「イルカと墜落」/沢木耕太郎/2002年、文芸春秋
やはり、人間には、目に見えない何かが、深層心理と現実世界を結び、影響を及ぼしあっているのだろう。シドニー・ポスエロ氏のファーストネームを「死度新」と漢字で当てはめた沢木に対し、「フェニックスということなのかな」と答えたポスエロ氏。二人は後に、一緒に墜落することになる。さらに沢木氏は、事故の前日、「いつ人生が終わってもいいという感じがあるんです」と書いていたし、「何か別の利用のされ方をすることがあるのではないか、と不安になった」として旅の前に、一度は留守電メッセージを消していた。
それにしても、ポスエロ氏の活動は興味深い。ポスエロ氏の聖域を作ることを目的とした活動とその考え方は、私がベトナムとカンボジアを旅した際、ずいぶん考えさせられた上での結論であった。ブラジルだけでなく、アフリカやユーラシアなどでも同様だし、もっと国際機関で真剣に話し合われるべき問題であることは間違いないだろう。司馬遼太郎が描いたモンゴルの遊牧民族のように、欲のない民族に、無理やり文明の恩恵とやらに浴させる必要は全くないし、その結果、世界を破綻に導くことは疑いがないからである。世界中の人間が日本やアメリカの平均的な生活をしたら、地球環境はその負荷に耐えられないのだ。(2002年4月)
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何人かのジャーナリストにポスエロ氏が語ったところを整理すると、彼の仕事は未接触のインディオに注意深くコンタクトし、インディオの生活をそのまま維持できるよう心を配ることであるらしい。その究極の方策は、未接触インディオの生活圏を保護区域として、全面的にブラジル人の立ち入りを禁止することである。金鉱堀りも、木材伐採業者も、牧場主も、遺伝子ハンターも、すべて締め出す。そのため、産業界をはじめとしてあらゆる階層の人から嫌われている。どうして何十人、何百人のインディオのために、豊かな資源が眠る土地を封鎖してしまうのか。その憤懣は「原住民を人間の進化の最初の段階に止めておくのは残酷で偽善的だ」というヒューマニズムの仮面をかぶって表現されたりもする。インディオも文明の恩恵に浴させるべきだ、というわけである。しかし、ポスエロ氏はそれに対して常に「ノー」と言いつづけている。ブラジル人社会に接触した部族はほとんど崩壊してしまう。だから、いま在るがままに暮らさせてやるべきだと。
ポスエロ氏は、三島由紀夫そのものというより、切腹という死に方に強い関心を示した。「ハラキリと拳銃による自殺は違う。拳銃による自殺は逃亡だが、ハラキリは攻撃的な自殺だ。地位ある人がハラキリで責任を取るなら、それは拳銃による自殺とは比べ物にならないくらい深いものになる。ミシマのハラキリもそうだったのだろう」そのポスエロ氏の意見に対して、私はささやかな異議を唱えた。三島由紀夫の切腹に関しては、行為の責任というより、自分の美意識を優先させた結果であるように思える。つまり、彼は彼の美を実現するために切腹したのだ。私が言うと、ポスエロ氏が身を乗り出すようにして言った。「そうか、ミシマのハラキリについての君の意見はよくわかった。しかし、実は私の理想も美を実現することなんだ」「どういうことですか」私にはポスエロ氏と美という言葉がすぐには結びつかず訊き返した。「インディオが喜んだり笑ったりするという自然な状態にあることがアマゾンにおけるひとつの美なんだ。そしてその美を存続させることが私にとっての美なんだ。人は絵を描いたり文章を書いたりして自分自身の美を表現する。だが、私は絵を描いたり文章を書いたりできないから、インディオの美を存続させることで私自身の美を実現させているだけなんだ」それを聞いて、私にはどこか深く納得するところがあった。ポスエロ氏のインディオに対する献身は、人道のためだとか正義のためというより、まず自分自身の美のためだという。なるほど、ポスエロ氏は「地獄の黙示録」のカーツとは違っている。
私たちがコンタクトをしたアララという部族の中で、いまでも元気なグループはひとつしかない。それは彼らが孤立していたおかげだった。その他のグループは、ブラジル人社会と接触することで、下層の人々の悪習にすぐ染まってしまったのだ。つまり、みな酒を飲むことを覚え、博打をするようになり、いつも酔っ払ってケンカが絶えなくなってしまった。しかし、部名と接触したイソラドは酒や博打で破滅するだけではない。土地をなくし、神話を失い、生きるすべを喪失し、健康を損なう彼らは、文明の前に立ちすくんでしまう。それは彼らがインディオとしての誇りを失ってしまうからだ。その結果、彼らは白人の言葉を必要とし、みじめに頼るようになる。
聞いた話のなかでもっとも気になったのは、ワールド・トレード・センターにいた富士銀行の日本人幹部が、最後まで残って見届けるようにという社内マニュアルに従ったため行方不明になっている、というニュースだった。正確には、「幹部は現地採用のアメリカ人や日本人行員、若手行員を先に避難させる」というものだったらしい。そんなマニュアルに従わずさっさと逃げればよかったのに、とは私は考えない。我先に逃げ、誰かが死ねば、一生悔いることになるだろうからだ。そして、もしそれが私であっても最後まで残ろうとすると思うからだ。たとえ、そんなマニュアルがなく、すぐに逃げろということになっていたとしても、私は残るような気がする。マニュアルの問題ではなく、上に立つということはそういうことだという感じがあるからだ。普遍的ではないにしろ、少なくとも日本人的な感覚として、それはある。
とりわけよくしゃべったのは私だった。墜ちてから病院に到着するまでを詳しく話した。なかには、スガイ氏やワタベ氏が知らないことも少なくなかった。二人がそれは見ていない、覚えていないと言うたびに、シモガキ氏にどうしてそんなに克明に覚えているのかと不思議そうに訊ねられた。それは私の職業的な習性と考えられなくもない。しかし、むしろそれは私の本性というようなものだった気がする。どこかでそんな事故に巻き込まれてしまった自分を面白がっている私がいて、それが私を取り巻くすべてをじっと見ていたような気がするのだ。