「文明の逆説」/立花隆/84年、講談社文庫

◇「あんな男に二年間もかかずらわって、いささか時間を損したのではないだろうか」と田中角栄研究について述べているほど、筆者は自分本来の仕事を「文明論」に求めている。確かに、こうした人間の本質を探るような議論は面白く役立つので、非常に興味深い。「女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである」「人間には、イメージできる量の限界がある」「人間というものは終生、自分の個性から逃れることはできない」「度をすぎた消毒は、例外なく、体制を守るつもりが体制をつぶし、悪を根絶するつもりが、悪をはびこらせる結果に終っている」「ほんとは、数学はすべての人間にとって最も役にたつ学問ではないか」「パーキンソンの法則」…。これらの指摘は、人類の永遠の課題として、もっと意識されるべきだろう。

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「人間の分け方にはいろいろとあるが、私がときどき試みる分類法のひとつは、その人がいつでも『ことあれかし』と願っている人か、それとも『ことなかれかし』と願っている人かを見ることである。私は前者の典型であるらしく、消防車やパトカーのサイレンを聞いただけで、たちまち興奮し、好奇心にかりたてられ、ことが起きてるのが近くであれば、走っていく衝動をおさえきれない。そんな性格だから、日々これ平穏無事といった日がつづくと、いらだちすら感じてくる。野球でも相撲でも、ひいきとは関係なく番狂わせがあったほうが嬉しいし、台風が来るなら超大型のほうがよい。」

「『ことあれかし』派の人間には2種類いる。『こと』が起ったときに行動者として参加する者と、野次馬として見物にまわる者である。私は『ことあれかし』派でも、後者の典型で、野次馬としてはかねがね一流の域に達しているとひそかに誇っている。」

「ニュース価値の尺度は、『犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかめばニュースになる』ということばに端的に示されるように、できごとの了解可能性と逆比例の関係にある。」

「動物と運動能力を比較してみると、人間はほぼ全面的に敗北である。…では、人間は運動能力では動物にシャッポを脱がざるをえないのか?ただ1つだけ、人間が決定的に優位を保てる能力がある。投げる、がそれだ。手があるのは人間だけだから、これは、当然ともいえる。投げるためには指を使う必要がある。5本の指をバラバラに動かせるのは人間とサルだけ。だからサルも投げられるが、技術において劣る。」

「恐ろしい世の中になったものだと思う。消毒の原語は、sterilizatihonで、sterileにするの意味だが、ステリルは、もともと不妊、不毛の意味である。ステリルな女は、石女。ステリルな土地は荒地。ステリルな年は凶作の年の意である。一口にいえば生命の果実をもたらさないとでもいえばよかろう。もともとすべてのステリルな状態は、生命体である人間にとって、災禍、不幸、忌避すべきものを意味していたのである。それが殺菌、消毒を意味するときだけは、なにか願わしいものと取られるようになっている。我々の生活のいたるところ、殺菌と消毒が氾濫している。あらゆる食器は殺菌され、電話器や電車の吊革は定期的に消毒されている。…すでに害虫撲滅の試みが、取返しのつかない愚行だったことは明らかになっている。バイ菌撲滅が愚行であることも、次第に明らかになっている。無菌動物の研究や、人間の腸内細菌の研究などから、人間には空気や水がかけがえのないものであるのと同様に、バイ菌もかけがえがない環境の一部であることがわかってきた。…敵もまた味方、毒もまた薬というのが我々の生きている世界で、ここでは敵を不毛にすることが、我々自身を不毛にする。…例えば子供の教科書。あるいは、俗悪雑誌を買わない、読まない、見せない運動。黒マジックで塗りつぶされている輸入ポルノ。映倫カット。精神病院の鉄格子。刑務所の高い塀。企業の新入社員に対する思想調査。売春防止法。青少年の補導…。…度が過ぎた消毒は悪い結果を招くだろう。度がすぎた消毒の例を、我々は歴史上いくらも知っている。ローマ時代のキリスト教徒虐殺。宗教改革時代、フランスで起きた聖バルテルミーの虐殺。スペインの大審問官を中心とした異端狩り。スターリンの大粛清。ナチスのユダヤ人抹殺計画。アメリカのマッカーシズム。…かなり馬鹿げた例では、アメリカの禁酒法というのもある。似たようなものに日本の生類哀れみの令。イギリスのホモ取締令。カトリックの離婚禁止令等々。度をすぎた消毒は、例外なく、体制を守るつもりが体制をつぶし、悪を根絶するつもりが、悪をはびこらせる結果に終っている。社会的にも消毒は不毛につらなるのだ。社会的な消毒をすすめていくと、いきつく先は、頭の中身の消毒である。その結果は、創造性の完全な不毛化である。」

「犯罪者が、自分の手口から逃れられないように、作家は自分の文体から逃れられない。画家は自分の画風から逃れられない。ピカソは頻繁に画風を変えた画家として知られるが、それでもピカソの画はどの時期のものをとってみても、どうしようもなくピカソ的である。よくも悪くも、人間というものは終生、自分の個性から逃れることはできないものらしい。犯罪者、芸術家に限らず、これはあらゆる人についていえることだろう。仕事のやり方から、酒の飲み方、女の口説き方にいたるまで、その人的でないやり方というのは、そうできるものではない。なぜ個性から逃れられないのかといえば、個性が成立しているのは潜在意識の領域で、かつ、人間の大部分が(精神的行為も含めて)、潜在意識から発しているという事実によるものだろう。ムカデに、なぜおまえはそんなにもたくさんの足を、そんなに上手にそろえて歩くことができるのかとたずねた。きかれたムカデは、なるほどそういわれてみればその通り、おれはどうしてこんな複雑なことをこんなに上手にできるのだろう。自分にもうまく説明がつかない。こんどは、ひとつちゃんと考え考え足を動かしてみよう、と思って、足一本一本の動きを意識しながら歩こうとしたら、たちまち足がもつれて、一歩も歩けなくなった。どこで読んだのか忘れたが、この話は人間のほとんどの行為(肉体的、知的)にもあてはまる。」

「人間というのは、本質的に難しい問題は、決して嫌いではない。むしろ好きだといったほうがよい。それは、本質的な難問ばかりを扱う哲学には、誰でも一度は心をひかれ、哲学書をひもといてみたり、友人と哲学的議論にふけってみたりした経験をもつことでもあきらかだろう。本質的難問は人の知的欲求に挑戦的に働きかける。それに反してテクニカルな難問は、人をウンザリさせるのが関の山である。私が数学を好きになったのは、学校数学によってではない。大学を出てしばらくしてから、必要あって、現代数学の入門書をひもといてからである。そのときはじめて、数学とはこんなおもしろいものかと知らされた。それは、学校数学しか知らない人には、数学という言葉からは、およそ想像もつかないような世界に導いてくれたのである。一般に、数学はエンジニアになるか、学者になるのでもなければ、実人生には全く役にたたない学問と思われている。しかし、そうさせているのは、今の学校数学のあり方で、ほんとは、数学はすべての人間にとって最も役にたつ学問ではないかと私は思っている。第一にそれは、問題の発見、問題設定、解決の予測、方法の発見・適用という、実人生のあらゆる局面で、すべての人が日々におこなわねばならぬことの、最もよき訓練となるからである。学校数学では、この前半の局面が欠如しているから、まるでこの意味の訓練にはならない。私は、世の中にまともな問題解決ができない人が多すぎるのは、ひそかに学校数学のあり方の責任が大きいと思っている。問題解決の一般的訓練を与えるべきこの学問で、テクニカルには専門的すぎて難し過ぎるのに、本質的にはやさしすぎる問題ばかり扱わせているからである。そして、問題解決の困難は、テクニカルな困難にあるものとばかり思わせているからである。人が現実にぶつかり、解決を迫られる問題は、一般にその逆なのに、である。」

「ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。だいたい女は男に比べて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372・9グラム、女1242・8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。…女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、『解放』されたいと願う女性がいないからだ。ウーマン・リブの指導者には悔しいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。」

「女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。」

「歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの正統派と同じくらいアナクロである。ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第2は、女性が生理的にも心理的にも、抱くことよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。心理的には、女性心理学者の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。」

「人間には、イメージできる量の限界がある。量が大きくなりすぎても小さくなりすぎても、人間は無感動になって、関心を失ってしまう。お金の面でこれを分析してみせたのがパーキンソンだ。『パーキンソンの法則』の1つに、『議題の一項目目の審議に要する時間は、その項目についての支出の学に反比例する』という法則がある。この法則の例として、パーキンソンは、イギリスの財務委員会の審議ぶりを皮肉たっぷりに描いている。それによると、1000万ポンドの原子炉建造計画の予算見積り審議にかかった時間は二分半。それに対して、事務職員の自動車置場を350ポンドで作るという案には、アルミの屋根をトタンにすれば300ポンドでできるという意見がでて、45分間の議論。共同福祉委員会の会合における茶菓子代、月に35シリングの予算要求に対しては、延々1時間15分も審議している。パーキンソンは、金額に関しては極大と極小の関心喪失点があるとしている。それがどの辺に置かれているは、個人差があろう。極小点んい関しては、パーキンソンは、その人が賭けごとで失ってもいい額、あるいは慈善団体に寄付してもよいと思っている額に等しいと述べている。極大点に関しては、パーキンソンは何も述べていない。私見だが、たぶんその人が1どきに費消した経験がある金額の10倍から20倍くらいが極大点になるのではあるまいか。関心喪失点とは、いいかえれば、その人が具体的にイメージできる限界ということである。」

「現代文明は、生産から破壊にいたるあらゆる分野で、人間の想像力を越えて巨大化してしまっている。…これまですでに、積上げられば富士山の何倍という富士山単位、あるいは容積では霞ヶ関ビル単位といったものがよく用いられている。しかし、まだまだ足りない。人間を数える単位が少ない。交通事故の死者を数えるには、年間の殺人事件の被害者総数を一単位とする年間殺人単位、あるいは、アウシュビッツのガス室の定員を一単位とするようなアウシュビッツ単位が事態の恐ろしさを知らせるのによい。食品添加物や、残留農薬の制限は、グラム数で示されても、何のことやらわからない。それで、何匹のマウスが死に至るかのマウス単位、あるいは、何匹のマウスにガンを起させるかというマウス・ガン単位が適当なのではなかろうか。…水銀含有量なら、水俣病単位とか、ネコが狂い出すネコオドリ単位がいい。自動車排気ガス中の四H鉛濃度を示すには、マウス発狂単位のようなものを使ったらどうだろう。量のイメージを回復しないかぎり、我々は誰でもルドルフ・ヘスのように、無感動に数百万人のユダヤ人虐殺を指令できるくらいの想像力の貧困さをもちあわせてしまうことになるのである。」