数字は嘘をつく
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経済記者の現場から(15)              <115>
「数字は嘘をつく」

「私は、あの新聞記者に対し1%のインスピレーションがなければ99%の努力は無駄だと言ったのに、新聞には1%のインスピレーションの重要性ではなく、99%の努力に焦点をあて、私を努力の人と美化し、私の成功の秘訣をまったく違うものにしてしまった。まったく困ったものだ」(米「サクセス・マガジン」1898年2月号)

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力の賜物である」(THOMAS EDISON)にまつわる、新聞記者の本質が見えてくる話。数字は使いようによって全く違う意味を持ってしまう良い例だろう。

 新聞記事中の数字は、間違うと訂正を出さねばならないので、記者は非常に神経を使う。企業の決算数字など、指摘されたら、いいわけが通用しない。数字自体に解釈の違いは有り得ず、議論の余地がないからだ。だから、読者は数字を信じる。数字は嘘をつかないだろう、と。しかし、実際はそうでもない。 

 最近、「『シリコンアイランド』と呼ばれてきた九州が、メモリー市況悪化の直撃を受けている」という、いかにももっともらしい記事を書いた。短月の半導体生産額が7カ月連続で前年割れとなり、9月には前年同月比で2割減にもなった、数量も4カ月連続で前年割れだ、という危機感を煽る内容。だが実際には、生産額はここ7カ月の間、ほとんど増減がなく一定を保っている。要するに、去年の同期間における伸びが異常だったのである。前年同月と比べるからおかしいのだ。しかし新聞というのは見出しがとれないと困るので、もっとも極端なところだけを使うのである。前月比ではなく前年同月比のことしか書かない。だから、業界の人間は騙されなくても、読者は騙されてしまう。

 数字のマジックがよく利用されるのが、百貨店の売上高だ。「9月の百貨店売上高、4.2%減」といういかにも景気の悪そうな見出しの記事(九州面)があったが、これは同一店舗比でのこと。昨年10月にオープンした三越という大御所が入っていない。三越を入れると1%増で、全く逆の結果になる。百貨店など、同じブランドの同じ品が様々な店舗で売っているのだから、その地域でどれだけ売れたかの方が実質的には重要である。しかし三越の話は、最後に1行、書添えられているだけだから、よく読まないとわからない。

 時には事実でない数字まで、方向性の統一や「もっともらしさ」の確保のために、捏造して報道される。日経新聞に「NECが、64メガビットDRAM(パソコンなどに使うメモリー)を、99年3月に月産1500万個に引上げる計画だったが、それを1000万個に下方修正した」という記事が載っていたが、これは嘘であることが取材過程でわかった。他社が市況悪化で64メガの生産子会社を売却したりする流れに合わせて強引に造り上げたものだ。確かに64メガは需給バランスが崩れ採算割れ寸前なので、下方修正は「なるほどやっぱり」と読者に思わせる。しかし、NECに限っては、最大の生産拠点である熊本でも年度末までに月産50万個を増産する計画を変えておらず、増産基調を保っている。そもそも1500万という計画数字は全く存在していなかった。

 しかし、この虚報に対して訂正は出ていない。一般的に、企業は、よほどの実害を受けるケース以外では、マスコミとの関係を保つために、記事の訂正は求めない。そして、それは大企業になればなるほど、甘くなる。迷惑なのは、読者だけである。その後、1500万という数字は記者の自粛で紙面に一度も出ていない。

  ◇ ◇ ◇
 問題は、なぜこうなるのかである。私は、ニュース性の価値判断の方法、そして新聞というメディアの量的な制約が原因だと思う。

 俗に「犬が人間を咬んでも記事にならないが、人間が犬を咬むと記事になる」というように、ニュース性というのは、読者の了解可能性と反比例する。日常の惰性的な行動と反対のもの、全く理解できないものは、ニュース性が高い。

 これは、自分が回りの人間の行動に対してとる反応を考えてみれば分りやすい。銀行強盗のように、カネ目当てで暴行の挙に出る、という事件は分りやすくて安心して見ていられるが、動機がわからない事件は人間の心に恐怖を生む。だから、謎の多い事件はいつまでも大きな扱いで記事が量産されるし、それこそ、そこらへんの人間が突然、犬を噛み始めたら大ニュースになるのである。

 同様に、少しでも日常から逸した事実に見えるような見出しを立てれば、それはニュースになる。だから、事実の極端な部分だけを切取って、誇張して書くことになる。しかも、数字が利用されることで、その部分的事実はもっともらしくなるから、多用される。勿論、物事の本質からは逸れるが、こうしたテクニックは新聞社という組織内では、記事の価値を高めるとして、評価される。

 こうした技術は、読者に読む気を起こさせる。そして、恣意的であったとしても、書いてあることは分りやすくなる。この分野では東スポは天才的な能力を持っているが、経済紙では、それが数字という形で利用されているだけであって、本質的に大差はない。

 さらに、新聞のように、ニュースがあろうがなかろうが、半日単位という短い周期で一定の紙面を埋めねばならないメディアでは、必要な技術とさえ言える。ICの話で言えば、「生産高は7カ月間、ほぼ同一水準を保っている」などという事実は、平穏無事な明るめの事実ではあるが、簡単に了解できてしまうので、ニュースにはならない。当然、「前年比でマイナス続く」という事実をニュースとしてでっち上げる。両者は事実の両面だ。このように、恣意的に利用されやすいという性格を知った上で読むのなら被害も少ないので、数字のある記事も、一概に悪いことばかりではない。

 数字を過信することだけは禁物で、裏には何か記者の陰謀が隠されていると考えた方がいい。まずは疑う。どうして記者がその記事を書いたかを考える。そこに使われていない数字を考えてみる。裏にこそ知るべき事実は隠されているものだ。利用されている数字に強引さを感じ、また意義付けの文章がいかにももっともらしいと思ったら、「ああ、大したネタもなく、困っているんだな」という程度であざ笑ってやる。

 新聞など、「ふん、何を大げさな」とバカにしながら読むことが大切なのである。