「愛と心理療法」/M・スコット・ペック/87年、創元社

 「平気で嘘をつく人たち」が人間の「悪」に焦点をあてたものであるなら、本書は「愛」に関する洞察に満ちている。愛とは、自分自身わるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志。愛は意志であって感情ではない。恋とも違う。怠惰の反対語だ。本書は精神的成長(=愛)をテーマとする以上、進化の問題にも踏込む。宗教色が強まるが、突詰めていくとやむを得ないと思う。筆者は愛の源泉を神と想定する。恩寵、共時性といった超常現象との関連も説明しており、興味深い。意識の進化とは、無意識がすでに知っていることに気づいてゆく過程なのだろうか。哲学的・宗教的な興味深い問題である。二〇代の必読書と思う。米国で三百万部のベストセラーとなり、ニューヨークタイムズ紙でベストセラーリストに載り続けている事実は、現代社会に起りやすい精神の病に適格な答えを出している証拠と言えよう。キーワード:「愛」「自我境界」「カセクシス」「恩寵」「夢」「エントロピー」「怠惰」「ユング」「無意識」(98/9)

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「精神科医を訪れる人の多くは、いわゆる神経症か性格障害に悩まされている。簡単に言えば、この2つは責任感の障害であり、それ自体としては、外界や問題への関わり方が正反対のものである。つまり、神経症は責任をとりすぎ性格障害はとらなさすぎる。神経症の人は外界ともめると、自動的に自分が悪いと思う。性格障害の場合は、外界が間違っているとする。」

「時代遅れの現実認識にあくまで固執するこの過程が、多くの心の病の基礎である。精神科医はこれを転移と呼んでいる。転移の定義は精神科医の数とほとんど同じくらいある。私の定義はこうである。転移は、子供の時に身につけた外界に対する認識と反応の様式であり、通常、子供時代の状況には(しばしば生命を救うほど)最適であったものが、もはや適切とはいえないおとな時代にまで持越されたものである。」

「愛とは、自分自身わるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志である。…愛したいという欲求はそれだけでは愛でない、と私は考えている。愛とは、愛が行うところのものである。それは意志の行為ーーつまり、意図でも行為でもあるものである。」

「恋の体験がとりわけ性と結びついた、エロティックな経験だということである。どんなに子供を愛していても、自分の子供に恋をすることはない。どんなに好きであってもーー同性愛の傾向がない限りーー、同性の友人に恋をすることはない。」

「恋愛現象とそれがいつか終ることについて理解するには、精神科医が自我境界と呼ぶものの性質を調べることが必要である。間接的な証拠から明らかにされたところによると、新生児は生後1カ月の間、自分と自分以外のものとを識別しないらしい。新生児が手足を動かす時、世界も動くのである。自分が空腹であれば世界も空腹である。母親が動くのを見ると、自分も動いていると思う。母親が歌う時、自分が声を出していないとは赤ん坊にはわからない。自分自身とベッドや部屋、両親とを区別することができない。生物も無生物も同じである。我と汝の区別はまだない。自分と世界はひとつである。境界も分離もない。アイデンティティもない。…幼児が、自分の意志は自分のものでまわりの世界のものでないことを理解するに連れ、他の面でも自分と外界との区別をするようになる。一年目の終りまでに、これは自分の腕、自分の足、自分の頭、自分の舌、自分の目、あるいは自分の見方、自分の声、自分の考え、自分の腹痛、自分の感じということがわかるようになる。…自我境界の発達は、子供時代から青年期にかけて、さらにおとなになっても続く過程であるが、後に作られる境界は、身体的というよりは心的なものである。…恋に落ちる現象の本質は、個人の自我境界の一部が突然崩壊して、自分のアイデンティティが他者のそれと融け合うことである。突然自分が自分自身から解き放たれて愛する人を目がけて激しく流れ込み、自我境界が崩壊すると共に孤独が劇的に終りを告げる経験は、ほとんどの人にとって天にも昇るような気持である。自分と愛する人はひとつである!もう孤独ではない!いくつかの点で、恋愛は退行的な行為である。愛する人と解け合う体験は、幼児期に母親とひとつであった頃の思い出につながる。一体感と共に、子供から大人になる間に諦めねばならなかった全能感が再体験される。どんなことでもできるような気がする!…恋する者のこのような非現実的な感情は、おのれを無限の力をもつ家族の王、世界の王と感じている二歳児と本質的に変らない。二歳児の全能の幻想に現実が侵入してくるように、恋人同士の幻想的な一体感にも現実が入り込んでくる。遅かれ早かれ日常生活の諸問題に直面して、再び個人が自己主張するようになる。彼はセックスしたいのに、彼女はしたくない。彼女は映画に行きたいのに、彼は行きたくない。彼は貯金したいのに、彼女は皿洗い機が欲しい。…二人共、心の底では自分と愛する人がひとつでないことに気がついて、うんざりし始める。愛する人にも、自分とは異なるその人独自の欲求、好み、偏見、そしてタイミングのあることがわかってくる。ひとつずつ、次第にあるいは突然に、自我境界は元の場所に収まる。次第にあるいは突然に、恋からさめるのである。今一度彼らは二人の別々の個人になる。この時点で、彼らは関係を解消するか本当の作業を始めるかの、どちらかになる。」

「恋に落ちることは、自分の限界や境界を広げることにならない。それは、それらの部分的一時的な崩壊に過ぎない。おのれの限界を広げるには努力が要る。しかし、惚れこむのに努力はいらない。怠惰で自制心のない人が、精神的で献身的な人と同じように恋に落ちる。素晴しい恋愛の時が過ぎて境界が元通りになれば、人は幻滅する。しかし、その体験によって人間が大きくなることはまずない。限界が広がり伸びる場合は、元に戻ることがない。本当の愛とは絶えず自分が広がってゆく経験である。恋愛の場合はそうではない。恋は、意識的に自分の精神的成長を培うこととは無縁である。…恋とはわれわれの遺伝子が、冷静なわれわれの心を欺しこんで結婚に引きずり込む罠である。」

「ロマンティックな恋の神話ばかりは、とてつもない嘘である。多分それは、人をそそのかして結婚に誘いこむ恋愛体験を、表向き確かなもののように見せかけて種の存続を保証するのに必要な嘘かもしれない。しかし、精神科医として、その神話の生み出すいまわしい混乱や苦悩のため、毎日のように私は心の中で泣かされている。…治療を続ければ最後には、お互いが別々の存在であることを受入れることだけが成熟した結婚が根を下ろし本当の愛の育つ土台であることを、どの夫婦も学ぶようになる。…夫婦のグループセラピーに携って、私は次のような結論をもつようになった。健全で、個々のパートナーの精神的健康と成長を大きく損わないような成熟した結婚は、開かれた結婚だけである。」

「対象がまず自分にとって愛すべきものにならねばならない。言換えれば、自己の境界をこえて自分の外にある対象に引きつけられ、のめりこみ、関わりあう必要がある。この過程を精神科医は『カセクシス』と呼んでおり、対象に『カセクト』する、という言い方をする。しかし自分の外にある対象にカセクトする時、心理学的には、その対象の表すものを自分の内に取込んでいるのである。たとえば園芸を趣味にしている人を考えてみよう。それは満足な熱中できる趣味である。彼は園芸を『愛している』。その庭は彼にとって大きな意味をもつ。この人は自分の庭にカセクトしているのである。…庭を愛し庭にカセクトすることで、本当の意味で彼は、庭を自分の内に取入れている。それによって彼の自己は拡大し、自我境界が広がる。…こうして自我境界の一部が崩壊すると、『恋に落ちる』時と同じ種類の恍惚感を経験しはじめる。」

「どんなにカネや権力を愛しているか言ってみても、愛情深い人とは誰も思わない。なぜだろうか?彼らにとって、富や権力がそれ自身で目的となり、精神的な目標のための手段ではなくなっているからである。愛の本当の目的は、精神的成長あるいは人間的向上である。…権力とカネが、愛するという目的の手段になることがある。たとえばある人は、政治的権力を人類の進歩のために用いるのが主な目的で、あえて政治の仕事を選ぶかもしれない。あるいは、カネのためでなく、子供を大学にやったり、自身の精神的成長に必要な、考える自由と時間のために、金持になりたがる人もいる。そんな人たちが愛しているのは、権力やカネではない。人間性である。…我々が人間しか愛せないことは明らかである。というのは、普通に考えて、事実上成長可能な精神を持つのは人間だけだからである。…多くのアメリカ兵士が、言葉の通じないドイツ人、イタリア人、日本人の『戦争花嫁』とロマンティックな結婚をした。しかし花嫁に英語がわかるようになると、結婚は破綻し始めた。兵士達にもはや自分の考え、感情、願望や目標を妻に投影して、ペットに感じるような親近感をもつことができなくなった。妻の英語が上手になるにつれ、妻には自分と異なった考え、意見や目的があることに気づき始めたのである。」

「愛とは、自分あるいは他者の精神的成長のために、自分自身を伸そうとする意志である、と定義してきた。純粋な愛は、情動的というよりも意志的である。…大変心ひかれる女性に出会っても、そこで浮気することは結婚生活に破滅的な影響を及すので、次のようにひそかに考えることがある。『あなたを愛したい気持はあるのですが、そうするつもりはありません』。…愛を愛の感情と混同する傾向が広まっているので、さまざまな形の自己欺瞞がおこる。アルコール中毒の男性が、妻子が彼の配慮を何よりも必要としているその時に、酒場に腰掛けて涙を浮べ、バーテンに、『俺は心底家族を愛しているんだよ』と語りかけているかも知れない。子供をないがしろにしている人に限って、自分をとても愛情深い親と思っている。愛と愛の感情とを混同する傾向に、利己的な性質のあるのは明らかである。」

「成長することは愛することとどんな関係にあるのだろうか?まず第一に、今まで述べてきたもろもろの変化にしろ、それ以外の似たような変化にしろ、すべて自己愛の行為に他ならない。…次に、愛はそうした大きい変化を動機づけるだけでなく、それに伴う危険を引受ける勇気を支える。…最後に、完全な自分、心理的自立、ユニークな個人という未知の世界に飛躍して、初めてより高い精神的な成長へ進み、最も偉大な次元において愛を表現することが可能になる。」

「純粋の愛の最大の特徴は、自分と相手の区別がつねに保たれて失われないことである。純粋に愛する人は、相手が自分とは完全に分離したアイデンティティの持主であることを、常にみている。」

「子供の目に両親は神のような存在として映っており、何事であれ親のやり方が、あまねくこの世界で為されるべきやり方なのである。神の性質についてのわれわれの最初の考えは、両親またはそれに代る者の性格を混ぜ合せたものに過ぎない。親が愛情深く寛容であれば、神もそうだと信じやすい。…大抵の人は、自分の能力を下回る狭い準拠枠に基づいて生活して、特定の文化、特定の両親、特定の子供時代の経験が、自分の考えに及している影響を超えることができない。だから、人間の世界が葛藤に満ちているのは驚くに当らない。互いに折合って行かねばならない全人類が、現実について大変異なった見方を持っており、しかも、自分の見方こそ正しいと思いこんでいる。それはそれぞれが、個人的な小宇宙経験だけによっているからである。さらに具合の悪いことに、大抵の人はおのれの世界観を十分には意識していない。」

「まず両親の宗教に反発し、それを拒絶する必要がある。彼らの世界観は、われわれのそれよりも狭い。…神学者のアラン・ジョーンズが述べているように、である。『われわれの問題の1つは、ほとんどの人間が、明確な独自の生活を発達させていないことである。われわれの周囲にあるすべてのものが、感情さえも借物のように見える。何かするにしても、多くの場合、借物の情報に頼らねばならない。私は、医者、科学者、農夫の言うことを信頼して受入れる。不本意ではあるがそうせざるを得ない。彼らは私の知らない生命について、直接の知恵を持っているからである。…しかし、意味、目的、死が問題になると、借物の情報ではどうにもならない。借物の神に対する借物の信仰で生きていくことはできない。本当に生きるためには、自分の言葉、独自の対決がなくてはならない』」

「心理治療家が、一般に夢分析を仕事の重要な一部としているのは、夢が必ずといってよいほど役にたつからである。…私の経験では、解釈できる夢は必ず夢み手に有益な情報を与える。」

「カール・ユングが『共時性について』という論文で述べている、『カブト虫の夢』体験がある。ここでその全文を引用する。『…もう少し人間的な立場から、彼女の合理主義を和らげようと何度か試みて失敗した私は、予測しない非合理的なことが起って、彼女の閉じこもっている知的な殻が破れないかと望むしかなかった。ある日、窓を背にして彼女と向合って座り、その弁舌に耳を傾けていた。前の晩彼女は、誰かに黄金の甲虫ーー高価な宝石ーーをもらう、印象深い夢をみていた。彼女がまだこの夢の話をしている時、私は後ろで優しく窓を叩く音を聞いた。振返ると、かなり大きな昆虫が外から窓ガラスにぶつかって、明らかに暗い部屋に入り込もうとしていた。それが大変不思議だったので、私はすぐ窓をあけ虫が飛込んでくるのを宙で捕えた。それはコガネムシ科の甲虫、どこにでもいるハナムグリであったが、その緑がかった金色が金の甲虫と酷似していた。「これがあなたの甲虫でしょう」と私はそれを患者に手渡した。この経験が望み通り彼女の合理主義に穴をあけ、氷のような知的抵抗を崩した。そして治療は継続し、満足な結果を得ることができた』」

「今まで論じてきたいくつかの現象、たとえば夢から、恩寵が無意識の心にあることが示唆される。他の現象、たとえば共時性やセレンディピティなどは、この力は個人の境界を超えて存在することを示している。恩寵の存在を突止めるのが難しいのは、われわれが科学者だからだけではない。宗教家は、恩寵を神に帰しそれを文字通り神の愛と信じているが、時代を通して、恩寵の所在については同じ困難にぶつかっていた。神学の内には、これについて対立する二つの古い伝統がある。ひとつは外在論で、恩寵は外在する神から人間に注ぎ込まれるとする。もうひとつは内在論で、恩寵は人間の中心にある神から注ぎ出されるという。この問題はそもそも、ことの所在を明らかにしようとするわれわれの望みから発している。…前に指摘したように、ヒンズー教と仏教の思想家は、個々の実体の知覚を幻想あるいはマーヤと信じているし、相対性理論や波動粒子現象、電磁気学などを扱う現代の物理学者は、実体という概念的アプローチの限界に次第に気づき始めている。」

「身体的進化自体が奇跡といえる。熱力学第2法則によれば、エネルギーは、分化の程度の高い状態から低い状態へ向うのが自然である。エントロピーの力に逆行する点で、進化は自然の法則に逆らっている。…精神的成長の過程が、労多い困難な道であるのは、それが自然なエントロピーの力に逆らっているからである。その力は、現状を維持し古い行動パターンに固執し、容易な道を選ぼうとするわれわれの性向に現れている。そして身体的進化と同様、このエントロピーの力の克服されることこそ奇跡なのである。個人の内には成長の衝動があり、個人の進化は人類全体の進化につながっていく。…ではエントロピーの力に抗して、個人としてまた人類として、成長進化する方向へ我々を突上げる力とは、一体何なのか?それが愛である。すでに定義したように、愛、つまり自己を拡張し成長をめざす行為自体が、進化なのである。愛にはエントロピーに逆らう奇跡的な力がある。」

「恩寵と進化の奇跡を説明するのに、われわれの成長を願いわれわれを愛する神の存在を、私は想定している。それを単純で子供っぽい空想と笑う人も多いと思う。しかし他に何があるというのか?これにまさる仮説はないのである。…進化の源となる愛の能力が神によって『吹込まれた』とすれば、その目的は何なのか?進化の行着く所はどこで、神は人間に何を望んでいるのか?この問題をつきつめれば、最終的にはひとつの恐ろしい考えに行当る。神は人間が神のようになることを望んでいる、という考えである。」

「次に、何が精神的成長を妨げるかを考えてみよう。究極的にそれはひとつ、怠惰である。怠惰は愛の対極にあり、われわれの生に現れるエントロピーの力である。永年、私は原罪を無意味で不愉快な考えだと思ってきた。しかし、治療者として患者の成長を助けようと努めるうちに、最大の敵が常に怠惰であることに気づいた。そして自分の内にも、同じように責任や成熟を厭う性向を見出した。その時、蛇とリンゴの話が意味あるものになったのである。アダムとイブは、蛇の話だけを聞いて神の側からの話を聞かなかった。罪は、神と蛇の討論の場を設けなかったことにある。それは、人間の心の中で起る善と悪の対話を象徴している。…怠惰の主な形は恐れである。その多くは、現状を変えて今あるものを失うことへの恐れである。…人間の心には病的な部分と健康的な部分が共存している。変化を恐れ現状に留り退行へ向う傾向と、危険を冒しても成長しようとする傾向の、両方が必ずある。これを死の衝動と生の衝動と呼んでもよい。この点では人間はすべて平等である。程度の差こそあれ、誰の心にも神性へ向う進化の力と、エントロピーの力がせめぎあっている。」

「怠惰は悪の極端な形である。愛は悪のアンチテーゼである。怠惰は愛に非ざるものであるが、悪は愛に反する。」

「意識的(conscious)の語源はラテン語のコン(と共に)とスキーレ(知る)から来ている。それならば、意識するとは何と共に知ることなのであろうか?われわれが新しい事実に気づくのは、それが真実であると意識が認めることである。無意識はすでにそれを知っていた。だから意識するとは、無意識と共に知るといえるのではないか。意識の進化とは、したがって、無意識がすでに知っていることに気づいてゆく過程に他ならない。それは、無意識を意識化してゆく心理療法の過程と同じことなのである。では、なぜ無意識はすでに知っているのか、という疑問が生じる。これもまた、あまりに根本的な問題であるので、科学には答えられない。ここで再び、神を想定する以外にどんな仮説があるだろうか?無意識はわれわれの内なる神である。ユングは無意識を地下茎に例えている。地上の植物である意識は、そこから養分を得ている。彼は、神が無意識の内に在るとまでは言わなかったが、その著作は明らかにその方向を指している。ユングは無意識を、『個人的無意識』と『集合的無意識』に分けているが、私の考えでは『集合的無意識』こそ神である。『個人的無意識』は意識と『集合的無意識』の共有領域である。必然的にそこは、神と個人の意識のせめぎあう葛藤の多い領域となる。無意識は精神疾患の温床と誤解されることが多いが、実は意識こそその温床である。我々が病むのは、意識が無意識の知恵に抵抗するからで、無意識はむしろ病を癒そうとしている。」(→哲学家)

「おのれの行動の意味が本当にわかっていることほど、深い満足をもたらすものはない。精神的成長のこの段階にまで到達した人は、例外なく喜びに満ちた謙虚さを持つようになる。彼らは、その知恵が無意識という地下茎から来ており、それが人類全体、あらゆる生命、そして神につながっているのを自覚している。このような自己放棄には穏やかな恍惚感が伴う。」