二世兵士

"YANKEE SAMURAI"
〜日系二世部隊・第100歩兵大隊と、第442歩兵連隊〜



米時間12月7日に真珠湾が奇襲された。その4日後、米国議会は
日・伊・独に対して、宣戦布告を決議。
12月8日、ジェネラルオーダーNO,5がマーシャルローのもと、交付された。

エグゼクティブ・オーダーNo. 9066
翌年2月19日、フランクリン・ルーズベルトはエグゼクティブ・オーダーNo. 9066に署名。
この法律によって、米国本土西海岸の全ての日系アメリカ人は、収容所に強制移転することとなる。
開戦当時、ハワイでは1500人の二世が軍に所属していた。
しかし、本国からやってくる兵は、日系人兵士と共に仕事をすることに不満を持ち、問題が発生する。
結果的に、1942年6月、後方部隊で働く一部を除き、
全ての二世が集められ二世で構成されるハワイ部隊が編成される。
これが後の第100大隊である。
これらの二世はウイスコンシン州のマッコイ・キャンプで訓練を受けるため派遣される。
第100歩兵大隊の編成後、日系人全体から徴兵できるようになり、
収容所に強制的に入れられていた彼らは、いわれない迫害と
戦うため、自分達から軍に志願するものも多かった。



1943年8月11日、第100歩兵大隊は北アフリカのオランへ派兵された。
当初は、物資補給列車の護衛が任務だったが、ファラント・ターナ大佐は
大隊を実戦に出す事にし、第34”レッドブル”師団とともに
イタリア戦線に派兵された。 ヨーロッパ戦線を行軍中の日系二世兵士
大隊は、モンテ・ミレト攻略戦に参加、初めの1週間で、死者3名、負傷者36人を出した。
あまりにも死傷者が多いため、大隊は「パープルハート歩兵大隊」と呼ばれた。
1944年、1月24日。大隊はモンテ・カッシノ攻略戦に投入される。
たった1日で、攻略一歩手前というところまで行ったが、
多くの死傷者と、少ない補給のため、やむなく撤退をはじめたが、
地上・航空支援を受け、同市を攻略した。

1944年6月、大隊は日系人部隊である第442連隊に統合される。
その連隊のSSI(部隊識別用パッチ)は
自由の女神の右手をかたどったものだった。
日系人部隊が編成されてからの2年間で、第442連隊は
米国陸軍史上、一連隊としては、最も多く勲章を受勲した部隊となった。
また、太平洋戦線に投入されたMISLS(軍情報語学学校)卒業の日系兵士も
日本兵と銃口を向け合う第一線にこそ出なかったものの、
その働きは太平洋戦争での「情報戦」を制するものであった。

WW2での日系二世軍人数16,000名。
うち、戦死者数、700名。
第442連隊戦闘チームの終戦時の記録。
議会名誉勲章7つ。
個人勲章18,143個(米史上最多)
戦死傷率314%(米史上最多)
彼らは、内外との敵と戦い、勝利を収めた。

”go for broke”を合い言葉にして・・・