第3回 「国技」と見るか「興行」ととるか
大相撲の八百長疑惑報道が毎日のようになされている。先般は、野球賭博に力士が関与していたということで、場所そのものは開催したものの、周囲からは冷ややかな目が向けられていた。そこへ振って沸いた不祥事。色めきたつのは当然のことといえる。
相撲の歴史は、古く、起源をたどれば神話の世界にまで発展してしまう。「大相撲」とは、いわゆる「奉納相撲」などとは違い、興行として江戸時代から発展してきている。「興行」というと、格闘技の世界では、プロレスが想起される。最近でこそ、各種の団体が乱立し、活況を呈している(決して儲かっている/前途洋々と言うことではない)とはいえ、70年代のプロレス全盛期には、「これで決着?」というような、不可解な対戦が多く見られたのは周知のことである(あえてどなたに絡むかは伏せさせてもらう)。しかしながら、それでもファンが熱狂し、ついてきていたのは、選手のスター性とカリスマによるところが大きかったからでもある。
つまり「興行」という側面から大相撲を見るときに、星のやり取りという八百長があったとしても、それは個人間のことであり、組織だって行われていないものであるならば、ここまでおおきくならなかったはずである。事実、元力士が八百長告発をした2000年当時、「ああ、そう」程度の報道しかなされていなかったのは、八百長の事実を追認したわけではなく、「アンタッチャブルな世界」という認識がマスコミにあったからだと思う。
そして、最も重要なことは、「大相撲という興行は国技ではない」ということである。一部のコメンテーター諸氏は相撲は神聖なものと認識しており、これが事実誤認を招いているのだが、法的にも大相撲は国技と定められていない。百歩譲って国技だとしても、それは「奉納相撲」など、神事にかかわる相撲をさすべきで、金銭の絡む(懸賞金が出ている時点で国技といえないと思うのだが)興行としての大相撲を国技とするのは無理があるように思う。
私個人としては、「では、八百長があったとして、誰が得で誰が損なのか」というところの視点が、各種報道で欠けていると思うのである。くどいようだが、大相撲は「興行」であり、力士・相撲協会のお金儲けの手段である。われわれ国民が、この世界は神聖で、汚いところなどひとつもないという誤った認識をしているから、今回の八百長疑惑ごときで大騒ぎしてしまうのである。
朝青龍の一件以来、相撲協会には暗雲が垂れ込めている。負の連鎖をどこで断ち切り、伝統をどう継承していくのか・・・。「次の一手」に注目したい。
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