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事実を書けない原因
以下、井沢元彦氏見解(SAPIO 98/12/9)
『言霊』が今も生きているからです。日本民俗古来からの考え方で、縁起の悪いことは言って欲しくない。言うとそれが実現する。だから、実現しないように言わせない、言わないということですね。たとえば、95年に大阪の木津信用組合が破綻した時、大勢の預金者が解約しようと押し掛けた。あれは日本語では『取り付け騒ぎ』と言うんですが、日本の新聞はその言葉を使いませんでした。

 

以下、大前研一氏見解(SAPIO 98/12/9)


 大蔵省から取り付け騒ぎとかパニックという言葉は使うべからずというお触れが出ていて、それを破ると記者クラブを除名になったり出入り禁止になったりするんです。だから木津信用組合の時は、朝早くから預金者が心配そうに長蛇の列を作った、と書いてある。一方、アメリカの新聞には、ちゃんと『パニック』と書いてありました。

 

以下、カレルヴァンウォルフレン氏見解(「怒れ!日本の中流階級」より)


 日本の新聞編集者は政治の現実を究明したがらない - - 政治の現実の究明が、真実とされていることと本当の真実とのあいだの多くの矛盾を追及するという意味ならば。その理由は、彼らが伝統的に新聞の役割と考えてきたものに執着しているからだ。彼らの考えでは、新聞は社会の秩序を維持するための重要な要素なのである。

 もちろん、どんな社会においても秩序を保つことは重要だ。だが、そもそも日本の当局は、社会秩序の崩壊をしばしば極端に危惧しているように見える。彼らは社会のしくみを変える可能性について検討することまで危険視し、誰が見ても望ましくない情況を改善しようとすることさえ、社会秩序を乱すものと考える。秀吉以前の戦国時代以来、日本の為政者たちは、ヨーロッパや北アメリカの大半の国よりも、明らかに社会秩序に執着しているのである。これは本書のテーマ、すなわち日本には真のブルジョアジーがまだ育っていないという事実に直接かかわる問題である。ブルジョアジーの特徴の1つは、公共の秩序を維持する責任が自分たちにあるという意識であり、その責任を果たさなければならないという自覚だ。

 …日本の官僚は、彼らが社会秩序と考えるものをなんとしても維持することを目的とし、新聞はそれを批判しようとはしない。官僚だけでなく新聞編集者にとっても、社会秩序の維持は何より重要な目的なのだ。問題を深く追求しすぎたり、日本でなされているやりかたに根底から疑問を投げかけるような報道をしたりすれば、間違いなく社会の混乱を招く、と新聞編集者たちは考えている。たいていの場合、彼らは意識してそう考えてはいないだろう。意識してそう考えたことはないかもしれない。だが、編集者がそろって社会の混乱を懸念しているために、無意識のうちに論調が左右されている。」