「ぼくが読んだ面白い本 ダメな本」/立花隆/2001年4月、文芸春秋社
週刊文春に連載されている書評をまとめ、それに本の読み方と資料保存の考え方を加えたもの。書評はバラバラに読むよりまとめて見たほうが効率的なので、非常に役に立った。美術館を回るように、という本の読み方も参考になる。巻末の「捨てる!技術」批判は特に面白い。あの本を、ベストセラーだからと安易に買って10分で捨てたのを思い出すが、全く同感だった。特に以下の部分。「生きるということは、自分の価値体系を持つということであり、自分の聖域を作るということである。どれだけの聖域をどのように作り、それをどう守っていくかが、その人の生の最も本質的な部分をなしているはずである。聖域の持ち方において豊かな人が豊かな人生を生きているのであり、聖域の守り方において果敢な人が果敢な人生を生きているのである」。(2001/5)
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「イメージとしては、グレードの低い作品が沢山まじっている、作品の数だけはやたらに多い美術館に行ったときのことを考えてもらうといい。ハナから1つ1つの作品を何十分もかけてじっくり見ていくなどというのは愚かかつ時間のムダというものである(だいたい作品の数が本当に多い場合には、物理的に不可能である)。作品の数がある程度以上多かったら、どうしてもギャラリーからギャラリーへ、少し早足で壁面からちょっと離れて歩きながら、ちょっと気にかかる作品に出会ったときだけ、立ち止まって、作品に寄って近づき、少し時間をかけてじっくり見るという見方しかできない。しかし、この先どんなどんな作品がどれだけあるかわからないから、そこでもあまり時間を使わず、とにかく終わりまで、さっさと目を通していき、最後にもう一度全コースを逆に歩きながら、本当に心に残る作品だけを心ゆくまでじっくり見るというのが、正しい見方だろう。…読書もそれと同じなのである。」
「世界中にドラゴン伝説がある。竜退治の話がある。しかも豊富にある。そして不思議に、そのイメージは世界的に良く似ている。中生代の恐竜の姿に近いのだ。しかし、人間が登場するはるか以前に恐竜たちは死に絶えていたはずだから、そのイメージが記憶から出てきたとは考えられない。とすると、このイメージの共通性はどこからくるのか。いろんな説がある。恐竜の生き残り的な巨大爬虫類が、人類が登場したころにはまだあちこちにいたという説もある。それは、ユングのいう、人類が普遍的に持つ集合的無意識層の中に刻み込まれた原型的形象なのかもしれない。紀元前2千数百年前に、地球に接近した巨大彗星が、まるで口から火を吹く巨大動物が天空に横たわっているように見え、それを見た世界各地の人が伝説を作ったという説もある。」
「いちばん重宝した資料は、アリス・カラプリス編『アインシュタインは語る』(大月書店)である。…『名声を得るにつれて、ますます愚かになりました。まあ、ごくありふれた現象ですが』…『われわれ、という言葉に不安を感じる。だれも他の奴とは一体じゃないからだ。あらゆる合意の背景にはつねにある、ひとつ深淵が、目につかない深淵が』『おもに個人的な願望の実現に向けられた人生は、つねに遅かれ早かれにがにがしい失望に終わります』『(秘書にした相対性理論の説明)かわいい女の子といっしょに公園のベンチにすわっていると、1時間も1分間のように過ぎるが、熱いストーブの上にすわっていれば、1分間も1時間のように思える』」
「矢幡洋『ドクターキリコの贈り物』(河出書房新社)は、昨年、インターネットで自殺志願者に青酸カリを宅配便で販売し、それを買った女性が本当にそれを服用して自殺してしまったという事件の背景を描いている。女性が死んだことを知った、草壁竜次と名乗る送り手もまた青酸カリを飲んで死んだという奇怪な事件である。…草壁竜次は、以前自分自身がうつ病にかかって、毒物を服用して自殺未遂をはかったことがある。精神病院に入院していたこともある。しかし、青酸カリのカプセルを持って、インド旅行をするうちに人生観が変わり、自殺なんてくだらないと思うようになった。しかし、インターネットのページを見ていくうちに、自殺志願者がいろんな情報交換するページの中に誤った毒物の知識をもとにした発言が多いことに気が付いて、自分のもっている専門知識にもとづいて、助言しているうちに、ドクターキリコの診断室なるページを開かされる破目になる。…草壁竜次は自分自身、青酸カリを持ち歩くことで、『いつでも死ねるんだから、もう少し頑張ってみよう』と思って自殺願望からいやされた経験があることから、『飲んでもらうためではなく、生きてもらうために』青酸カリを送り、木島彩子はその目論見通り死なないですんだ人なのである。著者は臨床心理士で、精神病院に8年間勤めた。いまも診療内科でカウンセリングにたずさわっている人で、うつ病から自殺願望者になる人を沢山知っている。」
「『逆工場』(日刊工業新聞社)は、現代の産業人が等しく読むべき本といってよい。…富士写真フィルムの『写ルンです』の循環生産システムは、これを文字通り現実化したものである。」
「北村龍行『借金棒引きの経済学』(集英社新書)は、思い切り引いた視点から、現状況をあざやかに解剖してみせる。…眼のウロコが2枚も3枚も落ちる思いがする。…日本人論、日本社会論としても読める。」
「横山源之助といっても知らない人が多いかもしれないが、この人は明治時代の日本が生んだ最も驚くべきもの書きの1人である。毎日新聞記者からルポ作家となり、日本のルポルタージュの祖といわれる。…『日本之下層社会』はその代表作の1つで、明治時代の東京が、どれほど貧民細民であふれかえっていたかがつぶさにレポートされている。…紀田順一郎『東京の下層社会』(ちくま学芸文庫)がよくできている。横山のことを知りたければ、手っ取り早くはこれを見るとよい。」
「物理学では、過去に起きたことは一回ごとにご破算にされ、過去が未来にかかわらない過程をマルコフ過程といい、過去の履歴が未来にすべてかかわる過程を非マルコフ過程という。単純な物理現象はすべてマルコフ過程と考えてよいが、歴史のかかわる現象はすべて非マルコフ過程である。…人間の脳の働きも非マルコフ過程なのである。」
「誰だって自分の価値観に従って、自分の聖域を作り、そこに他人を立ち入らせないようにしているのである。生きるということは、自分の価値体系を持つということであり、自分の聖域を作るということである。どれだけの聖域をどのように作り、それをどう守っていくかが、その人の生の最も本質的な部分をなしているはずである。聖域の持ち方において豊かな人が豊かな人生を生きているのであり、聖域の守り方において果敢な人が果敢な人生を生きているのである。死ねばその人の聖域は滅び、みんなごみになる。それはその通りだが、だからといってそれがなぜ死ぬ前に聖域なんか全部捨てちまえということになるのか。」
「この人の結婚相手は、よほど心やさしい人だったのだろう。私なら、こんな風に人の聖域に踏み込んで、平気でそれを踏みにじるような無神経な女は絶対に許せない。3日目には離婚していたろう。この著者のご主人が、実は心の底ではそう思っているというようなことがないように祈るばかりである。」
「食料のストックは、いつでも食物になりうるという意味で、植物のポテンシャルである。食物はエネルギーのポテンシャルである。エネルギーは、熱、運動などのポテンシャルである。金銭はあらゆる消費行動のポテンシャルである。あらゆるストックは、将来それを行う行動のポテンシャルとしてある。要するに、ストックをためるということは、未来に現実化可能なポテンシャルをためるということである。ストックを捨てるということは、ポテンシャルを捨てることであり、未来の可能性をそれだけ捨てることである。」
「人間存在というのは、裸一貫肉体だけの存在としてあるのではない。頭の中の意識世界全部を含めて『その人自身』として存在している。そして、意識世界の相当部分はポテンシャルとしてある。それはその人の過去のありえた世界から、未来のありうる世界までそのすべてを包み込むものだから、意識世界のリアリティの部分よりはるかに大きい。その大きさは人によってちがうが、何千倍も何万倍も大きいだろう。…人間存在というのは、そのような時空と次元(リアルとポテンシャル)を超えた広がりとしてある。その意味で、そのようなモノもその人の一部なのだ。」