「平気で嘘をつく人たち」/草思社/96年/森英明 訳/83年、M・スコット・ペック
◆これは時代をとらえた本である。話題になるのも納得で、目から鱗が落ちた。日本企業の社畜にはこの本に登場するような人々が沢山いるからだ。「病気とは、『人間としてのわれわれの潜在的能力を完全に発揮することを妨げる、身体および人格の構造内に存する欠陥である』と定義すべきだと考えている」とのフレーズに感動した。また「邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を破壊する力を振るうことである、と定義することができる」というのも、日本のサラリーマン管理職にぴったりである。これを読めば、邪悪性に満ちた日本企業の体質に染まる必要がない根拠を1つ持つことができる。
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「フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望ーー他人を支配可能なものにし、その人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑えこんでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その著「悪について」のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものでる。」
「その子以上にその子の親のほうが病気だということが明らかになるのが普通である。親のほうは、矯正が必要なのは子供のほうだと考えているが、通常は、そう考えている親自身が矯正を必要としていることが多い。患者と呼ばれるべきは親のほうなのである。」
「自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れ続けようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送り込む必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。・・・本書がその命題のひとつとしていることは、邪悪性を精神病の一形態として規定できないか、これを、すくなくともほかの大きな精神病に向けられていると同程度の科学的研究の対象にすべきでないか、ということである。」
「あるものに適切な名称を与えることによってわれわれは、それに対処する際の力を相当程度に得ることができる。」
「私は犯罪者と呼ばれている受刑者たちの治療に長年あたってきたが、こうした人たちが邪悪な人間だと意識したことはほとんどない・・・罪というのは、絶えず完全であありつづけることができなかったというだけのことにすぎない。絶えず完全でありつづけることはわれわれには不可能なことであるから、われわれはみな罪人である。・・・これにたいして、私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。」
「前著「愛と心理療法」のなかで私は、悪とは、「・・・精神的な成長を回避するために政治的な力を行使すること」ーーすなわち、あからさまな、または隠された強圧をもって自分の意志を他人に押しつけること」であると定義した。
「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである。彼らは社会的規範というものにたいして、また、他人が自分をどう思うかについては、鋭い感覚を持っている。」
「「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって、「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている。これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。・・・我々がうそをつくのは、正しくないと自分で気づいている何ごとかを隠すためにほかならない。うそをつくという行為の前に、なんらかの良心が基本的なかたちで介在するのである。」
「「転落の前にうぬぼれあり」とはよく言われることであるが、いうまでもなく、一般の人がうぬぼれと呼んでいるものは、しゃれた精神医学用語でいう「悪性のナルシシズム」のことである」
「外に現れる邪悪性の姿は、一見して普通の、表面的には正常な、しかも、見たところ合理的なものとなることがはるかに多い。前にも書いたとおり、邪悪な人間は変装の達人である。」
「邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通して見られるのが、愛を装うことである。これは、それとまったく正反対のものを隠そうとするものである以上、当然のことである。」
「邪悪性のもっとも典型的な犠牲者となるのが子供である。これは、子供というものが最も弱い存在であり、社会の影響を最も受けやすいものだからというだけではない。親というものは子供の人生にたいしてほぼ絶対的な力を行使するものだということからも、当然のこととして予想されることである。奴隷にたいする主人の支配と、子供にたいする親の支配とのあいだには、それほど大きな違いはない。」
「邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い人間である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。犠牲となる相手にたいしてなんらかの支配力を持っていなければならない。この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供にたいする関係である。」
「あるものにたいして的確な名称を与えることによって、われわれは、それに対処するに際して必要な力を相当程度に身につけることができる。その名称を通じて、それを特定し、認識することができるからである。」
「精神的にも最も健全かつ高い域に到達している人が、普通の人が経験する以上の苦悩に苦しむことを要求されることは多い。偉大な指導者というものは、賢明かつ正しい人間であるならば、普通の人間にははかり知ることのできない高度の苦悩に耐えていることが多いものである。」
「彼らを支配しているのは、健全性、完全性という外見を維持するよう絶えず彼らをむち打っている、口やかましいナルシシズムである。・・・何が彼らにとりついているのだろうか。何が彼らを動かしているのだろうか。基本的にはそれは恐怖である。彼らは、その見せかけが破れ、世間や自分自身に自分がさらけだされるのを恐れているのである。彼らは、自分自身の邪悪性に面と向かうことを絶えず恐れている。あらゆる情動のなかで、恐怖は最も苦痛の大きいものである。」
「邪悪な人たちが苦しんでいるかは別にしても、苦痛という経験は主観的なものであり、苦痛の意味は複雑なものである。したがって私は、病気や疾病を苦痛という観点から規定しないほうがいいと考えている。病気とは、「人間としてのわれわれの潜在的能力を完全に発揮することを妨げる、身体および人格の構造内に存する欠陥である」と定義すべきだと考えている。」
「前に私は、邪悪性を「・・・精神的な成長を妨げるために政治的な力を行使するーーすなわち、あからあさまな、あるいはひそかな強圧をもって、自分の意志を他人に押しつける」ことであると定義した。」
「人間は、ストレスを受けたときに退行するだけでなく、集団環境のなかにおいても退行を見せるものである。」
「殺しを行わなければならないときには、それに伴う苦痛や苦悩を真正面から受けとめるべきである。さもないと、われわれ人間全体が、自分を自分の行動から隔離することによって邪悪なものになってしまう。なぜなら、悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるものだからである。」
「われわれは、知的怠惰から、科学的思考というものが趣味や好みと同様にそのときの流行に左右されるものだ、ということを忘れ去っている。」
「邪悪な人間はみな同じように見える。本書の第3章で私は、邪悪なパーソナリティーを臨床的、疾病分類学的に描いた。この私の描いたパターンに邪悪な人間がいかにぴったりあてはまるかは驚くほどである。一人の邪悪な人間を見れば、基本的にすべての邪悪な人間を見たことになる。だとするならば、なぜこれまで精神医学者は、この歴然とした、固定したタイプを見分けることができなかったのだろうか。それは、邪悪な人間の身につけている体面の仮面にまどわされ、彼らの「健全性のマスク」にだまされているからである。
「悪の治療はーーそれが科学的なものであれ、ほかのかたちのものであれーー個人の愛によってのみ達成しうるものである。みずから進んで犠牲となる者が必要である。治療にあたる人間は、自身の魂を戦場にすることを覚悟しなければならない。みずからが犠牲となって悪を「吸収」しなければならないのである。しかし、治療にあたる人間自身の魂の破滅を防ぐものは何であろうか。悪そのものを、やりのひと突きを受けるように自身の心臓に取り込むとすれば、その人間の善なる心はいかにして生き残ることができるというのであろうか。これによって悪を打ち破ることができたとしても、それと同時に善までもが破壊されるのではなかろうか。こうした、ある意味では無意味な相殺関係を超えて何が得られるというのだろうか。こうした問いに対して私は、神秘主義的な言葉をもって答える以外に答え方を知らない。私に言えることは、そこには犠牲者を勝利者にするある神秘的な秘術がある、ということだけである。犠牲者が勝利者になるといったことが、どのようにして起こるのか私は知らない。しかし、それが起こることだけは知っている。善良な人がみずからの意志で他人の邪悪性に刺されーーそれによって破滅し、しかもなお、なぜか破滅せずーーある意味では殺されもするが、それえもなお生き続け、屈服しない、ということがあることを私は知っている。こうしたことが起こるときには、つねに、世界の力のバランスにわずかながらも変化が見られるのである。」
1978年に出版「愛と心理療法」
「三百万部を超えるベストセラーとなり、その後十三年以上の長きにわたってニューヨークタイムズ紙ベストセラーリストに掲載されつづけるという、文字通り聖書に次ぐロングセラーを記録している本である。」