきたオーナーのほうが大半だろう。買ってきて(生まれて)間がないころは馬主の所有物であることに疑う余地はないが、馬名がついた瞬間から、その名前はオーナーの手元を離れてしまうのである。そしてファンの共有財産になるのである。
馬名にパブリシティー権認められず、の判例は、ほかのソフトでの同様の裁判でも採用される可能性が高く、裁判を起こした馬主側が立て続けに敗訴することになりそうである。それにしても、ゲームに出てくる馬名が、シンボリクリスマス、とか、ナリタトップドーロとか、言われても、興ざめするだけですけどねぇ。
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