第5回 「原発」だけが重要か?
2011.3.11午後に起こった東日本を中心とする地震と、それに伴う津波の被害。一週間がたち、犠牲者の方は、阪神淡路大震災を超えてしまった。避難されている方も、阪神とは比べ物にならないほど多量・広範囲にわたっている。被災者の方々の、一日も早い安定と、また不幸にしてなくなられたかたがたに、お悔やみ申し上げます。
さて、地震という一定の事象が落ち着きを取り戻し、余震の報道がほぼなくなりつつある中で、マスコミは、福島第一原子力発電所での作業の一部始終をどうにか報道することに躍起になっている。
ことが原子力/放射能というだけに確かに事故が起こっていることを報道することは必要だし、もちろん日本の浮沈にかかわっていることだと思っている。しかしながら、某夕刊紙が「臨界」などというわけのわからない大見出しを出すにつけ、理解がなされていないのに堂々と報じるバカの鵜呑みをしてしまわないか、と不安に陥るのである。
そもそも核反応は地震と同時にしておらず、冷却機能が失われた「だけ」である。そのこと自体は重大で、事実、1/3/4号機は建屋が崩壊するなどの被害が出ている。しかし、言葉を変えれば、炉の本体自体が壊れたわけでも、もちろん、核分裂がとめようもないほど行われて爆発してしまう(核爆弾と同様の事象)こともない。なので、冷やすことが、どういう手段であれできるのであれば、十分に対処できる話である。
もちろん、そこにいたるまでに時間を要してしまったのはいささか残念である。確かに原発の事故は重大であり、今後の電気供給にも暗雲が立ち込めかねない。だからといって、首相自ら東電の本店に乗り込んだりことさらに原発がらみばかりで記者会見をすると言うのは、地震という広域災害の全体像を官邸自体が把握していないのと同様なのではないか、と思うようになってきた。
そう。「原発」だけが優遇/それしか見ていないように思えるのだ。事実、計画停電も、物資の配給にも、何かしら、道筋というものが感じられず、場当たり的な様相を呈している。その結果、極寒の地が寒さに震える事態になってしまったのだ。被災地が停電に見舞われた停電初日など、まさにその典型である。
わたしは前回のエントリーで「生きている人対策が急務だ」とのべた。原発は、被害事象をできるだけ少なくする行為が述べられているにとどまり、避難所にいる人の「生きる」対策は後手に回ってしまった。同系列で論じられない、いや、むしろ生存者優先の施策が打てなかった時点で、どんなに臨時大臣を登用したところで、政府・民主党が打ち出したスローガン「日本を復活させる」という言葉が空虚に感じられる。今は政治に対する不満は被災地を中心に抑えられているが、復興が進むにつれて、その勢いは、とめられなくなるであろう。
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