第 9回 『死に神』表現を考える
日本は、最高刑が死刑という司法制度を採っている。このことの是非を問わなくてはならないことも意識しているが、「今」現在は死刑をもって贖罪される流れになっている。
死刑というものが、判決として取られたとしても、その後に続く膨大な手続きは意外と知られていない。Wikipedia「日本における死刑」項目を見ても、どれだけの手数がかかっているか、知っている人は数少ないと見られる。
そんな中にあって、先ごろ、連続幼女殺害事件の被疑者でもある宮崎勤死刑囚を含む3人が死刑に処せられた。これに噛み付いたのが朝日新聞。夕刊のコラムで鳩山法務大臣を「永世死刑執行人」「またの名、死に神」などと表現したのである。
死刑執行にもただ法務大臣が書類にはんこを押せばいいというのではない(前述Wikipediaによると、命令書には自筆のサインが必要とされ、そのサインには赤鉛筆が使われているのだそうだ)。膨大な時間が必要であり、もちろん死刑囚だって人間である。死刑を執行することに少なからず思うところがあってしかるべきである。
ただ、大新聞が、法務大臣をつかまえて「死に神」呼ばわりするほど、マスコミは偉くなったのか、といいたい。そもそも死刑執行は法務大臣の職務の一環である。粛々と業務をこなした結果を中傷するかのような表現は、果たして正着といえるのだろうか?当の法務大臣がこの表現を是としていないのも分かる。
因みに。私は死刑には「賛成」の立場である。光市母子殺害事件での被害者の夫氏の弁を引用するまでも無く、司法が裁く結果が、死を持って償うことでしかかなわないこともありえるからである。ただ、運用に関しては慎重に行わなくてはならないということも付け加えておく。依然として、死刑囚の中に冤罪が疑われる人たちもいるからである。新聞の表現は、むやみやたらに死刑囚を血祭りに上げているような錯覚を感じてしまうが、13人死刑囚をあの世に送ったからといって、死に神呼ばわりはひどすぎると思う。
「死刑」はその人の犯した罪に見合う刑罰である。「執行人」ばかり攻め立てられるのもどうかと思うのだが…。
コーナートップへ