第30回  「マスコミ」と「市長」は死んだのか?
 
 2011年の8月。夏の盛りに、某テレビ局があるお台場周辺で、数千人規模を集めたデモ行動があった。
 毎週金曜日に、官邸前で繰り広げられる「反原発デモ」にカウンターを当てている団体がいる。
 反日行動を取る中国に対して、抗議活動を都内数箇所で行った。又、テレビ局スポンサーになっている一部の会社に対する抗議行動も頻繁に行われている・・・。

 こういった事実を知らない層は、かなりの数に及ぶと見られる。知らない人がいるのはなぜか?何のことはない。これらの「日本を想う行動」の大半は、マスコミが報じないからである。
 彼らの言い分は「報道する自由がありますから」、との一点張り。しかし、規模の上で小さい、左翼系のデモは報道するくせに、テレビ局に対するデモは一部のスポーツ紙が申し訳程度に乗せる程度だった。
 日本を恣意的に一方向に持っていこうとするにはマスコミの利用が欠かせない。その上で現状を鑑みれば、本来不偏、公平であるはずのマスコミがその理念を失っている時点で「死んでいる」といわざるを得ない。

 一番いい例が沖縄である。何かといえば、「反基地」「オスプレイ来るな」ばかりが表立ってはいるが、「基地残るの大歓迎」「基地なくなったら沖縄の危機」という視点で活動している人々もいるわけであり、そういった人たちがまるで「いない」かのように報じるから、「ああ、沖縄の人って、大半が、米軍基地にはかなりの嫌悪感を持っているのね」と間違った視点で見てしまうのである(ただ、やはり不貞軍人はいるわけであり、ああいうことをするから、ますます付け入る隙を与えることになるのである)。
 少し沖縄のことを書かせてもらうと、もし仮に「ああそうかい、そんじゃ、みんな撤収ナ」と米軍がいなくなったとしたら、あの広大な土地は、誰が使うのだろうか?曲がりなりにも、土地の使用料は政府→県に下りてきているはずであり、又、米軍の土地だったとしても、誰が買い取るというのだろう?勿論、米軍相手の商売をしている人/基地で働く日本人はすべて雇用や職場を奪われる。軍人が県経済を支えている数字は、表面的にも、又見えない部分でも大きいはずである。「基地なきあと」をビジョンとして提示できていない「反基地」思想は、その後に迫り来る諸外国の殺到を想起していながらあえて見せないでおこうとする、「別の目的」が透けて見える。

 当然のことながら、沖縄のマスコミも、ほとんどが「反基地」で凝り固まっており、かといって基地がなくなった後のことは「国任せ」である。それで「ブンヤ」とやらが勤まるのだからいい商売である。
 そして、自らの出自を詳しく書かれすぎたために、大手新聞社と丁々発止の大立ち回りを演じた橋下大阪市長は、今回の件で、これまた大きく信頼度を失ったといえる。
 
 なんとなれば、週刊誌に書かれていることそのものは「事実」だからである。つまり、本当のことを書かれたのに、市長は噛み付いたのである。別に親が暴力団の構成員であったとか、差別部落の出身だったとか、『そうだったのか』レベルであり、今の市長には何の関係もない。むしろ、その出自というものは隠せないものであり、堂々と渡り合えばよかったものである。ところが、当該新聞社とは「取材拒否」という対抗手段に出て、攻守ところを変えることとなり、結果的に新聞社側が謝罪し、連載を一回目で打ち切る、としたのである。
 本当のことを書いたのに『表現の問題』でシナシナとしおれてしまう。そのくせ、ありもしない「南京のこと」や「売春婦」のことは謝るどころか、依然としてしらをきりとおしている。最近になって特にこの新聞社に怒りを覚えているのは、時の首相の政治生命を絶ってやる、とばかりのネガティブキャンペーンを社を揚げて行っていたことが明らかにされたことだ。

 勿論、こんな新聞社の出す新聞・雑誌は読むに値しない。しかし、自分の出自をあげつらわれたぐらいで(事実であり、捏造や脚色はない)、逆切れする市長の度量の低さと、子供の喧嘩かと思えるような「取材拒否」という対抗手段。出自以前に、この人が頭である「何とか維新の会」とやらがまともな政党・政治団体になりえるのか、はなはだ疑問に思えてくる。
 一応マスコミに「勝った」かのような市長。しかし、死に体であるマスコミに勝利したところで、何の得にもならない。むしろ、ネガティブキャンペーンの連鎖に押しやられ、本当に「死兆星」が落ちてくる可能性だって否定できない。潮目が完全に逆転した、この反動は大きいものだといわざるを得ない。

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