「観光地という外部性」        シェムリアプ(カンボジア)'95 . 9

 さすがにアンコールワットともなると、観光客目当ての商売人が目につく。近頃は日本人の団体ツアーが活発に企画されているせいか、日本語も覚え出した。

「お兄さん、ワンダラー、安いよ」などと売りつけにくる。勝手にガイドしておいて、ジュースを売ろうとする子供もいる。できる子は、英語も日本語もかなりしゃべる。10年後はどうなっているのだろう。

 『ここ2、3年の内に、随分変わってしまうんだろうな』というのが我々バックパッカーの一致した意見で、今この国にいる自分の運に感謝した。

 実際、シェム・リアプという町は、アンコール遺跡に最も近い町であるが、全く観光地の表情を見せない。現地で知り合ったバックパッカー歴の長い旅人も、「こんなに偉大な遺跡のある町でこんなに観光地らしくない町は初めて見た」という。

 「ゲストハウス260」に泊まった。単に民家を改造しただけで、260というのは要するに住所だ。派手な看板があるわけでもなく、外から見ても普通の家にしか見えない。                 

 しかし、バックパッカーの情報網で知れ渡り、大盛況だ。一泊3ドルなのだが、高級官僚の1カ月の収入が7ドルだという話を聞き、とにかく儲かっていることには疑いがない。

 そして、このゲストハウスの前に群がるバイクタクシーのドライバー達。彼等は1日乗り放題で、6ドルで雇われる。客をとる競争が激しく、またバイクはレンタルしているはずだし、ガソリン代もかかるため、実収入は数ドルだろうが、それでも破格だ。彼等の投資といえば、1年間スクールで英語を学ぶことくらいだ。

 カンボジア全体から見たとき、彼等はたまたまアンコール遺跡の近くに住んでいたというだけで、思う存分、商売ができ、外貨を手にすることができる。

 住んでいる場所と、少しばかりの知恵が、不当なほどの貧富の差を生む。これはまさに経済の外部性であり、早いもの勝ちの経済原理が忠実に働いている風景であった。

 長期に渡る内戦で、とても市場経済のルールや思想など浸透しているとは思えないこの国であればこそ、不平等感は否めない。

 5年後には、ピカピカの大きなホテルが建っているかもしれない。観光業が地元の主要産業となり、道路もどんどん舗装されていくだろう。それが自由市場経済の宿命だ。

 まだまだ素朴な彼等が、これからスレていき、観光地を徘徊する一部のベトナム人のように調子よく英語や日本語を話すようになるのかと思うと、もの悲しいものがある。独自の文化や言語を守り続けて欲しいが、それは豊かな国のエゴなのだろう。市場経済は、往々にしてある一定のベクトルに忠実に動いていってしまうのは、ここも同じだ。

 ポルポトの犯した罪に正の側面があるとしたら、私がこうやって偉大なアンコール遺跡にいながらも、現地の人々の素朴な姿をかいま見ることができることくらいであろうか。

 観光地がアンコールワット周辺に一極集中している現状では、カンボジア政府がこの地区の観光業のみ税金を高めに設定して富の再配分を促す、また日本が援助の条件としてそれを要求する、といった解決策もあろうが実現は難しそうだ。

 日本で新首都の場所が決定したとして、その外部性を防ぎきることはできないだろう。どこの国でも限界があるのだ。

 『外部性』を享受する、ひょうきんな子供達