陳 述 書
2001年11月 日
東京地方裁判所
民事第19部ハ係 御 中
原告本人
平成13年(ワ)第5474号事件につき、以下のように陳述します。
1 地位・経歴
私は、1996年3月、慶應義塾大学総合政策学部を卒業し、同年4月被告会社(以下「会社」という)に記者職として入社した。
西部支社編集部に配属され、1996年度は、福岡県警・福岡市役所等を担当し、1997年度は、店頭公開企業・ベンチャー・食品業界等を担当、1998年度は、情報通信・製造業等を担当する経済担当の記者であったが、1999年3月、後述の懲戒処分を受け、同年4月12日に東京本社編集局資料部へ配転され、同年9月30日に退職した。
2 ホームぺージ作成の経緯及びその内容
(1)私は、1996年4月に西部支社編集部に配属され程なく、知人向けのメーリングリストや自身のホームページを利用して、報道現場で感じた疑問点やマスコミ全体の問題、及び改革に向けた現場としての意見を論じ始めた。ホームページは学生時代より開設しており、日々感じたことや小論文、紀行文、書評などを昔から載せていたもので、私にとって重要な表現の場であった。入社後も創作意欲は弛むことなく、被告が準備書面でも認めている通り、新聞社の業務は問題なくこなし、日々、新聞記事を書きつつも、休日や勤務時間外の時間を活用して表現を続けた。その結果、個人のホームページのコンテンツは、入社後3年弱の99年1月時点で、A4用紙換算で441ページ分(写真など含まない文章のみ)の量となっていた。(参考資料参照)その8割以上は入社後に表現したものである。
私にとってメーリングリストは、その時々に自分で考えたことを、身の回りの人や問題意識の高い人、同業の記者仲間などに伝えるのに格好の手段であり、ホームページは過去の文章を読んで貰うために必要不可欠な手段であった。友人がその友人を紹介してくれるなど、自分と問題意識を共有する人のネットワークが次第に広がっていき、メール等で活発に意見交換をできたため、当時、福岡市という地方に身を置いていた私にとっては、東京の友人たちと情報交換をする上で、特に重宝していた。このような意見の発表は人間にとっての根源的自由であるが、会社によるホームページの全面閉鎖命令という過剰反応によって突然奪われることになり、私は途方に暮れるしかなかった。
(2)私のホームページは、全て3層構造となっており、第1層がホーム(表紙)、第2層がシリーズ化されたカテゴリー別の文書一覧表、第3層にカテゴリー内の末端文書が収められ、1つの末端文書には必ず1つの題名がつけられていた。被告が問題としているのは、3つのカテゴリー(「経済記者の現場から」「ベンチャー記者の現場から」「新人記者の現場から」)に収められた計18の文書のなかの一部の表現についてである。文書数ではホームページ内の全441文書のなかでは約1割に過ぎず、被告が指摘した一部の特殊表現だけでは全体の趣旨を把握することはできない。
この3つのシリーズはページ数で全体の45.3%、文書数で52.7%(87文書)を占め(99年1月時点)、私の表現活動の約半分を占める重要なものであった。勿論、残りの半分も更新を続けており、同様に重要な表現の場となっていた。
(3)3つのシリーズで表現を行った意図は明確であった。いわゆる先進諸国からの批判が耐えない記者クラブ制度や、旧態依然とした業界慣習、違法な労働実態、及び権力との癒着や歪められて報じられる記事について、事実をもとに自分の考えを記し、公表することで、改革の一助となれば、というものであった。影響力が大きく公共性が高い上に他者を批判、監視することを使命とする新聞は、自身の倫理観や社会常識、健全性においてより厳格でなければならないが、実際に中に身を置いてみると、余りに腐敗し、自身に対して甘かったからである。
実際、3シリーズ87文書のなかでは、「県警記者クラブを考える―改革法―」(参考資料211ページ)、「記者クラブ温存構造-既得権者たち-」(同253ページ)「脱・記者クラブ体制―実現への道―」(同255ページ)、「市政記者クラブ-その功罪-」(同230ページ)など、現場の体験を踏まえた記者クラブの問題と改革を訴える内容が最も多い。関連して、企業や警察との癒着・馴れ合いを問題視し、事実をもとに分析した「賄賂」(同135ページ)、「悪意なき犯罪」(同33ページ)、「サツ回りメンタリティ-諸悪の根源-」(同261ページ)などが次いで多い。続いて、業界・社内の旧態依然とした体質の改革を訴える「構造問題―組織内失業の宝庫―」(同247ページ)、「棚上と線引き―重箱の隅を突つくか―」(同239ページ)、「ギャップ-入社前と入社後と」(同228ページ)などがある。また、街の声が新聞に載る過程で歪められていく問題を指摘した「街声-事実より紙面の品位-」(同188ページ)、恣意的な誇張で事実が歪められることを指摘した「数字は嘘をつく」(同37ページ)など、新聞の作成過程における問題点を指摘したものも少なからずある。勿論、日記的に自身の考えや書物をもとに記した文書もある。
これらの文書の表現に際して共通していたことは、公共性の高い新聞にかかわる現場記者の1人として、現状の問題点とあるべき姿について真摯に考え、改革を促そうと表現し続けたに過ぎないことであり、それはこれらを読んで貰えば明白となろう。プライバシーを侵害したり、風説を流布したり、会社の機密を漏らしたり、誹謗中傷したり、といった意志や目的は一切なく、実際、そのような文書はどこにもない。偶然ではあるが、主張の方向性は1997年に日本新聞労働組合連合会(新聞労連)が策定した「新聞人の良心宣言」(甲第6号証)と同様であり、新聞労働者の中では広く支持されてもいる。例えば「公的機関や大資本からの利益供与や接待を受けない」「会社に不利益なことでも、市民に知らせるべき真実は報道する」「新聞人は閉鎖的な記者クラブの改革を進める」などである。
こうした目的で事実を記すなかで、取材の過程で起きた事実を記すことは当然あったが、それは上記目的で表現をするために構成された事実の1つに過ぎないもので、情報提供をしてくれた弱者(取材先)に迷惑をかけるようなものは含まれていない。被告は「全ての取材源秘匿が鉄則」などと重要な誤解をしているが、権力を監視する任務を持つ新聞記者が権力に関する事実(社名等)を敢えて秘匿するのは癒着そのものであり、記者のモラルに反することである。ジャーナリズムの職業倫理としての情報源は、国際的には公開が原則で、秘匿はやむを得ない場合に限るとされている(前澤猛『新聞の病理 21世紀のための検証』岩波書店(2000年)7頁)。
経営者としては、記者クラブ制度や企業による接待といった倫理的に問題のある規制/慣習であっても維持した方が経営的に好ましい面もあるが、あるべき姿を主張する現場の記者に対し、経営の論理を押し付けるために強引に重箱の隅を突っつくように処分理由を見つけ出し、一方的に処分を行い、「依願退職か懲戒免職の二者択一だ」などと脅した上で報復人事をもって良心的な記者を葬り去ろうとするのは、言論機関である新聞社として自殺行為である。言論の自由を守るべき新聞社は、社内言論に寛大でなければならず、経営方針や編集方針に対しての疑念を表明する自由は、むしろ最大限に認められねばならない。
また、ホームページには、これらの他に、旅行記や書評といった他の様々なカテゴリーがあり、全体の約半分を占めていた。個人で契約しているホームページが、会社の一方的命令によって半永久的に禁止されたことにより、私はこれら様々な表現活動の中止も同時に余儀なくされ、表現の自由が著しく侵された。これも言論機関として最低の行為である。
勿論、社内規定にはこうした個人ホームページでの表現を禁じる規定はそもそも存在せず、業務上知りえた事実に関する秘密保持契約等も勿論、結んでいない。そもそもそれは、記者としての職業倫理上、あってはならないことである。ホームページに関する社内規定が施行されたのは、私が退職した後の1999年9月であり、当時は全く存在していなかった。
3 会社が私のホームぺージを問題にした経緯
(1)1997年5月、私の大学時代の恩師が「週刊朝日」記者に私を紹介したため、同誌の記事のなかで私の上記活動が紹介された。記事中では日経という社名は伏せたが、氏名より会社の知るところとなり、西部支社守屋林司編集部長(以下「守屋部長」という)は私を個室に呼びつけた。
守屋部長は「おまえ、会社を批判するようなことを書いただろう。とにかく全面的に閉鎖し、ホームページにアクセスしようとしても、全くつながらない状態にしなさい。本社には、私から『本人は反省している』と言っておくから」と述べ、「ホームページは許可制になった」「ホームページについての規定は今はない」「私の言うことを聞かないならば、2年後の君の人事異動で支援できない」などと述べた。私は「昔から個人で契約していたページを閉鎖させるなんて、人権侵害であって、閉鎖はおかしいと思う」と反論したが、人事権を持つ部長の命令であることから、不本意だったが、「何なら良いのか、明確な基準を会社として早く作って欲しい」と強く要請、守屋部長は「わかったから」と基準の作成を約束したため、閉鎖せざるを得なかった。事情聴取は一回だけで、15分程度だった。
(2)その後、私は、守屋部長との議論のなかで、「いつになったら再開できるか」「何なら良いのか」と折に触れ尋ねたが、議論の経過も今後の見通しさえも示されなかった。私はこれ以上待っても進展はないと判断せざるを得ず、会社が個人の表現の自由を踏みにじる姿勢に憤りを感じ、1998年5月にホームページを再開した。その8ヶ月後の1999年1月中旬、会社が私のホームページ再開にやっと気づいた。守屋部長は「なぜ命令に従わないんだ」と激怒し、私は翌日より通常の記者業務から外された。極めて唐突な出来事だった。1年8ヶ月も前に一度だけ議論になったことであり、その後、会社としても何の対応もしなかったため、この問題は会社にとってどうでも良いことなのかと思っていたところ、なぜ突然に怒り出すのか、理解に苦しんだ。私としては、国民としての基本的な「表現の自由」の権利を行使しただけのことだった。
(3)1999年2月17日午後、所属部の守屋部長、編集局総務の丹羽某と法務室の森次長が私に対し、「懲戒免職か依願退職の二者択一だ」と迫って辞表を書くよう勧め、「上申書を書かないと懲戒免職だ」と脅した。私が「そんな訳はない」と主張したため、議論は平行線のまま8時間を超えた。私は疲労から思考力が低下し、解放されたい一心から、結局、上申書を書くこととなった。守屋部長等は、口頭で内容について事細かに私に命令し、私が上申書を一度書いても、更に数度に渡って添削され、私に「会社の経営方針、編集方針を害した」ことと「取材上の秘密を守らなかった」ことを謝罪し「相応の処分を受ける」とする内容の社長宛の「上申書」と、事件の経過を記した「顛末書」を強引に提出させた。私が解放されたのは翌18日午前2時半であり、所要時間は12時間を超えていた。外部との相談機会も与えられない孤独な環境だった。
上申書は私の真意を表明したものでは全くなく、上記のように不適正で圧迫的な聴取の結果、強引に書かされたものであった。
4 私に対する処分について
会社は1999年3月9日、私に対し、同年3月10日から同月26日までの2週間の出勤停止処分を言い渡した(甲第1号証)。更に、以上の公式処分とセットとなる形で、懲罰的な見せしめ人事として、後述のように取材現場から最も遠い部署に外し、通常の記者業務を行えないようにした。守屋部長から同年2月27日に「おまえはもう日経の社員としては終わりだ。辞めたほうがいい」と理不尽なことを言われていた経緯もあり、会社が私を葬り去ろうという意志を強く持っていることが分かった。
5 私の人事異動について
1999年3月29日、私は、賃金が約40%減額となり(甲5号証の1と3を対照)、記者とは明らかに異なる職種である東京資料部に4月12日付で配転を命じられた。通常の人事異動は3月1日と9月1日付であるため、4月12日付の辞令は異例である。被告が提出した資料部の人員構成資料からもわかる通り、20代の記者職の者が資料部に異動になることは通常あり得ない。(12人中、唯一27歳の女性が在籍しているが、彼女は身障者手帳を保有していると聞いており、法的制約という特殊事情で雇用されていると思われる。)従って、懲罰的な人事であることは、誰の目にも明らかであった。資料部において私は、図書館に日本経済新聞があるかどうかの問い合わせ、及び読者応答センターの問い合わせ事項を印刷する、といったパートタイムでもできる仕事しか与えられず、記者業として「仕事」と呼べるようなものはなかった。この配転が見せしめ的な人事であることは明白であった。業界ではこうした見せしめが横行しており、経営に対して自由にモノを言うことができない状況であり、表現の自由が著しく侵害されている。
「三和銀行事件」では、公共性の高い企業の健全な運営は国民一般、社会一般の利益に大きく影響しているとして、不当配転や賃金差別の実態について本を出版した原告(銀行マンら)に対し被告(三和銀行)が行った戒告処分を、懲戒権の濫用として無効とする判決が出ている(大阪地裁 平12.4.17判決)。本件も同様どころか、言論の自由を守るべき新聞社内における言論弾圧・報復人事であるだけに、更に深刻な違法行為である。被告は、わが国有数の全国紙、唯一の巨大経済紙であり、その公共性は説明を要しない。
6 損害の内容について
懲戒処分及び懲罰的配転は違法であり、懲戒権の濫用である。この懲戒処分及び懲罰的配転により、私の名誉は著しく傷つけられた。社内では各部で緊急部会が開かれ、私の処分についての会社側の主張のみが社内外に知れ渡った。見せしめ的な処分は、他の記者に多大な威嚇効果を持つ。更に、リーディングカンパニーの処分が、新聞業界全体に与える社内言論の萎縮効果は、表現の自由によって成り立つ民主主義社会全体に対する大変な脅威であり、損失である。私は1999年8月31日、上記処分を不服として取消を求めたが、会社はこれに応じない。上記紛争を解決し、法のあるべき姿を示すためには、処分を取消し、処分取消の事実が業界全体、及び社会全体に知れ渡るようにすることが最も有効である。
また、資料部への配転により、私の給与は打ち切り手当の減額分だけで月平均12万6500円{(17万7000円+17万20000円)÷2-4万8000円}、配転の翌月である5月から退職日まで5ヶ月間で63万2500円もの減額となっている(甲5号証)。
会社は、こうした不利益を私に与えることによって依願退職に追い込み目的を達した訳であるが、私としては、東京で記者を最低でも2年はやる計画であり、その後もマスコミ業界に留まり記者経験を生かして日本にジャーナリズム(=権力の監視)を根付かせる仕事をしたいと考えていたので、そのキャリアプランと「夢」を、理不尽な実質的解雇によって絶たれ、非常に悔しい思いを今でもしている。
地方勤務者は通常、3年で異動となる。私は99年3月1日付で、ベンチャー企業を取材する部署への異動を希望していたし、その方向で内々示は出ていたにもかかわらず、本件が発覚した途端、急遽、4月12日付というイレギュラーな異動によって、記者とは全く関連のない資料部に飛ばされることが決まったため、それを知らされた時は、言論の自由を守るべき新聞社の社内言論に対する寛容のなさと度量の狭さ、人権意識の低さ、そして私企業としての日経新聞の利益追求のみを考えた公共性の欠落といった新聞社としてのあるまじき姿勢に、許せない思いで一杯であった。
その後約半年間、記者としての仕事が全くなく、体力的にも精神的にも最も働ける20代の後半に、時間を浪費するしかなく、処分の具体的理由を尋ねる質問状にも会社は具体的な回答を拒否するなど、私は社員として最低限の対応も受けていない。
これら様々の不等な扱いと精神的ダメージを考慮すれば、私の苦痛を慰謝するには少なくとも金1000万円の賠償が必要である。
以上