第 7回  「しょうがない」のどこが問題?
 久間防衛相の講演のなかの「しょうがない」という発言が取りざたされ、反核団体や被爆地からは猛烈なバッシングを浴びている。
 以前の柳沢厚生労働大臣の「生む機械」発言同様、また問題となりそうな部分だけを引っこ抜いて、クローズアップしているように見受けられるのだが、今回もどうやらそのようである。

 久間さんの発言の真意は、「戦争を戦っているアメリカ側の視線に立ったもの」だからである。確かに大量殺戮兵器を、ほとんどの非戦闘員に対して使い、しかも、不必要なはずの2発目まで日本にお見舞いしている。では、このときのアメリカ側の立場に立ったとしたらどうか?沖縄戦や硫黄島でアメリカ軍は、予想もしない日本軍の抵抗にあうのである。「玉砕覚悟」の日本軍が守ろうとしたもの−−−それは、精神的な「国体維持」というもの、平たく言えば天皇を守るということだからである。精神的に強い日本人を打ち負かすには、圧倒的な兵力ではだめであると判断があり、「技術力」で見せ付けるしかない、そのことで、戦争は速く終結するとの見方があった、だから「(原爆使用は)しょうがない」ということなのである。(筆者注:久間氏も述べているが勝ち戦に原爆を使用する意味がどの程度あるのかは疑問である。当然私もアメリカが原爆を2個も使用したことについては、たとえ交戦国といえども、仁義にもとるものだと思うし、許しがたい行為だと思っている。)

 ところがまたしてもこの「しょうがない」が独り歩きを始めている。「原爆を投下されたのは、日本が悪いからで、しょうがない」という風に解釈するものが大多数なのである。この部分だけを切り取ってみるならそう判断されても仕方ない。しかし、彼はこういっているのである(一部ニュース解説より抜粋)

        「あれで戦争が終わったのだという頭の整理で、しょうがないと思っている。アメリカを恨む気はないが、勝ち戦とわかっているのに
         原爆を使う必要があったかという思いは今でもある」
 
 原爆容認、投下されたほうが悪い、とはまったく受け取れない内容であることは、この短い文章で充分である。しょうがないという言い回しには、「あきらめ」とも取れる感じもあり、日本に全責任があるかのように受け取られかねない。その意味で言えば、「しょうがない」という文言は使うべきではなかったし、一言ですべてを言い表してしまうこのような形容詞の使い方には誤解を生じさせるものがあるといわざるを得ない。

 さてまたぞろ発言スキャンダルに見舞われた安倍総理。ほとほと「ついていない」としか考えられない。選挙前の大事な時期に閣僚の不適切発言。「もうどうにでもして」とばかりに、久間氏を擁護する発言まで飛び出し、もはや政治が機能していないといわれても仕方ない。お灸をすえるくらいないと、本当に選挙はまともに戦えないはずなのに、もはや「投げている」様にしか受け止められない。「(閣僚の発言だから、僕じゃないから)しょうがない」と考えているのは安倍氏自身だろうか?


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