新人記者の現場から(1)
「張り子の虎とその威を借る狐」 

 日経は威張っている、という批判があることは、研修中にも何度か聞いたし、研修
以外でも耳にした。私は研修中に、もっともだな、と感じたし、西部支社に配属され
て、益々実感した。
「社員持ち株会社で外の圧力がない。オーナーもいないため独裁性もなく、自由濶達
な社風である」
 何度、同じことを聞いたろう。しかし、私が肌で感じた社風は、ずいぶんと違った。

 「歪んだ温故知新、そして温故T遅U新」その結果としての「張り子の虎とその威
を借るキツネたち」。それが私がまず感じた、日経の社風である。古きを温め、新し
きを非常によく知っているが、新しきは自らに関しては極めて実行が遅れており、ほ
ころびつつある虚構に気付いていない。中味がなくなりつつあるためか、権威にやた
らとしがみつきたがるところがある。日経という張り子の虎の、威を借る狐記者たち
は増殖するばかりだ。
  
 何かと言えば、新聞協会賞を連呼する。重要なのは、中味であって、賞による権威
付けではない。 
 そもそも、賞というのは、その選考過程がどれだけ公平なものかについて触れずに
は、語れないものだ。新聞協会賞など、テレビのレコード大賞のようなものかもしれ
ない。
 記者クラブをさんざん批判していた多勢康弘氏が、日本記者クラブ賞を平気で受け
取り、さらにそれに対して日経が社長賞を送る、といった権威づけの嵐。
 権威に関して、研修における象徴的な場面は、金指氏の講演だった。確かに、日経
の中では偉い人なのだろうが、会場の大多数の人間にとって、それはそれは退屈でつ
まらない講演だった。
 みんな「眠気をどう抑えるか大変だったよ」などと後ほど感想を述べ合ったのだが、
しょっぱなから、「日経を代表する人」などと持ち上げる。つまらないものを、権威
で押し付ける。こちらが質問しても、満足に答えないうちに「他には?」と次の質問
に移る一方的な講演。
 政治部時代の話で、「政治報道ではなく政界報道だ」という、私と同じ疑問を持っ
て入社したという。私は聞いた。「実際、変えることはできたのですか。私は批判だ
けして、実行しない人間は男らしくないと思うし、そこがジャーナリズムの駄目なと
ころだと思っている。実際、政治家として実行する側に回りたいと思ったことはない
のですか」と。
 ここは重要なポイントで、「温故遅新」と同様の根を持つ問題だ。なぜ知っていて
も実行できないのか。まさにマスコミの駄目な所を象徴しているのが、日経の社風な
のだ。
 答えは、一応もらった。1つめの質問には、昨年の特集「官僚」のような記事がで
きるようになったこと、2番目の質問には、関係ない話をだらだらくっつけて、簡単
に「ない」といなされた。ほとんど、正面から質問に答えないで、すぐに次の質問に
移った。
 そこには自由濶達な空気は流れておらず、あるのは淀んだ盲目的な年配者への従属
意識だけだった。裸の王様を祭り上げるようなまねを社全体で行っている。滑稽だっ
た。
 
 その結果としてどういうことが起こっているかといえば、例えばそれは、記者端末
の古さに象徴される。サイバースペース革命がどうのこうのと特集する前に、この5
年前のゴミのようなコンピュータを、記者に日々使わせるようなまねをさせないでほ
しい。それに、これを何とも思わずに使っている記者は、時代感覚も問題意識もない
ことになる。合理的な思考ができないから、平気な顔をして、はずかしげもなく、使
っていられる。半年ごとに新しい機種がでる、最も進歩の早い分野で、5年前のもの
を自ら使っていては、新聞に要求される先見性もなにも持ち合わせていないといって
いい。
 電子メールのアドレスを持てないのも同様だ。「電子メールのアドレスがないと満
足な就職活動ができない」とまでいわれる時代に、情報機関が、外からの情報を自ら
シャットアウトするという、自殺行為をしている。散々、紙面では電子メールが仕事
の能率を上げる、などという記事を載せておきながら。まさに、医者の不養生という
言葉がぴったりだ。
 仮に、自由濶達な議論が社内でなされてきたならば、よっぽどの無能記者の集まり
でない限り、これらの問題はとっくに解決されているはずだ。いったい、誰が紙面を
造っているんだ、という問題になる。実際に使っている記者は、この5年前のダイナ
ブックが、極めて使いづらく、無駄な時間を費やしていることを知っている。しかし
、端末を自ら使わないデスクや、その上の管理職には、そのことは伝わらない。権威
主義的な社風のために、議論にならない。
 本当に、自由濶達というなら、それを裏づける根拠が欲しい。社員持ち株だからと
いって、自由濶達になるとは限らない。自由濶達な社風、などと唄いあげている会社
は、全国にわんさとある。制度的な裏付けでも造ってから言って欲しいものだ。
 これらは、県警本部で次席と話していても、結構言われることだ。いつも感じる矛
盾であり、新聞会に共通する問題なのかもしれない。
「時短だの、労働基準法だのと詳しく報道してるわりに、あんたらはいったい何時間
働いとるんだ?」(公安課の次席)と言われると、その通りとしか言いようがない。

 経済が右肩上がりの時代、当然、経済情報の需要も増え、日経社員は、たとえ無能
であろうが年を重ねるごとに、地位と権力が伴ってきた。日経が日本の経済成長を支
えてきたのだ、との錯覚に陥り、ある程度の地位を築いた日経の年配社員は、自らを
過大評価してしまうことだろう。
 しかし、今後もこの体質を変えられないのならば、日経はまさに張り子の虎だ。そ
して、それに気付かずに、電子メールのアドレスさえない日経の名刺を振りかざして
仕事をする社員は、その威を狩る狐記者たち、という表現がぴったりだろう。日経は
砂上の楼閣となりつつある。
 東京の編集局長が、「ジャーナリズムはマンネリズムの反対語だと思っている」な
どと研修で発言していた。私も個人的にはそう思う。だからこそ、まずは自らを省み
、謙虚に、真に自由濶達な議論をもとに社内改革に取り組んで、マンネリズムを打破
してほしい。それができないならば、日経自体が裸の王様になる日も近いだろう。

 この「自由濶達」を阻む権威主義をどう打ち破るか、謙虚に上下関係のない議論を
行い、改革できるかが、我々21世紀を担う日経社員の課題だと、私は見ている。
 だからこそ、私は社内報の新人紹介で、次のように書いた。
「団塊の世代と我々ジュニアとでは、価値観が違って当り前。社長訓示の上下関係の
ない自由濶達な議論を実践し、新聞社の悪習には徹底的に挑戦します」