第 1回  今政治家に求められていること
 
 とうとう麻生内閣支持率が20パーセントを割り込んできた。2割しか支持がない内閣は早晩倒れるというのが政治の世界での不文律である。それは後継がいようがいまいが関係ない。
倒れるものは倒れてしまうのである。
 しかし、その「万が一」(いや、今の状況なら、十が一くらいの確率か)の状況が訪れたときに、与党・野党を問わず、政治家といわれる人たちは気丈に対応できるのか、それが心配になってきたのである。

 そもそも政権を取りに行こうとしている、野党第一党の民主党にしても、これだけ弱りきっている自民党に止めを刺そうとしていない。いつでもできると敢えて伝家の宝刀を隠しているのだとしても、ここ最近の動きは、その刀をまたぞろどこかにしまいこんだかのようなどうとでも取れる発言に終始している。要するに「本当に政権をとる気がない」と映る動きな訳だ。
 もちろん危急存亡のがけっぷちに立たされている自民党にしてみても、その危機感というものが全くといっていいほど感じられない。後継を探すでもなし、法案を通すべく喧しく動くでもなし、もちろん国民に対して安心させるような文言で訴えかけるようなこともしていないし、する気もないのだろう。ねじれ国会という制度上、法案が、所定の日時を経て自動的に成立するという手前、すべてのことが本当に必要なときに手当てされない。そういう状況ばかりを体験して、無力感が漂っているのもわからないでもない。

 であるからこそ、政治家が、自らの信条や所属政党などの立場をかなぐり捨てて今の迷える国家をどげんかせんといかん、とたちあがってはじめて、政治家であるともいえるのである。その意味では、地元民の公害にあえぐ姿を国会に持ち込み、議員を辞職後に天皇に直訴しようとした、田中正造氏などはこの精神の立派な体現者でもある。では離党した渡辺喜美氏はどうか、といいたいところだが、彼の場合、自身の信条が最優先になってしまっている。国民の意見を代弁していると言いたげだが、何かできそう、という期待感だけでは国民は振り向かない。小泉氏レベルの一本筋の通ったものがどうしても必要である。

 ポスト麻生も全く玉切れで、政権明け渡しムード満載の自民党に、「政権、とっては見ましたけど」的な、弱弱しい民主党。昔気質の、カリスマ性あふれる首長−−某国の大統領のような人−−でもどこからともなく現れないものかと思う今日この頃である。あ、木村拓也内閣はドラマの中だけですからお忘れなきよう。
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