第 6回  裁判はダレのものなのか?
 山口・光氏で母子を殺害した、当時18歳の少年−−−現在26歳−−−の差し戻し公判の集中審理が行われたことは皆さんご存知のはずである。
 「悲劇の人」でもあり、まさに、奈落のそこに突き落とされた感のある夫・洋氏。しかし3日間に及ぶ集中審理は彼を納得させるどころか、逆上するような内容だったようなのだ。

 単純な強姦目的の殺人事件。非のない、生後間もない子供にまで手をかけたこの少年に厳罰が下るのは誰の目で見ても明らかのはずである。ところが、この集中審理で彼や弁護側から出された発言は耳を疑うものばかりである。挙句の果てに、この被告は、初めて目を合わせたという被害者の洋氏をにらみつけたというのである。
 
 獄中から出した手紙にも反省の色はほとんど感じられず、今回の集中審理でも、洋氏が「嘘をついている」と喝破されるような発言に終始する被告。そして21人もの大弁護団が思い描く、この被告の「延命」措置は、はっきり言って弁護士としての名声を高めるためだけに利用されているような気がしてならない。

 誰しもが納得のいく判決というものは、意外と難しいのはわかっている。被告にしたところで「生きながらえたい」と思うから、口からでまかせでも、「殺意はなかった」といえるし、心象を良くして減刑などということも充分考えられる。しかし、殺された側には、発言の機会も、もちろん事実の証明も不可能である。こんなそもそもが矛盾した状況での裁判が、まるで「被告優位」に進んでいるかのような錯覚に陥るのは、どうしてだろう?そして、生き残った被害者が持っている悲しみや憤りがまったく反映されていないと感じるのは私だけではあるまい。
 裁判は、加害者を救済するためのものなのか、被害者の溜飲を下げるものなのか・・・。公正な判断を司法にはお願いしたいものだ。

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