「ジャーナリストとしてのゴッホ」    アルル(フランス)  2002. 10

 「ミディ(南部)は感覚に火を付ける。手は機敏に動き、目は鋭く、頭脳は明晰になる」(フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890)
 同じ仕事を3年もやっているマンネリのせいか、最近、感覚が鈍り、手も目も頭脳も動きが鈍い。ナショナル・ジオグラフィック社の本で見つけたゴッホのこの言葉は、私を旅に駆り立てるのに十分なものだった。
 
 まず行かねば、と思ったのが南仏のアルルである。ゴッホが、画家の共同体を創ろうと考え、友人ゴーギャンを呼び寄せた場所だ。この地で描いた「14本のひまわり」は1987年、53億円という絵画としての最高値(当時)で安田火災海上保険により競り落とされた。

 ゴッホはこの地にいた2年間で油絵200点、デッサンと水彩を100枚以上、200通以上の手紙をものしている。いったい、それほどの創造力をかき立て、後世に残る価値あるものを生み出した場所とはどんなところだろう?もしかしたら自分にも何かインスピレーションが与えられるのではないか。とにかく行ってみる、それが今回の旅のささやかな目的だった。

    ◇  ◇  ◇
 強烈な太陽の光、馬鹿デカく成長した生命力あふれるプラタナス、薄い黄土色の壁に、歴史を感じさせる渋いオレンジのテラコッタ屋根。城壁に囲まれた都市の
中央にはローマ時代の円形闘技場が残り、細い迷路のような道しかない街並みは中世のままだ。なるほど、人の心を落着かせ、クリエイティブになれる環境とは、このような場所なのだろう、と確かに感じた。

 ゴッホがアルルで芸術家の共同体を作ろうと借りた「黄色い家」は、TGVの駅と城壁の間、街の入り口に位置していた。今は残っていないが、家があった場所は「黄色い家」の絵の後方に描かれた鉄橋から特定できる。この家にゴーギャンを呼び、芸術家のアトリエを目指したのである。

 「ここでの僕の家は、外壁が新鮮なバターのような黄色に塗られ、鎧戸は鮮やかな緑色で、プラタナス、キョウチクトウ、アカシヤなどの植えられた公園のある広場にあり、日がよく当たっている。この家の中でこそ、僕は生き、呼吸し、考え、そして描くことができるのだ。」

 ゴッホは手紙にこう記し、意気揚々と創作活動に入ったのだった。私が泊まったホテル(65ユーロ)の部屋も鮮やかな緑の鎧戸を開けると中庭の木々が爽やかな空気を送り込んでくれ、日当たりのよいところで、いつかこのようなところに住みたいな、と思ったものである。

 ゴッホはしかし、ゴーギャンと意見が合わず、共同生活は2ヶ月しか持たなかった。興味深いのは、事実を描くことについての両者の考えの相違だ。

 「糸杉のことがいつも頭の中にある。ひまわりの時と同じように描きたいのだ。僕に見えるような姿で糸杉を描いた者がないというのは、不思議だ」というように、ゴッホは実際の描写の過程を意図的にカンバスの上に残そう、つまり目に見えるものを描こうとし、現実以外のものを描こうとは考えなかった。一方、ゴーギャンは描写の痕跡を隠すことに努め、当時の多くの画家と同様、目に見えないものを描こうとしていた。

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 ゴッホが「夜のカフェテラス」と題して描いたカフェは、街の中心部にあった。「これは黒を使わないで美しい青色、紫色、緑色だけで描いた夜の絵なんだ(中略)僕は広場にあるこの場所を描くのが好きだ」(ゴッホ)。割腹のいいマスターらしき初老の男が店頭に構えている。前を通り過ぎようとすると、立て看板のメニューを英語で丁寧に説明してくれたので、しばらく休むことにした。目前は、小さな広場を囲む中世の建物、その上に広がる青空と太陽。この視界のバランスは人を落着かせる。ゴッホがここを好んで描いたのもうなづけた。

 それにしても、ゴッホの事実を描く姿勢には、他の画家にはない格別の興味をそそられる。現地で購入
した「ヴァン・ゴッホの見たプロバンス」は、ゴッホの初期の作品「ジャガイモを食べる人々」(1885年)について、「庶民の生活のつらさに心を捕えられた北国の画家としての作品」と評し、ゴッホが弟テオに出した手紙を紹介していた。「僕はこうしてランプの下で人々が皿の中のジャガイモを食べているその手がまた、土を耕した手であることを、つまり、僕の絵が、手仕事と農民が懸命に得た食糧を讃えるものであることを、心を込めて表現したかったのだ」。

 こうした、庶民の立場・生活者の立場に立って事実を表現する姿勢、労働の価値を考えさせる姿勢は、まさにジャーナリズムと言える。それは「ジャーナリズムとは、時事的な事実の報道や論評を伝達する社会的な活動」(原寿雄「ジャーナリズムの思想」)という広義の定義にあてはまるのはもちろん、「権力の監視」を使命とする狭義の定義にも合致する。私は、ゴッホにますます興味を持った。
 
 「僕は情景そのものを目の前にして直接描きたいと思っている」「糸杉は、太陽の照りつける風景の中の黒い斑点だが、この黒のトーンは実に味わい深く、正確に表現するのは非常に難しい」。これらの手紙に残された言葉から分かるように、ゴッホは常に事実を正確に描こうとしていた。つまり、ゴッホの眼には、世の中の風景が、実際に、あのように見えていたということだ。渦巻きのようなミストラル(プロヴァンスの寒冷な北西風)も、バカでかい黄金色をした太陽も、その通りに見えていたのだろう。しかし、明らかに一般の人とは見え方が異なるではないか。しかし、同じ人間であるゴッホの眼には確かにそのように事実として見えているのだから、嘘でも誇張でも「誤報」でもないといえる。

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 「事実とは何か」(朝日文庫)で事実論を展開した本多勝一は、客観的事実を「無意味な存在」としたうえで、「主観的事実こそ本当の事実」と述べている。「たとえば戦場のような対象をみるとき、そこには風景として無限の『いわゆる事実』があります。弾丸のとぶ様子、兵隊の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木や土の色、匂いなどなど…。ある時間的一瞬におけるひとつの空間、目に見える範囲の世界だけでも、もし克明に事実を描けば何千枚でも書けるでしょう。その土だけとりあげても、色や粒子の大きさ、土壌学的な限りない事実、層の様子。もし昆虫でもいたら、その形態や生態、細菌もいるから、そのすべての事実…。即ち、私たちはこの中から選択をどうしてもしなければならない。選択をすれば、もはや客観性は失われます。ランダム抽出をして、兵隊の顔と土壌学的事実を並べても無意味です。(中略)戦場で、自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方や、いかに危険だったかを克明に描写するよりは、そこで嘆き叫ぶ民衆の声を記録する方が意味のある事実の選択だと思うのです。これは主観的事実であります。」


 これ自体は確かにその通りだ。しかし、この、主観によって選択された事実であっても、さらに次の段階があり、人によって全く見え方が異なる場合があるのだということを、ゴッホは述べているのである。「僕に見えるような姿で糸杉を描いた者がないというのは、不思議だ」という言葉から分かる通り、多くの風景のなかから糸杉という事実を選択した場合、ゴッホが描く事実と、その他の人が描く事実と、カメラが描く(写真に写る)事実は、どれも恐らくは異なるが、どれも事実として描かれ、報じられうるのである。

 色彩も、大きさも、質感も、それぞれ異なるだろう。もともと3次元のものが2次元化されたことにより、角度と時間が少し違うだけで必ず誤差が生じる。写真が常に正しい訳でもなく、肉眼とは違って写るし、肉眼にも人によって誤差がある。読者は、常にそれを念頭に置いて情報を読み解かなければならないということだろう。


 気が付いたら、私は「夜のカフェテラス」に4時間も居座っていた。私はその後、パリのオルセー美術館で「アルルのヴァン・ゴッホの部屋」などを鑑賞し、また、ゴッホが38才で自殺したオーヴェル村を訪れている間も、事実とは何なのだろうか?と考え続けてしまった。

 ゴッホが生きていたら、今の日本をどう描くだろうか。プロヴァンスのような、燦々と輝く明るい色にならないことだけは確かだろう。

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