「ブルジョアが楽しむガストロノミー」     パリ(フランス)  2002. 10

 自分でも驚くほど、すばやく手が伸びた。
 黒人が私のバックパックを持ち去ろうとしているのを、咄嗟に察知したのだ。私は1時間ほど前まで楽しんでいたワインとビール、そして魚料理の満腹感から、空港に向かう電車の中で眠りかけていた。
 足もとに置いたバックパックは、手を離していたこともあり、無防備だった。それを、ドアが閉まる直前に奪い去り、気付いた時には後の祭り、という戦術に危うく引っ掛かるところだった。
 一瞬、0.5秒もないだろうが、その黒人と綱引き状態となり、私は勝った。9日間伸ばした右手中指のツメにヒビが入った。向こうは4人組のうちの1人で、閉まったドアの向こう側で悔しがりつつも笑いふざけていた。
 「どうしたんだ?今のは?」中年のス−ツ姿の男が近寄ってきて声をかけた。「危うく盗まれるところだった。パスポートも入っていたので、捕られたら帰れなくなるところだった」。彼は、グローサリーフェアで訪仏したというコスタリカ人ビジネスマンだという。「肩にきっちりかけていないとダメさ」。

 かつてド・ゴール大統領が腹立ち紛れに語った有名な言葉がある。「265種類ものチーズを生産している国を一体どうやって治めることができるというのだ」。ナショナルジオグラフィック社のガイドブックによれば、正式には400種類もあるそうだが、この言葉は2つの意味で、確かにフランスの本質を表していると思う。つまり「多彩な人種」と「多彩な食べ物」である。

  ◇  ◇  ◇
 フランス人といえば、日本では、 ジダン、トルシエ、ゴーン、シラク、K1のアビディあたりが有名だが、街中を歩いていると、5人に1人は黒人という印象を持つ。

 統計上、在留外国人は約400万人で人口の約6.6%にとどまるが、これは「フランスで生まれた子どもはフランス国籍が取得できる」という生地主義の原則に基づく国籍法があるためで、実際には移民の子供がフランス国籍を取得していくため、「大国フランスの不思議」(角川書店、山口昌子・産経新聞パリ支局長著)によれば、「フランス人の4人に1人は外国人が祖先」という。

 黒人とバスク人は一見して判別できるが、他は難しい。フランスはベトナム戦争後、旧宗主国の立場からベトナムやカンボジアなどインドシナ難民も積極的に受け入れ、アラブ系移民も、アルジェリア人、モロッコ人、チュニジア人が大量に入っている。アフリカのセネガル、マリ、モーリタリアなどからも移民が大量にやってきているそうだ。

 こうした生活習慣がまったく異なる移民たちは、主に郊外に住んでいるという。「郊外(バンリュ)」という言葉には、日本では高級住宅地のイメージが重なる場合が多いが、フランスでは移民の住む町、貧困地域のイメージなのだそうだ。私が被害に遭いかけたシャルル・ド・ゴール空港へ向かう途中のRER(フランス郊外鉄道)の駅も、ちょうど郊外にあたる場所である。

 そのためか、RERの駅は、落書きがひどい。パリから30分程度の郊外都市でも、駅名を消されているところがあるので、今どこにいるのか確かめられない駅もある。もちろん、「次は〜駅です」といったアナウンスもなければ、駅に駅員もいないから、なおさら不便だ。
 ポントワースから「ゴッホの家」(自殺した最期の地)があるパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワ-ズへ向かっていたとき、駅名が消されていたためにオーヴェルで降り損ね、次の駅まで行ってしまった。結局、戻るのに30分近くロスしてしまった。

 2000年6月に発表された国立統計経済研究所の調査によると、移民の4分の3が大都市郊外の人口10万程度の都市に暮らしているという。駅の荒廃ぶりにも納得である。

  ◇  ◇  ◇
 旅行中、食事が楽しみだった。肉でも魚でも野菜でも、何を食べても美味しかった。鶏肉など苦手なものだけ注文しないよう
にしてMENU(コース料理)を適当に選んで頼むのだが、何が来てもうまかった。

 野菜は、より自然に近いのか、アクが強く新鮮だった。仏の最大の産業は農業で、耕地と森林がそれぞれ国土の56%、25%を占め、 耕地の広さと農産物の生産高は、欧州連合の加盟国中トップ。牛乳は105%、ブタ肉は110%、家禽類は130%の自給率で、小麦の輸出は欧州1、世界では米国に次いで2位なのだという。

 欧米人は魚介類を生で食べない印象があったが、そうでもなかった。生ガキはポピュラーな前菜だし、ムール貝を使った料理も多い。だ円形の甲羅を持つカニは中身がつまっていて最高だった。私は海の幸が大好物なので満足した。身の詰った大きなカニが15ユーロというのは、日本では考えられない。

 多少、しつこさが気になるくらいだ。食後にチーズが3種類も出てくる。説明してくれるのだが、日本でも有名な「カマンベール」くらいしかわからない。チーズは、日本における漬け物やおしんこのようなもので、「あるのが当り前」らしい。チーズのあとに更にデザートが出てきたりと、日本の食事に比べると、くどい。おかげで口の周りに吹き出物が2つできた。食文化というのはつくづく不思議だ。カロリーが高過ぎて、体には悪そうなこのようなメニューが定着している。「日本茶が欲しい」といつも思う。

 客のレベルが高く競争が激しいため、まずいものを出していたら店がつぶれるのだろうか。マクドナルドはあったが、ファストフードは圧倒的に少ない。ファミレスのチェーン店もなかった。もしかしたら、チェーン店というのは食のレベルが低い国でしか成功しないのではないか、と思った。標準化された同じ味ばかりでは飽きてしまうし、店員などのプロフェッショナリズムはそもそも標準化できないものだろう。「違いがあることはすばらしい」という言葉がフランスにはあるそうだが、人と同じことをいくらやってもサービスにはならないし、店員のモチベーションにもつながらない。労働者の権利を重視するこの国には根付く要素がなさそうだ。

 ガイドブックによれば、フランス人は支出に占める飲食費の割合が一番高く、ガストロノミー(美食術)は、フランス人にとって単なる娯楽ではなく、おいしい食べ物と飲み物を楽しむことは、生きることそのものなのだそうだ。これは、すばらしい。うらやましい、と思った。「レストラン」はそもそもフランス語なのも納得である。

  ◇  ◇  ◇
 レストランで気付くことは、黒人をほとんど見かけないことだ。街中には5人に1人は黒人でも、レストランの中はほとんど白人。グルメな文化は、フランス人全体ではない。そのなかには異なる文化を持って移入してきた移民は入っていないようだ。ガストロノミーを磨くにはカネがかかる。生活に余裕がなければ難しい。

 この国は、あくまでフランス革命を興したブルジョア(中産階級)の国なのだろう。確かにフランス料理の文化はすばらしいと思うが、それは郊外に住む貧困層とは異なる文化であり、彼等の犠牲の上に成り立っているとも思えるのである。レストランの帰りに窃盗に遭いかけた体験が、私に身を持って教えてくれた。


全体のHomeへ 旅ページのHomeへ 国別のページへ