「拷問バス」          ラ・パス(ボリビア) '96.3

 ボリビアの首都、ラ・パスには、昨晩着いたばかり。標高約4千メートルという世界で最高位の首都だけに、まだ、歩くだけで息苦しい。高山病は一向に治まらないが、そうかといって寝るのもしゃくなので、ペルー国境近くの、3千年前に栄えたという「ティワナコ遺跡」を見にいくことにした。

 体がだるいこともあり、宿を出るのが遅れた。バスの出発点を見つけるべく街をさまよっているうちに、昼を過ぎてしまう。バス会社のオフィスをなんとか見つけ、14時のバスでティワナコへ発った。市内から72キロの距離だ。

 失敗だった。もっと早く発つべきだった。5日ほど前までいた南アの感覚(プレトリアとヨハネスブルクは80キロくらい離れていても70分だった)で考えてしまい、その程度だろう、と考えていた。実際は3倍かかった。

 途中、何度も停車し、客は増える一方。しかし、そのバスが唯一の交通手段である以上は仕方がない。なにもない高原地帯が延々と続く。そして、突然、何もないところで降りていく現地のインディヘナたち。車内には土色の山高帽を被り、カーディガンのようなものに身を包み、えり巻を肩にかけた、独特の民族衣装の格好をした女性が7割以上を占める。残りの男性も、半分くらいは山高帽をかぶっている。ここの文化はきわめて強烈だ。そして、何やら大きな荷物。カラフルな模様の風呂敷包みは人間1人分のスペースをとるほど大きい。そして、それを担ぐオバサンたちは、決まって太く、体格がいい。厳しい生活がこのスタイルを作り出していくのだろう。皆が、だまっている。不満げな表情ではない。何かを考えている風にも見えない。どっしりと構えている。おしゃべりなおばさん連中はここには皆無だ。

 途中、「これが遺跡なんじゃないか」と思われる風景に、いくつも出くわす。日干しレンガを積んで土で固めたようなような跡がいくつもあり、人が住んでいる様子もない。「これがティワナコ遺跡だ」と言われたら信じてしまうだろう。

 バスは、一応の経由地が決まっているだけのようで、乗客は降りたい所を運転手に告げ、思い思いのところで降りていく。家らしきものがかたまっている町のようなところで降りていく人はまだわかるのだが、全く何もない所、ただの平原で降りていく人が結構いる。よく見れば、遠くに小さな小屋のような建物があったりするのだが、ここでどうやって生活しているのだろう。「こんなところで降りて、一体、どこへ行くの?」と思わずつぶやいてしまう。

 平原だけでなく、切り立った谷を真下に見るような道を走ることもしばしば。道は土砂で固めただけで、それもデコボコ。水たまりは当然として、小川も何本か超えていく。まるで遊牧民族の季節移動のようだ。少しでも登り坂になると、いきなり時速5キロくらいにスピードが落ちる。歩いた方が速いくらいで、イライラが募る。デコボコ道は相当なもので、ガタガタの振動が高山病の頭に響く。それでも行きは指定席だったので、座ったまま、何とかティワナコに行き着いた。

 悪路に次ぐ悪路で、着いたのは午後5時過ぎ。まだ日没までは1時間以上あるが、遺跡に隣接した博物館らしきものは、既に閉まっていた。

 たまたま同じバスにいたブラジル人バックパッカー、ビリャンと、一緒にまわることにする。彼はメキシコで学んだというスペイン語が達者で、心強い。彼の妹は日系ブラジル人と結婚し、今は日本に住んでいる。「今度は、アマゾンの奥地に行きたいね」。この時間にティワナコに向っていることもあり、お互い、無謀なところが似ていたようだ。

 ティワナコ遺跡に入る。誰もいない。しかも、最後の帰りのバスが1時間後に迫っていることを管理人らしき人から聞き、ゆっくり見る暇もない。さらに悪いことに、私はまだ昨夜ボリビアに着いたばかりで、高山病を全然、克服していなかった。仕方なく、1キロ四方もある遺跡を早足で回ることになった。息は切れるし、頭痛はするしで、遺跡見物どころではない。そうかといって、ここまで来て見ずに帰るわけにもいかない。3千年前の人々の営みに思いを馳せる余裕は全くなかったが、「太陽の門」に刻まれた「ビラコチャの神」のレリーフは、いかにもそれらしくて、いやに印象的だった。

 何とか一周りしたところで、帰りのバスが一直線の道を遠くから走ってくる姿が、小さく見えた。手を挙げて停める。ほかに何もないだけに、留まってくれるだけで嬉しい。近くで見ると、ただの大きいオンボロバスだった。中は満員。立つ瀬もない、とはこういうことを指すのだろう。混んでいるだけなら日本で慣れているが、急ぎ足でまわったため高山病は重さを増していた。めまいと頭痛で、立っているだけで辛い。しかし、乗客はどんどん乗り込んでくる。ラッシュだ。しかも、来た道を帰るのには、最低でも3時間はかかるはず。もちろん、帰るのに他の方法はなく、しかもこれが最後のバス。降りたが最後、野宿するしかない。しかし、朝食しか食べていない私には、辛すぎる選択だ。

 延々と続く砂漠、いや「土漠」。悪路は容赦なくバスを上下左右に揺さぶり、私の弱った頭に強烈な刺激を加える。ただでさえ空気が薄い高原地帯なのに、バス内はラッシュで酸欠だ。しかも、ものすごい土埃で、窓を開けられないのである。前方に車が走っていなくとも、スピードがのろいので、自らの車輪で掘り起こされた土埃が、バスを襲う。すれ違う車があれば、視界はそれこそ10Mもないくらいだ。

 意識がもうろうとしてくる中で、ビリャンがコカの葉をくれる。「高山病には、コカが効くぜ」といって自ら葉を口に含み、頬に持っていって見せる。私もありがたくいただき、軽く噛んで頬にため込む。独特のスーッとした味。多少、よくなった気がするが、コカの葉で治るほどの軽症ではない。そもそも、コカの葉のコカイン含有率は0.5%以下で刺激性は弱く、葉をかんでもカフェイン程度の効き目しかないのだ。

 私もなんとか苦痛を忘れようと、ビリャンに話しかける。「富士山を知っているかい?」「いや、知らない」「日本で一番高い山だ。でも、今、我々はもっと高いところにいるんだ。きついのは当り前だね」

 切り立った谷を見下しながら、バスはとろとろと進む。このルートと別ではあるが、ガイドブックによると、ラパスから田舎地方への道で、毎年二百人以上が道から谷へすべり落ちて死ぬそうだ。今は雨期ではないので大丈夫だろうとは思っていたが、土砂道も十分に滑りやすそうで、不安は募る。

 そうこうしているうちに、地平線の彼方から、明りが見えてきた。前方180度のうち90度ほどが、こうこうとした明りで埋めつくされてきた。希望の明りとはまさにこのことだろう。しかし、そこからもまだまだ、長かった。空腹と渇水がさらに私を苦しめる。登り坂のたびにローギアにチェンジするらしく、止まったようなスピードになる。これが精神的にもダメージを与える。

 「バスには、様々な種類があるものだ」と、つくづく思った。ラパス=サンタクルス間など、大都市を結ぶ長距離バスは設備も整っており、道路のインフラもしっかりしているが、田舎ルートのバスは、天と地ほどに別モノである。馬力はないし、座席も狭く、手を置くところなど、鉄がむき出しになっていて危険でさえある。舗装道を走行中でさえ、ガタガタ揺れる。バスの見極めは重要だ。

 それにしても、ボリビア人は我慢強い。それも、特にオバサンはツワモノだ。私と同じように、3時間近くもこの「拷問バス」の中に、平気な顔で立ち続けている、山高帽の女性たち。もちろん高山病とは無縁だろうが、日常的にこのバスを利用しているというのは、とても信じられない。

 一方、男性たちは黙っていない。

 「バモス!」乗り降りに手間取っていたり、途中の村で長停車しようとすると、太い怒鳴り声が聞こえる。こんな拷問のようなバスに長居したくないのは、彼等も同じだ。バモスとは、スペイン語「IR」(英語の「GO」)の一人称複数形。要するに「レッツ、ゴー」。スペイン語の単位に卒業がかかっていた私だが、2日前に発表があったはずの卒業試験の結果を気にかける余裕もなく、心の中で念じるように叫ぶ。「バモス、バモース…」

 オバサンたちの体格の良さと我慢強い性格は、こういった過酷な生活環境から生まれるのだろう。大きな風呂敷包みから想像するに、彼女たちは、田舎で作った農作物などをラパスに持ち込んで市場で売り、替わりに必要な加工品などを買って帰る生活をしているようだ。よっぽど我慢強くないと、この生活はできない。

 「今日のことは2度と忘れないだろうね」。ビリャンが、疲れ果てた表情で言う。午後9時近くになって、やっとラ・パスに入る。本当に、長かった。

 身を持って体験した、ボリビアの過酷な生活。もう2度と経験したくないような、懐かしいような、貴重な体験であった。

 出発点の首都ラパス(上)