「エコロジー的思考のすすめ」/立花隆/90年、中央公論社(初版71年)

◆「エントロピー増大の法則」「リービッヒの最小法則」「遷移」など、エコロジー的思考が人間の実生活でいかに役立つのかを説く立花氏のデビュー作である。人間も生物である限り、エコロジー的思考は日常生活においても極めて有効だ。生物学者は知識はあっても、それを実社会に応用する力がない。つまり、単なるオタクである。しかし、ジャーナリストには、その知識を自身の正義感や価値観で加工、応用して、わかりやすい形で多くの人達に伝える能力が必要なのだ。1971年、30才の時に書いているのだから、立花氏のジャーナリストとしての才覚には脱帽するほかない。

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「俗にラーメンからミサイルまでと言われるほど、およそ値段のつくものは何でも商品として取り扱い、その取り扱い品目は1万を越える。…こういったコンビナートのオルガナイザーになることができるのは、商社の情報能力による。より正確に言えば、情報を生態学的に応用していることによるのである。」

「十返舎一九をあげたのはほかでもない。東海道中膝栗毛の中で、風が吹けば箱屋が儲かると考えた男の話を書いているからだ。弥次喜多が静岡県の蒲原の宿で同宿した六部の話だ。彼は若いとき江戸に住み、その時分、夏から秋にかけて強風が吹きまくった。そのとき、こう風が吹いては、砂ぼこりにやられて、盲人がたくさん出るに違いないと考えた。盲人のたつきの道として手っ取り早いのは三味線の流し。盲人が数多く出れば三味線屋が繁盛するだろう。三味線の胴は猫の皮。三味線がどんどん売れれば、それに従って猫の皮が必要になる。猫狩りが盛んになって、世間の猫は激減するに違いない。そうなると鼠の天下。鼠はどんな箱でもかじる。だから、どんな箱でも値上がりするに違いない。と考えて、重箱から櫛箱まで、ありとあらゆる箱を買い込んだというのである。結局、この目論見ははずれて、箱はさっぱり売れず、この男、それによって世の無常をさとり、巡礼になったというのだが、この考え方の構造は正しい。それこそ生態学的思考なのである。」

「従来の経済学では、人間は経済学的に合理的な行動をとるものであるということを暗黙のうちに前提してしまっているが、計量経済学ではもっと人間的に、控え目に考える。」

「閉鎖システムのサイクル性において、気をつけなければいけないことは、エネルギーだけは決してサイクルを描かないことである。エネルギーは熱力学の第一法則によって、エネルギーをそのまま100%仕事に転嫁することはできない。もしそれができるとすれば、ダムを利用して発電し、その電気で用水ポンプを動かして水を上に汲み上げその水でもう一度発電し、という具合に永久機関ができることになる。」

「エコシステムを構成する4つの基本的要素がある。@非生物的環境A生産者B消費者C還元者。非生物的環境というのは、水、空気、土壌などのあらゆる物質に太陽光線を加えたものをいう。生産者とは、無機物質から有機物質を生産するもので、植物がこれに当たるといってよい。消費者というのは、生産者が作った有機物を食べることによって消費するもの、つまり草食動物、さらに草食動物を食べる肉食動物がこれに当たる。還元者はバクテリアや菌類で、生産者や消費者の生命が失われた後にこれを分解して無機物質にかえす生物のことである。そこで、無機物質→(生産者)→有機物質→(消費者)→(還元者)→無機物質、というサイクルが成立する。このサイクルがエコシステムの骨格である。」

「自然の還元者の役割は驚くほど巧妙に、かつ精緻に作られている。自然の還元者は微生物と小動物である。ウイルス、バクテリア、カビ、アメーバのような原生動物、ダニ、ミミズなどがそれに当たる。人間はこれらの微生物たちについて驚くほど知識が乏しい。たとえば、われわれが知っているバクテリアは二五〇万種類を越えるが、これは全バクテリアの10%にも満たないものと推測される。なにしろ数が多い。そのへんの土をスプーンに一すくい、すくいあげてみるとその中には、数十億から数百億の微生物が生きているのである。」

「ところで、自然界にはエントロピー増大という大原則がある。エントロピーとは無秩序さを表す尺度である。これはどういうことかというと、自然は放っておけば、どんどん無秩序になっていくものだということを意味する。逆にいえばどんなものでも、より無秩序にするには何の苦労もいらないが秩序を保つためにはそれなりのエネルギーを必要とすることを意味する。たとえば水の場合をとりあげて見よう。水のいちばん秩序ある状態は氷である。氷はその秩序を保つためにエネルギーを投入して冷却しつづけないと、どんどん秩序を失って溶けて水になってしまう。水を放っておくと、さらに秩序を失い蒸発して水蒸気になる。氷は一カ所に固体としてとどまっているが、水になると器にでも入れておかない限りどんどん低い所へ流れて行こうとする。それが気体になると空間を無限に拡散していってしまう。エントロピー増大の法則は至るところに見いだせる。会社は経営者の経営努力が不足すればやがて倒産して、雲散霧消してしまう。国家も為政者の統治努力が不足すればアナーキーになる。男と女の仲もはじめは恋愛エネルギーを利用して結婚の方向にエントロピーを減少させるが、そのエネルギーが消失していくに従って倦怠期が訪れ、そのままエネルギーの減少が続けば離婚ということにもなりかねない。」

「地球の初期状態の大気は、炭酸ガスを主成分としていたといわれる。そこへ植物が生まれ、光合成をどんどん行うことによって、炭酸ガスを消費し、酸素を生産していった。もし、そのままの状態が続けば、炭酸ガスは消費しつくされていたはずである。それを救ったのが呼吸動物の出現だ。酸素を吸収して炭酸ガスを吐き出す動物の出現によって、炭酸ガス→酸素の一方通行が、炭酸ガス→酸素→炭酸ガスのサイクルになることができたのである。人間が石油、石炭を利用しはじめるまでは、このサイクルはバランスがとれた回転を続けていた。しかし、現在は植物が光合成に使用する炭酸ガスの量よりも、大気中に放出される炭酸ガスの量のほうがはるかに多い。炭酸ガス主成分の大気が、現在の酸素優勢の大気になることができたのは、太古代に光合成を行って酸素を放出したあと、分解して炭酸ガスに戻らずに炭素化合物のまま眠っていた植物群があったからである。それが石炭であり、石油なのだ。これを掘り起こして全部燃焼させれば、大気の状態が太古代の炭酸ガス優勢の状態に戻るであろうことは理の当然である。」

「自然のシステムには緩衝機構が働いている。炭酸ガスの場合には、それが2つある。1つは、大気中の炭酸ガスが増加すると、それだけ植物の光合成が刺激を受けて一層さかんになることである。光合成がさかんになれば、炭酸ガスが多く消費され、酸素が多く排出される。もう1つは、海が炭酸ガスを溶解することである。酸素は水に溶けにくいが、炭酸ガスは溶けやすい。どれだけ溶けるかは、圧力に比例する。大気中の炭酸ガスが増加することで、それだけ炭酸ガスの圧力も増加し、その分は海に溶けこんでいく。」

「植物の生育と養分の関係について、リービッヒの最小の法則というものがある。植物の生育には炭素、水素、酸素、窒素、イオウ、リン、カリウム、マグネシウム、カルシウム、鉄の10元素が不可欠であるといわれている。このうち特に不足しやすい窒素、リン、カリウムの三元素が肥料の三要素といわれている。リービッヒの最小法則は、これらの必須元素のうちでその場にある最も少ない量の必須元素がその植物の生育を左右するというものである。つまり、たとえばマグネシウムならマグネシウムの量が必要量以下だと、他の九種類の必須元素がどんなにたくさんあっても植物は成長できないということである。…オダムは、あらゆる生物群について、リービッヒの法則を拡大して当てはめることができるといっている。生物の生育には必要不可欠な条件がいくつかある。大きく分ければ、エネルギーの流れ、物質循環、温度のような環境条件、同種の生物との相互関係の4つがそれである。この条件のどれを欠いても生物は生きて行くことができない。むろん人間も例外ではない。リービッヒの最小法則は、生物に対してだけではなく、もっと広く応用して考えることができる。あらゆる現象において、その現象をもたらすべき不可欠の因子が複数個存在する場合、必ずリービッヒの法則が成り立つ。」

「人工システムは、自然のシステムに比べると、驚くほど単純である。単純であることをもってよしとする風潮が人間の間に見られるのは、人間の思考能力の限界の低さを示すものであって、別にそれが本質的によいからなのではない。もっとも、そう誤解している人が多いというのも不幸な事実である。ニューヨーク大停電はなぜ起こったか。配電のチャネルが単純過ぎたからである。少ないチャネルで、単純なシステムを作ることにも、それなりの利益がある。効率をあげやすいことである。…政治の面では、効率至上主義の単純システムへの指向が、中央集権的統治機構となってあらわれている。経済、社会のあらゆる面で、管理しやすい単純システムへの指向が見られる。それがすべて誤りだったというのではない。しかし、効率と管理のしやすさを得るために、システムの安定性が犠牲にされているのだということを忘れてはいけない。そして、安定性の犠牲にも限界があり、効率の追求もその限界内にとどめなければならない。政治の面でいえば、きわめて能率が悪い代わりに、絶対的に安定しているのは、アナーキーな社会である。アナーキーな社会では、政変の起こりようがない。その対極にあるのが独裁制である。独裁制は、単なる宮廷革命によってくつがえすことができる。チャネルが少ない単純システムは、それがうまく働いている場合はいいが、どこかに狂いが生じてくると、故障したチャネルの機能を他のチャネルがすぐに引き継いでくれないので、システム全体が破壊されてしまう。ファシズムは国家全体を狂気に巻き込み、全体主義という単純システムを作り上げる。そしてその全国家的単一システムが倒れる時には、社会全体がまきこまれて破滅の危機に瀕することになる。これに対して、チャネルが多いシステムでは、一本や二本のチャネルがおかしくなっても、システム全体はびくともしない。」

「生態学の主要な概念の1つに、遷移というものがある。…生物は、そのとき、そのところでの環境に最も適したものが栄える。しかし、ある生物が繁栄すると、その生物の繁栄それ自体が別の環境を作り出す。その環境は、その生物よりも別の生物にとっての繁栄の条件を作り出す。こうして遷移は次の段階への進み出す。…次代の優占種は必ず先代の優占種の内部あるいはその近縁のものから生まれてくる。だから、現代の最優占種たる人類と昆虫類から生まれてくる超人類、超昆虫類がそれになるに違いない。…遷移現象は、もっとミクロのレベルでもいろいろ発見することができる。たとえば、産業界における優占種の交替もそうだ。かつての繊維産業、つい最近までの自動車産業は優占種の典型である。…すべての産業活動は経済環境を変化させる。その環境変化に応じて、自己の体質を変革させていかない産業は、斜陽産業化していく。同じことが、もっと個人的なレベルにおいてもいうことができる。たとえば、今日もてはやされているコンピュータ技術者も、いつラジオの修理技術者程度の存在になるかしれたものではない。ジェットパイロットがタクシーの運転手視される日だって遠くはないだろう。生物社会における生物は、自己の形態や機能まで変化させて環境変化についていくのは難しい。だから、遷移の流れに流されていかねばならない。しかし、産業や人間は違う。たとえば帝人という会社がある。かつては旧社名、帝国人絹でもわかるように、人絹を作る会社だったが、戦後は合繊メーカーに脱皮することによって環境適応をなしとげた。それだけにとどまっていたら、再び斜陽産業化するところだが、ここ数年の間に、またも見事な変身をとげている。現在の帝人を1つの業種に分類することは難しい。」

「デッド・センターということばがある。植物の群落が大繁茂して過密状態になったとき、その群落は中心部だけが死滅して周辺部は生き残るという形で自己救済をはかるのである。文明の興亡史をながめてみると、同じ現象が起きているのがわかる。ローマ文明は、ヘレニズム文明の周辺部が生き残ったものであり、ヨーロッパ文明は、ローマ文明の周辺部であった。そして、現代のアメリカ文明は、ヨーロッパ文明の周辺部なのである。…日本史においても、平安、鎌倉、室町、江戸と、政治の中心はいつも、ときの中心部から周辺部への移行として現れている。明治維新においては、場所的な中心部の移動はなかったが、それは、新しく政権を握った薩長という周辺部が中心部へ移動してきたからである。この考え方からいって、21世紀は日本の世紀というハーマン・カーンの予言も故ないことではない。現代アメリカ文明の周辺部にあって、目下ベクトルがいちばん上向きなのは、日本だからだ。」

「害虫という言葉がある。人間に不快を及ぼす、人間の食物を食べてしまう。…自然にとっては、どちらも片寄った見方でしかない。人間と害虫との間の闘争は、自然を構成している無数の闘争の1つの形態に過ぎない。…しかし、その戦いが、相手の種族を全滅させるジェノサイドの段階まで押し進められるなら、これはもう自然に対する反逆である。害敵撲滅の思想は、生物界に持ち込まれたアウシュビッツの思想といってよい。その結果が何をもたらしたかは、食物連鎖の項ですでに述べた。中国のスズメ撲滅運動の結果が、害虫の大発生による大凶作であったように、ジェノサイドは取り返しのつかない惨禍をもたらす。」

「もし、絶対的に害のみをもたらし、悪のみを働くような存在があるなら、その存在を根絶やしにするのは正しい。しかし、善悪、害益が表裏一体になっている存在を抹殺してしまうのは正しくない。これは自然界に限らない。人間社会においても同じことである。禁酒法が、飲酒による弊害を防ごうとして、いかなる禍を社会にもたらしてしまったかは、1920年代のアメリカ社会が証明している。…人間社会に根絶やすべき悪や悪人がはたして存在するのかどうか、これは疑問である。いかなる悪行や、悪人も、マクロの視点からは弁証法的に是認できる存在になっているのではないだろうか。悪を禁じ、悪行者を制裁するまではよいとして、それがジェノサイドにまでいきついたら、人間の人間に対する越権行為になるのではないだろうか。」

「人類史において、社会全体が価値体系について完全なコンセンサスを成立させた実例はない。おそらくそれは求めるほうが無理というものなのではあるまいか。倫理を考え抜いたカントはが到達した結論は、倫理は形式においてしか成立しないといことだった。…どこの企業でも、嫌われ者の管理職者がいる。例外なく、自己の価値体系の相対性を学ぶことができなかった人物である。10人の人間を管理する人物は、少なくも10通りの価値体系を是認していなければならない。古来、大人物の特性の1つとして『清濁併せ呑む』ことがあげられている。いいかえれば、多様な価値体系を認めるということである。」

「人間を除けば、動物たちはそれぞれ特有の食物を食べ、かつ移動の自由を持っているから、競争をあまりしないで共存することができる。ところが植物となると話は別である。移動の自由を持たない。そしてどの植物も地中から養分を吸い上げ、太陽光線を受けて同化作用を営もうとする。そこで、植物界では最も厳しい競争が展開されていく。…企業内でのサラリーマン社会における競争は、基本的に、同じ場所で同じ養分を奪い合う植物的な競争である。…移動ができないうえに、企業内の日のあたる場所は有限ときているから、その競争は陰湿かつ苛烈なものになる。…そんな競争がいやなら、植物型サラリーマンから、動物型サラリーマンに変わることである。転職によって移動し、住み場所を変えるのが1つの方法。もう1つは、他の人が食べない食物を狙うことによって競争を回避する方法。つまり、スペシャリストが少ない分野でのスペシャリストになる方法である。」

「なぜ、小さなムダは見えても、大きなムダが見えなかったのか?それは合理性の追求が一面的だったからである。公害産業の場合には、経済主義的な合理性の追求がそれに当たる。しかし、より根源的には、現代文明の根幹にアルゴリズムがあるからではなかろうか?どうもわれわれは数えられる合理性しか知らないできたようだ。数量化できないものを恐れることと、数量化できないものに対処するチエを忘れていたようだ。」