「文化と文明のトレードオフ…2」
<発展のベクトル> ホーチミン(ベトナム) '95 . 9
ベトナムの経済は、"VIETNAM INVEST REVIEW"で知ることができる。これは「ベトナムで最初にできた国際紙」という副題のついた英字のウイークリーペーパーで、政府(STATE COMMITTEE FOR COOPERATION AND INVESTMENT)が発行している。躍動するベトナムを象徴する記事に溢れ、大変興味深い。
その週の一面トップは、カープラントの合意。フォード、クライスラー、トヨタ、イスズがベトナムに生産ラインを造ることを首相に認められたとの主旨。圧倒的にバイクが主流のベトナムも、5年後にはバンコク並の大渋滞の町になっているかも知れない。
そして、コカ・コーラが新しい工場で生産を始めた話。14あるHA TAY地区の外国資本の直接投資JVのうちの1つで「現地に職を与え工業化を進めるだろう」とのこと。メコン川流域の漁村地帯に住む人々も、いずれ工場の生産ラインで一日中単純労働を強いられる日が来るのだ。「あの人たちは、そのままではいけないのか」といつも思う。生産ラインで過ごす1日よりも、漁で過ごす1日の方が人間らしいのではないか、と。
他には、政府による、外国企業との合弁ホテル建設におけるベトナム分のシェア拡大計画など。
日本がらみの記事も多い。"CAR GIANTS BATTLE"と題して日本国内の自動車のシェア争いの記事、日本政府がストリートキッズの教育施設に4万ドル寄付した話。
仏の核実験がらみでは、「日本は中国へのGRANT AIDを止めた。日本にとってはRARE STEPだが、シンボルに過ぎない」という批判めいた記事。
特集は、4ページに渡ってエネルギー問題だ。題は"Vietnam, keen to chart a swift course to developed-nation status , needs an abundant supply of power to fuel its modernization ambitions"
エネルギー問題は経済成長の鍵であり、今後10年間に8%の成長を続けるには、エネルギーは年11.5%の伸びが必要。今後10年間で、巨大ダムや太陽エネルギーなど、百億ドルの投資が必要だとしている。
この「developed-nations status」という表現に注目したい。エネルギーを消費して経済の工業化を進めることが発展であり、良いことだ、との価値判断が暗に下されているのである。「先進国」という日本語訳は益々その志向が強い。発展途上国など、それこそ遅れているから急がねば、という強迫観念を植え付ける表現である。これは明らかに、西欧近代のパラダイムだ。
全世界の人々が先進国の暮らしをするとどうなるか。例え今の生活レベルのままでも、50億人くらいが限度だと主張する学者もいる。どんなに技術が進歩しようが、間違いなく地球はパンクする。これは証明する必要のない明白な事実だ。それならば、人類がこれからデベロップ(発展)すべきベクトルは、明らかに、この西欧近代のパラダイム(=ある時代のものの見方・考え方を支配する認識の枠組み)の反対方向であるべきであることも、これまた議論の余地がない。
しかし、DEVELOPのパラダイムシフトは、手遅れになりかねないほど手付かずに思えるのが現状で、これは国際協力、ODAなどの議論の時に、最も中心となるべき土台であるはずだ。本来、地球が無限大でないことが意識された時点で、パラダイムシフトが起きるべきだった。
欧米人や日本人で「先進国の人間」と名乗る人に言いたい。「あなたの思うベクトルで世界が進み、世界中の人々の生活水準が上がったら、どうするのか」と。「その時、あなたは自分の生活水準を下げることができるのか」と。
自分自身でなくとも、少なくとも、子供や孫の生活水準を下げさせることができるのか。できないだろう。皆ができないことだ。これは人間のエゴという本質である。
「不可逆的変化」という言葉がある。一度上げた生活水準は、二度と戻すことができないということだ。「文明の衝突」論争では、それを根拠に原理主義者の台頭の可能性を否定している論者もいるほどである。
今現在の人口でも、世界中が中産化したらパンクする。そうなったら、生活水準を下げてエネルギーを消費しないようにしなければならない。もはや技術力でカバーできるレベルは越えている。途上国の莫大な人口が、将来的に現在の先進国の中産階級レベルとなることは、現在の地球人口でも不可能だ。それでは、どのレベルで止めるのか。止めさせることができるのか。少なくとも、この流れ自体を止めることを考えるべきではないか。
特に問題なのは、資源小国である日本である。世界中で中産階級化がすすみ、地球がパンクし始め、エネルギーが不足し始め、自らの生活が脅かされそうになった時、現在の先進国の住人は援助を止めるだろう。食料もエネルギーも不足し、奪い合いとなった時、世界のマーケットで価値が上がるこれらのものを最も生産・所有していないのが日本だ。最も立場が弱くなるのである。
「自分が殺せないものは食べない」といって鳥より大きな動物は食べない人がいるそうだ。私がその論理に妙に納得してしまうのは、これから目指すべき「先進国」のパラダイムに似たイメージを感じるからである。
欧米諸国が今後、お手本とすべき「発展」的な生活を営んでいるのは、例えばモンゴルの遊牧民族や南極のエスキモー、東南アジアの農村の住人などである。彼等を「発展途上」などと言うのは、いい加減に、やめた方がいい。日本政府が、率先して死語とすべきだ。
従って、日本のODAによる東南アジアの経済成長を「良いお手本」と祭り上げる風潮には、疑問を感じざるを得ない。アフリカやインドで、そして中国でこれが同じようなスピードで実現してしまったら、地球は一気にパンクする。そうかと言って、人間を「間引き」することはできないのだ。
最低限言える現実的な答えは1つだ。聖域を造るのである。まだ資本主義的な1元的価値観に巻き込まれていない貴重な人達については、少しでも伝統的で多様な文化や生活様式を残すよう働きかけるのである。そこにこそ、ODAがつぎ込まれるべきである。
もはや巻き込まれてしまった人達については、人道的援助などで対応せざるを得ない。しかし、全く望んでいないにもかかわらず、日々、嫌がおうでも資本主義的価値観に巻き込まれている現状は、どうしても、いただけないのだ。私がベトナムで目撃しているように、外国資本が入り、コカ・コーラの工場ができれば、伝統的な砂糖きびジュースは、保存のきくコーラに市場を奪われていく。止むを得ず、砂糖きび生産で平和に過ごしていた現地の人たちは、コーラ工場で単純労働をするようになる。ジャーナリストの鎌田氏に言わせれば、人間が機械の真似をする「コーラ絶望工場」とでもなるだろう。これでは、まさに「経済侵略」だ。この、先住民(=本質的に発展的な人たち)に有無を言わせない流れを、止めねばならないのである。
まずは、「発展途上国」「先進国」ではなく、パラダイムシフトの一環として、"natural country"(自然国)と"artificial country"(人工国)といった名前に呼称を変えよう。現在の先進国がすべて、地球に対しても他の生態系に対しても、そして人類に対してさえ、もはや先進的とは言えないからだ。
欧米や日本でハイレベルの生活水準を保ちつつ、自ら「先進国」という言葉を使う人間は、自らが地球に課している負荷の大きさを考え、発言の無責任を感じるべきである。
パラダイムシフト後に「先進」と呼ばれるべき住人像とは、農村で、環境と調和し、心豊かに平和に暮らしている、非常にサイクリカルな人々なのだ。彼等は、環境汚染をすることもなく、明らかに人類全体に貢献し、より発展的な、デベロップした生活を送っているのである。我々、超「人工国」に住む日本人は、現在、大変な発展途上国に住んでいるのだ。
発展のベクトルを根本的に変え、「聖域論」を提唱することができるか。それとも、飼い犬にエサを与えるかのように、騙し騙し「援助」を与え続け、自らの首を絞めるのか。
長期的展望にたった根本的な理念を提示することもなく、ただ対症療法的にODAをばらまき続けるならば、それは国際的批判をかわすためのレトリックの域を脱しないだけでなく、資源小国・日本の長期的国益に反する結果となるだろう。