「文化と文明のトレードオフ…4」

<古き良き風景>              ハノイ(ベトナム)   '95 . 9

◇ハノイとホーチミン

 私は、ホーチミンよりハノイに大いなる好感を持った。ここには、伝統的な町の風景が残っている。旧市街地は、道が複雑に入り組み、靴通りでは靴だけ、おもちゃ通りではおもちゃだけ、というように特定品を扱う専門店が問屋街のように続く。道端では女性が果物や野菜をかつぎ、売り歩く。子供が集まり遊んでいる傍を、シクロ(人力車)がゆっくりと通りすぎる。とても健全で、無理を感じない。道を歩くだけで楽しいものだ。

 目につく娯楽といえば、カフェ・カラオケ、レンタルビデオ屋くらい。これらはどの通りに行っても必ず1軒はあるくらい普及している。勿論、日本のそれとは違い、レンタルビデオといっても棚に裸のビデオカセットが山積みされているだけ。

地方に行っても同様で、カラオケとレンタルビデオはベトナム市民の2大娯楽となっているように思う。

 慣れない道を歩いていると、すぐに迷う。同じような景色がずっと続き、目印になる巨大な建物もない。喉が乾くが、冷えたジュースはなかなか見つからない。冷蔵庫はまだ普及しておらず、氷があれば良いが、それさえない場合がある。世界一の自販機大国・日本とは勝手が違うが、自然で気持ち良い。

 バイクが圧倒的な主流だが、シクロはいい。音も光も出さない昔ながらの人力三輪車だ。そのゆっくりと目前を通過していく様に、風情を感じる。値段も交渉次第というところがいい。メーター通りでは情緒がない。

 一方で、商都・ホーチミンは、150年ほど前に、フランスが造った街。欧米化が進み、よって文明化が進み、都市の金太郎飴化が進むのだろう。無機質度が高まり、ニューヨークの街並みを思い出すことさえある。

 1千年以上の歴史を持つハノイは、どちらかというと日本の下町の風景に近いものがある。雑多ではあるが、開放的で明るい。ハノイには、アジア版"GOOD OLD DAYS"とでもいうべきものが、確かに残っている。

◇女性と市場経済

 ハノイを歩いていて特に感じるのは、女性の強さと子供の元気な姿である。しかし、市場経済の導入は、その地位を低いものにしつつある。

 VIETNAM INVESTMENT REVIEW 紙の記事を紹介しよう。「WOMEN SEE LITTLE BENEFIT FROM CHANGE」と題するこの記事によると、「ベトナムでは、数十年に渡るベトナム戦争の遺産で女性が家族を統率しているのが一般的だ。彼女らを、ベトナムのフレーズでは『DOMESTIC GENERALS』という。多くの社会主義国がそうであるように、女性は経済のほとんど全ての部門で働いている。しかし、労働市場での激化する競争が女性を不利にし、女性はドイモイからほとんど利益を得ていない」「女性はレストランやカラオケバーのホステスくらいしか仕事がない」のだ。

 家族経営の商店では、女性は強い。道を歩いても、女性が店先にたち、店を守っている印象を受ける。これは何もベトナム戦争があったからだけでなく、どこの国でも同じだろう。規模の小さい商店街の自営業においては、女性は強い。

 女性は家族のために働き、男性は社会のために働くという姿は聖書にも理想的な男女の姿として描かれている、と牧師さんから聞いたことがある。家族経営であるが由に、女性が強くなるのは当然だろう。

 しかし、労働市場に投入されると、その利点は失われる。同じ記事の、「ハノイの女性のための研究機関」のディレクターの話が印象的である。

"Women and men have different starting point in a market economy so it is unfair if we treat men and women the same. "

 女性もまた、マーケットメカニズムになじまないのだ。その結果どうなるのかといえば、

"Strains brought on by economic reforms have also been refrected in a soaring divorce rate that now exceeds 10 % , and a rise in prostitution and other social problems."

というわけだ。マーケットメカニズムは、伝統的な家族の形態をも崩壊させていくのである。

 女性は、体格的な違いの他に、男性とは脳の構造が違う。右脳と左脳を結ぶ脳梁が男性より太く「ひらめき」の力が優れているという。従って、自由業、家庭の仕事に向いており、企業社会には向いていない。しかし、何の規制もなく労働市場に投入されつつあるのが、現状である。

◇子供のいる風景

 今回の旅で最も印象的だったのは、子供の笑顔である。"no money, no money!" (お金はいらないよ!)などと言って果物の実をくれたりする子供の笑顔には、どんな疲れも癒す力がある。

 ベトナムでもカンボジアでも、子供の元気な姿がやたらと目につく。夜になると店の前に子供達が沢山出てきて、隣近所の子供達が集まってガヤガヤ楽しそうに遊んでいる。

 無邪気で人なつこい子供達は、いつも親が働く傍で遊んでいる。フェリーの中でも、公園でも、アンコール遺跡の中でも、ゲストハウスのロビーでも、場所を選ばない。

 

 日常生活に子供が沢山いる、という環境はとても不慣れであるが、いいものだ。日本においても、子供の数が多いほど母親の幸せ度は高まる、という世論調査結果があるが、「子宝」とはよく言ったものだ。子供達の笑顔や元気な姿には、人間の心に活力を与える。この子たちのために一生懸命働かなければ、平和を保たねば、と思う。

 医療が発達し、経済が発達し、人件費が高まり、多産多死から少産少死になり、子供の数が減る。これは、人類にとり、果たして本質的に幸せなことなのかどうか。自然の摂理に反しているように思えてならない。医者の存在意義さえ、考えさせられる。

◇人類の自然な形態

 所謂途上国という所を旅し、数多くの人々、その多くは比較的貧しい人達なのだが、彼等と接し、表情を見、会話を交すことにより、人間の生きる力の強さを感じざるを得なかった。それは物質的に豊かな国が失った人間の活力であり、極めて原始的、根本的なものだった。

 理性的というより感性的であり、老人的というより若人的であり、機械的より人間的、都会的より野性的で、人為的より自然的なのである。

 ベトナム、カンボジアとも、比較的近い過去に悲劇を背負った国であるが、世代交代の波は高く、若い世代に大きな影は感じられない。

 こういった所謂途上国の風景は、なによりも自然な形態だと思う。しかし、折角の古き良き風景も、例えば家族経営の商店街が、外国の巨大資本のスケールメリットに負け、大型店に吸収されていくのか、と思うともの悲しい。

 労働市場で弱い女性は、大工場で一日中、非人間的な単純作業をしないと生活できなくなる。そしてそれは、先進国では人件費が高くてできないような仕事、例えば、先進国の飼い猫が食べる缶詰に入れられる魚の骨抜き作業だったりする。合理的な流通機構とマニュアル管理が徹底したチェーン店のレストランが、自由市場では屋台を駆逐していく。

 女性が自由市場に馴染まない、伝統的な商品も馴染まない、子供が傍にいられるような商店街の風景も馴染まない。人類の自然な形態は、自由市場に馴染まないのだ。

 マーケットメカニズムには、人々の生活からより人間的なものを奪うという、最低の機能もあることを強調したい。それを補う意味においては、社会主義国の存在意義は十分にあったと言えよう。