第10回  なぜ彼は火中の栗を拾ったのか?
 
 「火中の栗を拾う」とは、辞書で引くまでもなく、「自分の利益にもならないのに他人の為に危険を冒すこと」のたとえである<蛇足*中国あたりの故事かと思っていたが、なんと《猿におだてられたが、いろりの中の栗を拾って大やけどをしたという、ラ‐フォンテーヌの寓話(ぐうわ)から》ということで、フランスの詩人の寓話からだそうです。これ、豆なww>。
 辞書というものは、気になった時に間違っていないか、と思って開いて確認しておかないと、間違った意味に使ってしまいかねない。いまさらだが、私、「自分の利益にもならないのに」「他人のために」といった部分が欠落して使ったり、考えていた。
 そう。火中の栗とは「自分で拾って、それがたとえ実入りが少なくやけどをすることがあっても取り組まなくてはならない難題」という風に考えていたのだ。

 ことほど左様に、凡人であっても、よく使っている慣用句でも誤用がある。いわんや、人の上に立つ「共同代表」とやらであれば、どんな発言にでも神経をすり減らさなくてはならないはずである。
 ところが、この人は、とうとう、というか、誰にたきつけられたのか、従軍慰安婦問題をしゃべり始めてしまったのである。
 まさに「火中の栗」。どういう信条を持っていようとも、発言すれば、どんな波が押し寄せてくるのか位、分からない「凡人」ではないはずである。なのに彼はしゃべってしまった・・・。
 ここについに、彼をして、絶望視させる条件は揃ってしまったことになる。

 彼がどういうことを言ったのか、はもはや問題ではない。どうして、「そのことを言いたくなってしまったのか」ということである。
 国の政治を動かせるほど議席も持っておらず、結局追い詰められての発言だったのか?いやいや、むしろ「マイナス」に振れる可能性のある発言をしなくてはならないほど追い詰められていたとも考えにくい。
 そう、とにかく、今の時点で、彼がこのことを口走らなくてはならないその背景がよくわからないのである。
 
 まあ、結果はどうあれ、舌禍に見舞われることは確実になった大阪市長。無駄口たたかず、市政に邁進してくれ、と思っているのは私だけではあるまい。

 
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