「不安の世紀から」/辺見庸/97年1月、角川書店

◆学生時代にETV特集で放送されたものが活字になった。私はたまたま見ていて非常に心に残るものがあり、本になって嬉しい。テレビと活字文化のこういった利用法ももっと考えられて良いと思う。

 原理主義とプロテアニズム(変幻主義)が対立する世紀末。米国の歴史心理学者、ロバート・リフトン教授は、プロテアニズムを引き出し、見極め、育てていくことが、人間の「種」としての自覚を生みだせる、と述べる。リフトンは、「チェコスロバキアのハベルさんのように反体制運動のリーダーが刑務所から解放され、新しい民主的共和国の大統領になったときの喜び」「アフリカの赤ん坊が餓死していくのを見たときの心の痛み」などをあげ「種としての自覚」を説明するが、これは、まさにユングのいう「集合的無意識」に通じるものだ。

 辺見は、オウム事件や核産業に従事する者たちを例に、「悪意なき犯罪の増加」「全体像を考える想像力が欠けていること」を懸念する。私も、社会部記者の多くがその一員だと思う。これは、本多が「西武資本のコクドが森林開発で環境破壊をしている以上、プロ野球の西武ライオンズを応援することは犯罪だ」「ジョン=レノンが ベトナム戦争へのイギリスの対米支持などを理由に勲章を女王に送り返したことを評価する」などと述べる考え方に共通している。私も21世紀は「個々人の想像力が問われる時代」と見ている。

 辺見は現在のマスコミを「メディア・ファシズム」と命名。湾岸戦争報道などを例に、レジス・ドゥブレの「テレビは分析的思考を無力化し想像力を奪う」「イメージが論理を駆逐している」といったジャーナリズム論に同意し、危機感を訴えるが、具体的改善策となると、知識人の奮起に期待し、もっと皆が実世界に身体的にコミットせよ、と主張するにとどまる。

 辺見は、「30の地域紛争は、実際にはメディアによって伝えられておらず、停戦や平和のためにコミットする外部の知識人が驚くほど少ない。1人のヘミングウエイもいない、1人のジョージ・オーウエルもいない」と述べ知識人の勇気のなさを嘆くが、本多も同様に「知識人の資格の重要なひとつは勇気だ」と常々述べ自ら実行しており、どうもこの2人は新聞・通信社出身のなかでは、最も「真理の追及」という点で尊敬に値すると私は見ている。

-----

「ギリシア神話の海の神であるプロテウスは自在に姿を変えることができたと言われています。プロテアンとは、多様で融通性のある人々のことを意味する言葉なのです。日本人だけではありません。われわれアメリカ人は本当の意味で拠り所となる伝統文化を持っていなかったので、日本人より古くからプロテアン的だったといえるでしょう。」(リフトン)「いま世界中で私のいうプロテアニズムと原理主義の争いが起こっていると思います。原理主義には政治的なものや宗教的なものもあります。」(リフトン) 

「これは私の個人的なテーマでもあるのですけれども、社会が悪くなるというのは必ずしも悪意の人間たちがたくさん増えていることを意味しないと思うのです。」「巨大メディアには私は決して個人的恣意や人格というものがないと思うのです。1人ひとりが全体のパート、パートにかかわっているだけです。彼ら、彼女たちは、私が地下鉄サリンの現場で目撃した職場に遅れまいとする通勤者たちのように、みながきまじめなのです。みなが誠実であるわけです。総じてその職務を裏切ることはないと思うのです。それでも、メディアはオウム報道やシンプソン裁判のように社会的ヒステリアをつくり、メディア・ファシズムも形成するのだと思うのです。これはたとえば核兵器の問題になぞらえてもいいと思うのです。核兵器は巨大な1つの産業にもなっていたわけですが、十数万もの人たちがそれぞれのパートでみな勤勉でまじめに仕事に励んでいる。よき生活人でもある。敬虔なクリスチャンかもしれない。しかも皮肉にもその人たちのなかにはエコロジストもいたりしてバードウォッチングをしたりもする。奇妙なことに、現代では兵器生産に携わることとエコロジストでもあることが矛盾として感じられないのですね。その人たちは善意に満ち溢れているかもしれないのですが、仕事のパートのなかで全体像を見ることができない。どういう精神を生産しているか、どういう物質を生産しているのか、全体像を見ないで仕事を誠実に果たし、結果的に核兵器ができていく。これは本質的には犯罪だと私は思うのです。悪意なき犯罪ですね。で、犯罪として意識されない犯罪、これはやはり私はオウム真理教のなかにもあったのではないかと想像するのです。個々のパートのーー果たしてなにをつくるのか、なにを運んでいるのかわからないーー勤勉な仕事のプロセスの最後のほうにサリンというものがあったりする。全体を計画した幹部は別にして、一般信者には組織への誠実さはあっても、全体像を考える想像力が欠けていたし、そうした想像力が奪われていたのだと思います。」 

「私は四半世紀以上マスメディアの世界で働いておりますけれども、これほど1人ひとりの記者たちが言挙げをしない、少数意見を申し述べないーーこれはこういう記事ではいけないということを個人として意見表明しないーーという時代はないと思っているのですね。これは窒息的なのであり、プロテアン的ではありません。われわれ日本人は勤勉で協調性を持ち合わせていますが、仕事に『人間本来の生き甲斐』というものを本当に感じているかといえば、私はかなり否定的に見ております。」 

「おそらく、21世紀というのは、その初頭というのは、非常に混乱した世界をわれわれは見ることになるかもしれません。それでも資本の論理を超える公正さであるとか、あるいは真実を見つめる目でありますとか、そういういわば理念的なものを、資本の論理、法則の上位に立たせるきっかけをわれわれは探さなければならないと思うのです。」

「このマスメディアの革命の時代に、もし人間の柔軟性や人間が持つ本来の能力が十分に発揮されればーーこれは予言というより私の希望なのですがーーわれわれ人間は人類の一員であるという『種』としての自覚を生みだすことができるだろうと思っているのです。アフリカの赤ん坊が餓死していくのを見たときには心が痛みました。またチェコスロバキアのハベルさんのように反体制運動のリーダーが刑務所から解放され、新しい民主的共和国の大統領になったときには喜びを感じました。こうした人種を超えた感情は人間の柔軟性の表われだと思います。われわれは真理について、政治的なことであろうと、また倫理的なことであろうと、どんな分野であろうとも、単純に楽観的になるだけではなく、できるだけ人間の柔軟性を引き出し、見極めて、育てていくことが必要ではないかと思います。」(リフトン)

「象徴的なことをお話ししたいと思います。たとえば、1945年にB29爆撃機『エノラ・ゲイ』に搭乗し、広島に原爆を投下しに行ったパイロットの立場にわれわれみなが一度立ってみようということです。それは想像力の問題だと思うのです。ボタン1つで地上がどのようになるのか。ポール・ティベッツ機長は結局、命令に従って広島上空に行き、指示どおりボタンを押し、その結果十数万人が死んだのですが、われわれなら、原爆を投下せずに、国家的大義名文に逆らい、しかも命令に反し、引き返せるかどうかーー自分に引きつけて考えてみるのは大事なことです。これはわれわれがそれ以降もベトナム戦争で問われ、あるいは湾岸戦争で問われてきた問題だとも思うのです。私はこれは想像力の深さ、広さ、そして人としての真の勇気にかかっているのではないかと思うのです。それは理屈だけでは済まないような気がするのです。そこでどんな残虐な殺りくが行われているのか、それをわれわれはメディアの発達に伴って単に数量化して、無感動に考えてきたような気がするのです。あるいはテレビゲーム的な感覚で湾岸戦争を見たと思うわけなのです。」 

「もしわれわれがエノラ・ゲイやベトナム戦争のときのパイロットだったとしたらどう行動すべきでしょうか。これは非常に大切なことです。個人の責務と人類の一員としての意識を持つ『種の精神』がせめぎあうことになると思います。・・・このように大量に人の命を奪ってしまうような行為に関しては個人の責任というものだけでなく『種の精神』に照らし合わせてみるという心理学的なアプローチが必要だと思います。」

「このプロテアニズムに敵対する考え方として、リフトンさんは、硬直した原理主義を挙げました。社会主義もこの原理主義の一種として位置付けられていますが、リフトンさんは、特に冷戦後における世紀末現在の原理主義を『完璧な調和を持った過去ーー本当は存在しない、理想的な過去の幻影ーーに基づく、唯一の絶対的な真理を信奉すること』と定義して、政治的、宗教的、民族的なるものと結合してこの硬直化した考え方が発展すると指摘しています。たとえば、1995年11月に起きたイスラエルのラビン首相暗殺は、原理主義が引き起こした典型的事件でしょう。犯行に及んだ狂信的ユダヤ教右派の過激派は、旧約聖書の記述を根拠に、『神がユダヤ人にあたえたもうた土地』としてヨルダン川西岸に固執し、同地区の自治拡大方針を取った、いわばプロテアンな発想のラビン氏に強く反発して、その命を奪ったのです。」 

「いま、20世紀末の現在、世界中にはなんと50以上の地域紛争があるといわれています。そのうち、およそ30の地域紛争は、実際にはメディアによって伝えられてはいません。・・・にもかかわらず、停戦や平和のためにコミットする外部の知識人が驚くほど少ない。オーバーにいえば、あなたやスーザン・ソンタグを除けば、1人のヘミングウエイもいない、1人のジョージ・オーウエルもいないという状況が、いまはあるではないかと思うのです。」 

「死というもの、大量の死というものに対する考え方、これを非常に無機質なものに扱うようになってきたという面もあると私は思うのです。死を視界から隠し、言語活動から遠ざける傾向ですね。」