「善意のスタジアム」    ニューヨーク(米国) '93.9

 初秋のヤンキースタジアム。今日のニューヨーク・ヤンキースの相手はインディアンズだ。日本の球場と違うところは、メジャー級のビックな球場と、平穏で和やかな雰囲気。決して、日本のように危喜迫った強迫的、集団的応援はなく、応援も個人主義だ。

 家族連れ、特に「父親と息子」というパターンが最も目について多い。コーラにポップコーンを手にして、お気に入りの選手が出てくると、ここぞとばかりに叫ぶ。コーラのカップはプラスチック制で、ルー・ゲーリックなど歴代の名選手の似顔絵が描かれており、これはいい土産になる。ファンサービスも、さすが本場だ。

 今日の先発は、ビル・アボット。アボットといえば、日本でもある程度報道されており、話題にもなった。右手首から先が先天的にないというハンディを背負いながら、ハンディをものともせずに克服し、どうどうとメジャーで活躍しているサウスポーの凄い奴。

 投球モーションが独特だ。投げた瞬間に、今投げたばかりの左手に、右腕で支えられていたグローブが持ちかえられる。もはやそれは一連の動作となって、慣れると全く違和感を感じさせない。普通のピッチャーと同じようなスピードのサイクルで投球練習を行っている。少しばかり動作が忙しいが、繰り返し繰り返しキャッチボールする姿は極めて独創的で、芸術的でさえある。

 グローブの中に球を隠すことができないわけで、これでは2塁ベースに選手がいたら「握り」が丸見えだ。フォークボールなんてすぐにばれてしまうのではないだろうか。しかし、今日のアボットは、投球直前にグローブにボールを入れられないハンディを心配させないくらい、好調だった。

 危なげのないピッチング。ファーボールは出すものの、ヒット性の当たりはない。あれよあれよというまに、6回が終了。電光掲示板のH(ヒット)は0。観客は、「もしや」の期待を寄せ始め、アボットのピッチング時だけ球場が盛り上がる。

 7回表、インディアンズのバッターがバント攻撃を始めた。とたんに、球場はブーインングの嵐だ。皆が口に両手をあて、「ブーブー!」という声が響き渡る。ブーイングの意味こそ知っていたが、本当に「ブー!ブー!」と発音するものだと知らなかった私は、少し驚いた。皆の気持ちは良くわかった。私も同じ気持ちだ。ブー、ブー、ブー、とみんなに混じって、心から叫ぶ。日本人の心境としては、野次の1つでも飛ばしたいものだったが、ここは米国だ。

 観客は、これがプロ野球であることは勿論、承知の上だ。プロである以上、ルールにのっとった正当な手段であるバントをして何が悪い、という考え方もあろう。しかし、球場は、ヤンキースのホーム球場ということもあろうが、敵味方なく、至る所からブーイングが聞こえた。スタンディングブーイングをする者も多い。

 アボットにグローブで採らせれば投げられないので、出塁は間違いなしだ。アボットをかばい、内野はいっそう、前進守備となる。攻撃側としては、極めて合理的な戦術といえるが、観客の正義感は、そんな卑怯な戦術を許さないようだった。

 ブーイングの中でも、その選手はプロらしく、結局、セーフティーバントに固執した。弱い打球が3塁側に転がる。逆ハンドだが、アボットが素手で捕って一塁へ悠々と投げ、アウト。観客は、いっそう湧きあがる。

 8回。いまだ、アボットのノーヒットピッチングが続く。ヤンキースは首位争いをしているわけではないが、アボットの投げる球場には首位決戦のような緊張感が漂い始めた。もはや、試合には大差がついており、球場の注目はアボットのノーヒットノーランだけだった。勿論、帰る者など眼につかない。

 9回、2アウト。ブーイングの威力が効いたのか、それ以降、バントをする仕草さえする者はいない。正々堂々、力と力、技と技の戦いとなっていた。

 外野に力ない飛球が飛ぶ。「やった!」球場が一体となって、全員でスタンディングオベーションだ。まるで優勝でも決まったかのようである。いつまでも拍手が鳴りやまない。電光掲示板には、アボットの似顔絵とともに、「おめでとう」の文字が浮かぶ。

 アボットに対するブーイングによる応援は、なぜなし得たのだろう。それは一言で言えば、「善意」を生かせる条件が整っていたからではないか。

 言うまでもなく、多くの観客がアボットに興味を持って観戦し、またアボットにはそれだけの魅力があった。そして、当然であるが、全員がそこで起こっている事態の一挙手一投足を知っていた。そこに、例えプロであっても、人為的なルールを超えたところでフェアな戦いを望む、人間本来の善意が働く環境があったのである。アボットがハンディを乗り越え偉業を達成する「アメリカンドリーム」は、米国社会のこうした土壌があってこそ、だと思える。

 米国のこうした情報の双方向性は、何もベースボールに限らない。例えば議会ならば、議会専門チャンネル「C−SPAN」が存在し、観客(有権者)はつぶさにそのプレーヤー(議員)の言動を見定めることができる。私は、これを日本社会一般、なかでも国会や地方議会などと比べてみたいのである。議会で起こっていることを国民が知る環境にはないし、国民は興味もない。傍聴しようにも議会は昼間だし、CATV等による一般家庭への配信もない。これでは国民にいくら善意があっても、それが機能する環境にはないといえよう。法律という名の「ルール」の下で「バント攻撃」が横行する「アンフェア」な社会からは、アボットのようなスターは生まれにくい。

 もちろん、観る者と観られる者の間で情報を共有しているか否かのほかに、日本の議会とヤンキースタジアムにおける決定的な違いは、プレーヤー(議員)に魅力があるか否か、であることも確かだ。両者は「にわとりと卵」、または「車の両輪」の関係と言えよう。

 情報共有のためのインフラ整備、そして、アボットのような、夢を掲げ、実現してくれそうな政治家の出現が、「人間の善意を生かせる社会」を作り上げるためには必要なのだ、ということを、ヤンキースタジアムが教えてくれたのだ。