「文化と文明のトレードオフ…3」
<文化進化論> ホーチミン(ベトナム) '95 . 9
「観光地という外部性」で「市場経済は、往々にしてある一定のベクトルに忠実に動いていってしまう」と簡単に述べた。そのベクトルを示すものは、INVEST REVIEW 紙を見るまでもなく、町を歩けばわかる。
ベトナムでもカンボジアでも、ペプシやコーラはどこに行っても手にはいる。田舎に行っても必ず小さな売店においてある。そして、ベトナムの町中を埋め尽くすように走るホンダ(バイク)や、序々に増えつつある自動車。
カラオケは田舎町にまで浸透し、道行く人のファッションも欧米化を進める一方だ。町を歩けば、欧米のブティック顔負けの店が立ち並ぶ。西欧のものは否応なしに、どんどん入ってきている。外国資本の投入による社会の変化は、否応なしにベトナムの文化を変えていっている。
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それでは、果たして文化は進化するものなのか。
文化は一定の方向に向かって進化していく、というのが「文化進化論」。それに対し、文化に優劣はなく、一定の方向に進化するものではない、とするのが「文化相対主義」である。
私の立場は、@伝統的固有文化に優劣はないA文明は一定方向のベクトルを持ち、マーケットに馴染むものを好むB文化にはマーケットに馴染むものと馴染まないものとがある──従って、市場経済体制下では、マーケットに馴染む文化ばかりが幅を利かせるようになる。よって、私はどちらかというと文化進化論者だが、一般的に「進化」の意味に込められるような好ましいイメージは抱かないので、「文化一定方向変化論者」の方が正確である。
マーケットに馴染む文化、つまり需要が高い文化は、多くの場合、質が高く、合理的で、便利である。欧米は長い間、自由市場経済体制に漬かってきた結果、極度に文明化を進めている。従って、欧米文化を形成しているものは、マーケットに馴染むものが多く、文明化=欧米文化化を意味すると言っていい。
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日本で、市場原理に馴染む生きた伝統文化の代表格は、自宅に上がる時に玄関で靴を脱ぐ習慣だろう。これは、欧米文化の浸透が進む中で、見事に生き残っている質の高い日本文化である。実際、靴を履いたまま家に入るなど、非合理的だ。家の中が余計に汚れ、掃除が大変になるだけだ。
そして、浴槽でゆっくり風呂に漬かる文化。疲れを癒すために湯船にゆっくり漬かる行為は、科学的にも合理的であると思われる。欧米には大浴場はない。また、煎茶を飲む文化も、医学的に健康と深い関わりがあると言われる。合理的で、マーケットに馴染むものである。相撲や柔道も、商業ベースに乗っており、非常にマーケットに馴染んでいる。
しかし、東京を普通に歩いていて、マーケットに馴染まない日本古来の文化を見つけるのは難しい。確かに、日本古来の寺や神社がある。しかしこれは、死にかけた文化である。日々の生活に根付いたものこそ、本来的な意味での文化だ。保護の対象となった時点で、それは死に始めた文化である。過去の死滅した文化など、博物館や歴史の教科書でいくらでも見ることができる。特別に税制の優遇などで保護していなければ、日本中のいくつの寺社が残っているだろうか。
マーケットに馴染まない伝統文化は、当然のごとく廃れていく。相対的にシェアは低くなり、もはや生きた文化とは呼べなくなる。そして、保護を受けないと存続できないような「過去の文化」となってしまう。シェアを伸ばすのは、市場原理に馴染むもの、たとえば、日本で言えば、電車の中や空港でいい年をしたサラリーマンが漫画を読んでいる風景などだ。 乱立したビル群、車や電車、電化製品、などなど、文明化が進んだ東京では、日本固有の伝統的な文化を見つけるのは難しい。
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以上を踏まえ、ベトナムに話を戻そう。
コーラだって、バイクだって、欧米的なファッションだって、立派な文化である。漫画だって、映画だって、「おしん」だって、文化に違いない。
「文化は宿命である」これはシンガポールのリークアンユー上級相の言葉だ。もはや、ベトナムに、ジーパンがはやり、マイケルジャクソンの歌が流れ、マクドナルドやケンタッキーが開店するのは、時間の問題である。いわゆる途上国のリーダーによると、それが宿命らしい。
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文化相対主義者は、コーラなどが全世界に広まって行くのは、質が高いからではなく、先進国企業の巨大資本の力によるものではないか、と言う。資本の力による欧米文化の輸出は、半強制的であり、「文化帝国主義」だ、というのである。
私は、確かに一理あると思う。ベトナムで伝統的に飲まれている、さとうきびの絞りたてジュースは、質が悪いのか、という話だ。おいしいという意味では質的に優れているし、値段もコーラの半額以下と安い。そして、極めて健康的である。しかし、大量生産には馴染まない。フレッシュでなければならないし、材料もかさばる。一方で、缶コーラは非常に馴染む。大量生産しやすく、口当たりもよく、保存に便利だ。大量生産できると、スケールメリットが生まれ、さらにマーケットに馴染む。既に世界展開しているノウハウの蓄積もある。
本質的な質の高さと、マーケットに馴染むという質の高さは、完全に一致しないのだ。この点で、文化相対主義者たちの主張は十分、考慮すべきであると考える。
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しかし、多くの場合、やはり市場に馴染むものは質が高く、合理的で、普遍的な便利さを持っている。需要が高いために、長期的に見れば、やはり一定方向に変化していくだろう。だからこそ、おしんやドラえもんは世界中で高視聴率をとるし、コーラは世界中で飲まれる。しかし、その大きな流れの中で、文化相対主義的な考えを持つ人々が、有無を言えずに飲み込まれている現状は、どうかと思う。
現地人は、「否応なしに」「半強制的に」受け入れざるを得ないのではないか。現地の人たちが望んでいるから工場ができるのだろうか。望んでいない地域もあるだろうし、望んでいても、急速な変化を嫌っているかもしれない。しかし、現状では、全く現地生活者の意向は無視されているのではないか。ベトナムは、民主国家ではない。共産党支配の国だ。私には、どうしても、ベトナム政府という1党独裁政権が勝手に決めているように思えるのだ。
「宿命だから」などと言うのは、文化相対主義者の考えを覆うための、独裁者の都合の良い言い訳である。その国の先進国と言われる「文化帝国主義」者たちと、いわゆる発展途上国の強欲な独裁者が共謀し、世界から、マーケット原理というたった1つの価値観を押し付け、それにそぐわぬものを排除し、強引に文化の画一化が進められている風景が、そこに見える。日本政府は、国家の枠を超えた、現地の人々とのコミュニケーションの仕組みを提唱できないものか。
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何はともあれ、固有の伝統文化は、文明化(=市場に馴染む欧米文化のシェアの増大)とともにシェアを奪われ、マーケットに馴染むものを除き、自然と姿を消していく。従って、やはり、文化と文明は、トレードオフの関係にあるのである。