「時空間を操る」 ケープタウン(南ア) '96.3
【夜は減らせる】
世界をくるりと一周した。もちろん、陸路を多用したかったが、時間の制約から、止むを得ず空路を多用することにした。西へ行くか、東へ行くか。どちらでも同じかというと、実は、飛行機を使う旅人にとっては、かなり重要な違いがある。
地球上を西へ西へと転々と旅していくと、だんだん『早寝早起きになったな』と感じるようになる。着いた日になかなか夜にならない。原因は、時差の分だけ1日が長くなるからだ。例えば、日本とマレーシアなら、時差は1時間。従ってマレーシアに着いても、日本よりも日が暮れるのが1時間遅いわけである。
「1日は24時間だが、体内時計は25時間」という話をどこかで読んだ。普段の生活で、理性を働かせずに自然に任せておくと、毎日少しづつ夜更かしするようになるのは、このためだろうか。特に、学生という暇な身分では、寝る時間が3時、4時、5時となり、さらに9時、10時となるうちに、もういいや、とばかりに寝るのを夜まで延期して、丸1日、得(?)をしてしまうことがある。これは浪人生の時に、よくやったものだった。だが、西へ西へと、1日あたり、時差が1時間分の距離だけ旅していくと、それと全く同じことをしていても、太陽が着いてきてくれるわけである。宵っ張りの私にとっては、『なんと便利なんだ』との素朴な感動がある。もちろん、太平洋を飛び、日付け変更線を超えた瞬間、人為的な日付けは、1日進んでいる。地球を一周すると、確かに、人生のなかで一回、夜の数を減らしたことになるのだ。
逆に、東方向へ旅すると、すぐに夜が来てしまう。現地の人々は寝静まっている時分に自分の目はギラギラしており、現地ではナイトライフばかりを多く経験しがちだ。従って、現地人の昼間の日常生活をかいま見たければ、旅は東よりも西に向かう方がいいということになる。
【明るさは操れる】
あまり夜が好きでない私には、もう1つ気付くことがある。マレーシアのクアラルンプルから南アのヨハネスブルクまでは、約10時間のフライトで、時差は6時間だった。ケープタウンからアルゼンチンのブエノスアイレスまでも、約10時間かかり、時差は5時間。およそ2:1の割合である。
つまり、飛行機の高度を考慮しなければ、普通の飛行機は、地球の自転により宇宙の中において地表が移動しているスピードの約1/2の速さで飛んでいる(移動している)わけである。従って、今の2倍の速度で飛べば、地球の回転と同じ速さで移動できることになる。そうすれば、太陽が大好きで、正午の明るさを常に保ちたいと思う人は、常に自らの居場所を正午の状態に保てることが可能なわけだ。それにしても、地球とは、何て速いスピードで動いているのだろう。
赤道上は、一周が四万キロ。二十四時間で一周するのだから、時速千六百六十六キロ。このスピードで飛び続ければ、どんなに西へ行っても時間は全く変わらないわけだ。従って、マッハ2.2で飛ぶ最新の戦闘機は、ゆうに地球の回転速度以上で移動できる。それさえ所有すれば、北極など寒いところにいなくとも、夜のない生活が送れてしまう。高速旅客機を所有する者は、昼と夜を操れる。人類は、明るさを操れるのだ。
パリ、ニューヨーク間のコンコルドに乗っている人たちは当然、JFK空港に着いたときに壁の時計を見たら、パリを発ったときよりも前の時間の住人になっているわけである。
ただ、常に同じ明るさを保てても、飛行機に乗っている時間が長いため、あまり得した気分にはなれないし、移動の疲れというのは相当なものであることも、重要なファクターである。
【ET】
旅は、『終わって見ればあっという間だった』というのが多くの人が抱く感想だろうが、旅行中は長く感じるものだ。特に冒険的な旅を試みるバックパッカーにとって、その思いは強い。
これは、初めての地で宿の予約もなく、どこへどういった手段で足を延ばすかも定かでないために、不安と期待から心が興奮ぎみであること、また様々な刺激を受け、色々な思索を重ねるため、脳もフル回転だからだろう。
同様の事象は、高速道路を運転している時にも生じる。時速120キロで運転していて、『〜まで、あと60キロ』の表示が見えると『あとたったの30分か』と思うのだが、この30分が、とにかく長い。命がかかっているため、手に汗握りながら神経も右脳(感性)も左脳(理性)も集中しているからである。
こういった事例からも、客観的に時計で計った時間が、人間の生活の中であまり重要でないことが認識されよう。逆に言えば、人間は、感情的な時間を正確に認識することにより、人間的な生活を豊かにできると言える。私は、これをET(Emotional Time=感情的な時間)と呼ぶことにしたい。
それでは、ETでどう感じることが、より人間的と言えるのか。それは旅で言えば、冒頭に述べた通り、その期中はフル回転で活動するために「時間が長い」と感じ、終った後から振返れば、その充実感・満足感から、「短かったな」と感じることだろう。
これは仕事に例えれば、終った後に、皆がETで短く感じるようになれば、その企業の従業員の満足度は高まり、企業自体もより成長することになる。また、ETが短ければ、人間関係は良好ということだ。
客観的な時間の無意味さを指摘した名著に、「象の時間・ネズミの時間」(本川達雄著)がある。本川氏によれば、動物は「体重」と「寿命」が比例し、一生の心拍数はほぼ同じであるため、象もネズミも、彼ら自身が主観的に感じている時間は同じ長さであるというのだ。物理的な時間の流れはどの生物にも共通だが、生物的な時間を刻む体内時計の目盛は、種ごとに決まっているというわけである。
しかし、同じ動物でも、やはり人間は違うと思うのだ。脳が圧倒的に発達し、大きくなっているため、人間の主観的時間は、心拍数では計れない。それよりも、脳の働きに依存したETを基準に考えるほかに、人間的な時間の概念は有り得ないはずである。
脳に依存しているからこそ、人間にとっての主観的時間には、個人差が大きい。眠っている間は脳が寝ているので、時間が過ぎるスピードが最も速い。無理矢理、起きていても、脳が半分寝てしまっている場合もある。そこで人間には、いかにETを有効に使って人間らしく生きるか、というノウハウが必要になる。最近、「脳内革命」「超・整理法」といった「脳」・「時間」についての関連本がベストセラーになっているのは、まさにその欲求に基づいたものと言えよう。
物理的な時間である時計に振回されるだけの人生からの脱却。旅は、ETという大事な概念を教えてくれる。
【インターネット】
アルゼンチンのブエノスアイレスへ発つ前夜、ケープタウンの街で夜道をさまよっていた。10時を回り、人気もなく、多くの店が閉まっている。ふと「インターネットカフェ」の看板が目に入った。随分、夜遅くまでやっているものだ。
「南アにまであるのか」と思いつつ、好奇心から入る。ケープタウンは白人が多く、彼等の間ではコンピュータも普及していると見える。ジュースやケーキなどを頼んで、2時間ほどで計56R(約2千円)。物価水準を考えれば、適当な価格だろう。
ここで改めて感じるのは、外国の端末では日本語は読めも書けもしないことだ。やはりインターネットは英語なんだと、つくづく思う。仕方がないので私は、以下のようなメールを送った。
To all my friends in Japan.
Hello, I'm Masahiro Watanabe.
It's noon in Japan maybe, but night in South africa. not cold, not hot, moderate here. I went to "the cape of good hope" today.
Now I'm in the internet cafe in Cape Town. I can't read or write Japanese in this machine.
This time is the hardest travel in my all experience. I've been deceived in Malaysia, robbed of all money in Yohanesburg and went to Japanese embassy in Pretoria to borrow money. I've got much experiance and memory, but can I come back to Japan?
Yohanesburg is very dangerous and exiting city. I can't take photo, because if I take,the black people kill me maybe.
In the shopping mool,three black men squeezed my neck and robbed me of my wallet. It's better the black be in prison or all time with gold chain, because there are much gold in South africa. They are too dangerous to let them walk around freely .
I am a little worried if I graduate from sfc. If I will not come back, you should think I'm not in this world. Good bye.
これを読んでいただければわかるように、何とも拙い英語である。それでも私は、受験英語エリートであることを自認している。日本の受験英語は、「読む」ことだけに特化し、「書く」「聞く」「話す」をほとんど無視しているのだ。これは、徹底的に見直してバランスをとっていただきたい。
英語力がインターネットの世界において、どれほど重要なファクターであるかを、ケープタウンで、改めて思い知った。それでも、地球上のどこにいても一瞬にしてメールが送れてしまうという、この革命的なツールの威力には、驚くばかりだ。
インターネットは、空間を選ばない一方、時間も選ばない。まさに、「時空を超える」のである。高度な輸送技術は明るさを操り、高度な通信技術は時空を超える。いかに人間的な時間(ET)を有効に過すかというノウハウを身につけ、地球規模で活動できる時代になっている。我々は、なんとも、エキサイティングな時代に生きているものである。