第12回  中国の五輪資格を考える
 
 もう、はじまってしまっているので、いまさらの感は否めないが、いまや世界一の「全体主義国家」となった感のある中国で、果たして、オリンピックは開くべきだったか、を考えてみたいと思う。
 オリンピックそのものは、実は、「開催都市」がその全権を担うとされ、国家については「その開催を後援する」程度の位置づけになっている。それは、古代オリンピックが、都市間競争だったことにも起因していると思われる。実はここが大事で、「北京市」のオリンピックなのである。中国という国威発揚のためのスポーツ競技ではないのである。
 国が前面に立っていないといっても、開催都市が所属する国の影響は大きく出てくる。長野でのひと悶着や各国での過剰なまでの対応振りなど、ここまであからさまな「中華思想が世界を覆う」的なプロパガンダ聖火リレーなどは、まさにオリンピックの何たるかを逸脱した行為であるといえる。

 そして話は例の「人権問題」「チベット問題」になっていく。とはいえ、「国のオリンピック」でない以上、これらの諸問題は正直言って北京という都市だけが抱えているものではないだけに拡大解釈をしているという風に捕らえることも可能である。百歩ゆずってこれらの問題を取り上げたとしても「スポーツとどういう関係があるのか」ということにもなりかねない。
 しかし、今までの開催国がこういった(内政的)問題を抱えてまで開催したことは一度もない。それにもまして、「テロ」と考えられている、自治州での反乱蜂起は五月雨的に発生している。オリンピック開催時には、過激派もおとなしくしているのが普通なのだが、理屈が通じないのか、やりたい放題である。

 僕は、「ちょっと早かったかな」と思っている一人である。何しろ、いまだに自国の選手と対戦する他国の選手に罵声を浴びせるような国である(しかもあのオグシオが被害に?!ニュースソースはこちら)。まともに観戦できない(そういう教育が理解出来ない)人たちが会場を埋め尽くし、そしてその模様が世界に配信される・・・。「恥を世界に撒き散らしている」ことに上層部が気づいているかどうかも疑問だ。そしてそれは、「中国という国が欧米の感覚とはかけ離れている」という、決定的な状況証拠になってしまう危険性をはらんでいる。
 全く興味のない北京五輪。日本選手の活躍は気になるところだが、見てしまうと、かの国の五輪を支持しているようで、いやである。
 
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