第5回 自国民の安全か国際社会との約束か・・・。
イラクに「派兵」が始まって、早3ヶ月あまり。マスコミは、「派兵」の事実を淡々と報道するにとどまり、是非については、お口にチャック。おそらく、政府筋からそのあたりの、機微に触れる報道は控えるように、との通達(言葉を変えれば、政治的介入)がなされていることはほぼ間違いなく、最近のマスコミが、過激に何でもぶちまける、というイメージはなくなりつつある。ちなみに、私は、「派遣」ではなく、「派兵」とわざわざかぎかっこまでして強調しているのには、私なりのポリシーがあるからである。ここのところから今回は論じてみたい。
確かに現時点では、「人道支援」に限定されている自衛隊のイラクでの活動。しかし、これまでのPKOでの活動とはまったく意味が違う。現に戦闘なり、攻撃が散発的とはいえ起こっている地域での活動である。宿営地めがけてかどうかはわからないが、迫撃砲が着弾もしている。生命の危機は、すぐそこまで来ている。ではなぜ狙われるのか?それは、イラク国民にとって、自衛隊が、丸腰できていない、つまり、武器を持って(とはいってもたいした火器類は持っていっていない。暴動を鎮圧する程度しかもって行っておらず、先制攻撃を大々的に受けると、かなりのダメージを受けるであろう事は明白である。私は軍事専門家でもなんでもないが、アメリカ軍の装備とは比較にならない貧弱さ。これでよく出かけたものである。)イラクに乗り込んでいるからである。このことは、誰がなんと言おうと、軍隊だから、ということになる。武器の携行を許されるのは警察官と軍隊だけだからである。自衛隊が海外に武器を持って乗り込む・・・。人道支援という名の元の「派兵」が完成した、と、一部のタカ派議員はほくそえんでいることだろう。
厳密に言えば、いまだ平和の訪れていないイラク。そんなところに、武器を持っていっていたとしてもゲリラ的に狙われ、命を落としかねないにもかかわらず、一部の民間人は、丸腰の人道支援こそが真の人道支援とばかりに、大挙乗り込んでいる。そして、とうとう、日本人にもその刃は向けられた。
3人の民間人が拘束されている報を受けた政府はまさに蜂の巣をつついたような騒ぎ。しかも、人質解放の要求の中に自衛隊の撤退が含まれていたからなお始末が悪い。3人の命か、国際社会との約束か・・・。政府の対応は揺れに揺れたであろう事は想像に難くない。
しかし、ちょっと考えてもらいたい。確か、数ヶ月前には、日本の外交官の方が、車に乗っていたところを襲撃され、命を落としている。空輸された棺が厳かに日本の地を踏んだ映像も、この3人は見ているはずである。彼らも丸腰。もちろん襲撃した側にどういう政治的意図があったかなど知るすべもない。たまたま襲ったら日本人の外交官だった、というのが顛末だろう。つまり、そこかしこで銃を持ったやからが出没する国になってしまっているということを理解していたはずである。今自分がイラクに入ったとして、自らのみに危険が迫ることを予測していないはずもない。なんとなれば、彼らは観光客ではないからである。それを承知で入っている彼らを、果たして国という権限で救出することに、どれほどの価値が見出せるというのだろうか?なまじ「生きている」から、生きて返してほしい、というのは肉親の願いでもある。しかし、もし彼らが、惨殺されていたとしたら、国としての対応はどうだっただろうか?「あぁ、殺されちゃいましたね、お気の毒に。でも、危険情報は出してますから、私ら、知りませんよ」で終わりのはずである。せいぜい棺を空輸する代金を肩代わりするくらいだろう。
なぜこれほどまでに私が冷ややかなのか?理由は簡単である。「自己責任」だからである。大の大人が、危険を冒してまで入る価値がある、と見出して臨んだイラクな訳だから、その結果が、屍になったとしても、彼らは十分に本望のはずである。それ以上に得られるものがあると考えたから入国したわけであり、たとえ拘束した側に非があるとはいっても、拘束された側にまったく責任がないという考え方はおかしい。もし彼らが日本に帰ってこれたとして、周りからのバッシングは想像を絶するものになるであろう。
ただでさえ国会が前に進んでいないところに降ってわいた今回の騒動。小泉氏の心中察して余りある。とはいうものの、それもこれも、自衛隊の「派兵」に端を発していると考えると、国の責任もまったくないとはいえないのかな、と考えてしまう。平和裡な解決を願いたいが、彼ら3人には、きつくお灸を据えたいと考える今日この頃である。
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