第30回 『核』とどう向き合うか?
今年も、テレビでは、これでもか、と言わんばかりに敗戦にいたる過程を詳細に映し出す、歴史さかのぼり番組が多く見受けられた。
いまさらこれらの番組の自虐史観振りをとやかく言うことは控えたい。言っている本人がほとほと悲しくなってしまうからである。
ただ、今年の『夏』は別の意味で『暑い』のである。そう、節電せざるを得なくなった日本国家が、原子力というものと真正面から対峙しないといけない特別な夏だからである。
どこかの原爆反対団体が、恐ろしいことを口に出した。「ノーモア・フクシマ」・・・。確かに「被曝」はしたけれども、フクシマの人たちは「被爆」したのではない。読み(音として耳に入るニュアンスも含めて)が一緒だからと、これを一緒に論じて堂々と宣言できるこの団体の、核に対する憎悪振りがよくわかる。もし私がこのことを指摘すれば、ヒステリックにこう言い放つだろう。「放射線を浴びていることには違いないでしょ?」
ただ、彼らの言い分を素直に受け入れてしまう素地があることも事実である。すでにマスコミによる、ある一定の放射線被曝は人体に少なからず影響を与えるという刷り込みは成功し、汚染されているとされる薪の松にまで過剰に反応するまでに洗脳できている(その薪を燃やしたところでどのくらい放射線量が上がるのか。やりもしないで見つかったからやめておくというのは逆に非科学的すぎる)。
であるからこそ、あの程度の放射線量では何も変わらないことを広く世間に広める必要があるのである。拡散したからといってそれで大気中が放射能でイッパイになるかのような、絵空事を想起させるような反対意見は一蹴してほしかったのである。
ここまで科学が進歩しているはずの日本で、正しい放射線に対する知識が全く醸成されていない。ケータイやインターネット全盛の時代であるにもかかわらず、である。
核武装の話は、早晩行わなくてはならない問題だが、核兵器を持つ前に、もっと言えば被爆国であるはずなのに、原子力や放射線に関する広範な知識や指標といったものが「あの日」までほとんど知らされていないことを問題視している学者も評論家も、コメンテーターも誰一人いない。
原発には「安全神話があったから」「事故なんて起こるわけない」と考えていたとしても、他国の核攻撃すら想定していなかった日本。原爆投下から66年目にして初めて、核と向き合うことになった状況を、もし今の政府が変えられるというのなら、私は民主党政権を支持したい。しかし、ただ単に「核から逃げる」としか受け取れない自然エネルギー法案や、非を認めない原発対応を見るにつけ、こいつらでは無理だと達観している。
「アレ」では無理だとわかった。次がうまく出来るといえるのか?
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