「フォーカス スクープの裏側」/フォーカス編集部編/2001年、新潮社

 一時は200万部を超え、一時代を築いたFOCUSの記録本。企画から実行まで、超小型カメラの改良や金属探知機のレンタルまでやって約7ヶ月もシミュレーションを重ね成功させた「田中角栄法廷写真」。病院への潜入取材だけでなく、入院中の患者を窓際で撮るために外で花火を打ち上げ成功させた「鉄格子越しの日本航空・片桐機長」。警察より先に犯人に辿り付くほどの調査報道を実践した「桶川ストーカー事件」。官房長官・中川秀直のクビをとった写真とテープの公開。そして、少年法改正のきっかけにもなった「少年A」(14歳)の顔写真掲載。それぞれの写真と記事の裏側にあるエピソードは、趣向を凝らした豊かなクリエイティビティと取材力の強さを物語る。20年(1981年〜2001年)にわたり、権力監視という意味の本来のジャーナリズムを確かに実践した同誌の取材裏話は、情報共有されるべきだし、後世の貴重な記録だ。写真週刊誌というジャンルのパイオニアワーカーで、社会派路線も強かっただけに廃刊は惜しまれる。本書を通して感じたのは、タレ込まれる雑誌になることの重要性と、そのための企画力、現場での創造力の重要性だ。やはり「創業者」は偉いのだ。(2002年2月)
−−−−−
 FOCUSに福田文昭カメラマンの「法廷写真」が掲載されたのは82年4月9日号だった。実際の発売は4月2日。ロッキード事件の被告として、東京地裁で裁かれていた田中角栄被告を、初めて法廷の中で撮影したものだった。創刊から半年がたっていたが、本誌はいまだ部数で苦戦しており、取材先でも記者が「FOCUS?聞いたことないな」などといわれることも珍しくなかった。その知名度を一挙に上げて、FOCUSの名前を日本中に知らしめたのが、この「法廷写真」である。掲載号が発売される当日には新聞、テレビがこぞって「法廷内の隠し撮り」を報じていた。その論調は、裁判所の許可なく撮影されたことを咎めだてしていたけれど、読者の反応は必ずしもそうではなかった。権威や権力に挑戦するそのこころざしやよし、と多くの読者が味方になってくれていたのだ。創刊から半年、「報道の自由」などの論議を巻き起こしたこの号をきっかけとして、本誌の部数は急カーブで上昇し始める。もっとも、「田中角栄」の法廷写真を撮ろうというのは、前年の10月の創刊に向けての企画だった。

 そこでH記者は患者を装って病院に入り、情報収集を始めた。警察病院というと、内部に警察官が溢れ返っているようなイメージがあって、他のマスコミも遠巻きに見ている状況だった。それが狙い目である。まずH記者は患者たちがたむろしているサロンで数時間過ごした。……ある鉄道会社の労使問題に絡んでは、鉄道会社の制服を調達してきて、カメラマンに着せて潜入をさせた、なんてこともあった。そのH記者が、この時考えた撮影のための秘密兵器は、「花火」。「花火と爆竹を外でババババッとやれば、みんな何かと思って窓を開けるに違いない。片桐だって開けるだろう」と考えたのだ。昼間の下見段階でH記者が発案したこのアイデアは、即日、決行される。

 「おそらく、出版社で業務用無線の免許を持っている会社なんて、他にはないでしょう。創刊直後は、簡易無線機を使っていたんだけど、出力が小さく、混戦も多くて、正式な業務用の無線機が欲しかった。資格をとるために、電機や電波なんてちんぷんかんぷんの記者やカメラマン20人が、4日間の講習と試験を受けて…。準備で2年。…」…「何いってんだ。災害現場に行くと、携帯電話も通常電話も中継基地が麻痺しているし、山の中では電話そのものがないんだから、無線は編集部員の命を何度救ったことか。御巣鷹山もそうだし、神戸の震災の時も…」

 独自に掴んだネタを独自の取材で真相を明らかにし、社会に問うのが、いわゆる「調査報道」である。その意味ではFOCUSが、創刊6年目、いまから15年前に記事にした神谷力被告のトリカブト殺人疑惑は、典型的な「調査報道」といえる。発端は、編集部にかかってきた一本のタレ込み電話である。

 田島は、「俺は載せるべきだと思う。この事件は少年法の範疇を著しく超えている」などと自分の意見を言った。電話を切った後、田島は思った。FOCUSとして、この事件に対する答えやスタンスを打ち出さなければならない。写真を掲載することで、今の少年法が時代といかに乖離しているかということを主張したい、と。……本誌の販売を自粛した書店が多数、出る事態となった。「雑誌が何かを主張する時、これを売らない、ということは言論統制だ」と田島は憤った。7月4日には、法務省から「雑誌を回収せよ」などという、報道機関に対して初の回収要請まで盛られた強い勧告が出された。が、当然ながら本誌は「写真掲載は間違っていない」と、これを拒絶した。…これまで16歳以上だった刑事罰の対象が14歳以上に引き下げられるなど厳罰化の条項が盛り込まれた改正少年法が今年4月から施行された。少年Aの顔写真掲載−−具体的な形で本誌が投じた一石が、法改正などその後の少年事件を取り巻く社会を変革させるための、大きな一歩となったことだけは、まぎれもない事実なのである。

 今回もAさんには、あえて複数の人物の中から抽出してもらうことにした。「この男ですか」と一枚だけ渡せばどうしても先入観が働くからだ。多数の写真にそれぞれ番号を振り、封筒にしまう。…一方、本誌に先を越されてしまった埼玉県警の捜査は、遅々として進まなかった。業を煮やした清水が久保田の情報を提供し続けたというのに、全く腰が重い。そもそも、本誌が記者クラブ非加盟だからという理由で取材にすら応じなかったのだ。結局、久保田ら実行犯4人が逮捕されたのは12月19日。カメラマンがその姿を捉えてから、実に2週間が経とうとしていた。そして肝心の「主犯」小松は行方不明のまま。それでも、事件前に詩織さんに告訴を取り下げるよう要請していた埼玉県警は、事件の発端となった男を真剣に追おうとはしなかった。不祥事発覚を恐れていたのは言うまでもない。年が明けて2000年1月27日、遅ればせながら名誉毀損容疑で指名手配となっていた小松は、北海道・屈斜路湖畔で溺死体となって見つかった。同年5月18日、国会ではストーカー行為規制法が成立。